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「言葉は無力だ」問題

大学一年生のとき、先輩に「人生で一番大切にしたいことを3つあげて」と言われた。

19歳だったわたしは、「言葉と家族と素直」と返した。

なぜ?と聞かれて何かを答えたのだろうけれど、どういう理由を話したのかは、忘れた。

言葉をあつかう仕事をしていると、日常的に「言葉は無力だ問題」にぶち当たる。

どんなに言葉を尽くしても語りきれない真理は、何歳になっても、文明の利器が発達しても、永遠にわたしたちの前に横たわっている。

むしろ、「言葉にできない」「言葉にならない」と感じる瞬間が、生きている時間が長くなればなるほど、増えていくように感じる。

19歳のわたしはきっと、言葉のちからを無邪気に信じていたのだと思う。その無垢さで、きっとたくさんの人を傷つけたのだろう、とも。

言葉にしなければ、伝えられないことがある。

言葉にしてしまったら、伝わらないことも、ある。

どうにかして言葉にしたいのに言葉にできずに伝えられないことだって、大いにある。

同時に、我々は言葉以外に、思いを伝える方法を知っている。

言葉以外のものでも、伝えたいことを代弁してくれることもある。

言葉を持つ我々は、言葉を持たない生きもの──どうぶつや草や木の雄弁さに、ときおり嫉妬したり圧倒されたり、救われたりする。

「言葉は無力だ」と、白旗を上げるのは容易い。

でも、向き合うことをやめてしまうと、言葉という魔物に、とり憑かれてしまうような気がして。

言葉が文字通り“無力”だと信じている人にとっては、言葉をいくら他人に投げても相手は痛くもかゆくもないものだと、無味無臭なのだと、麻痺してしまうだろう。

人間が、四足歩行から二足歩行になって、歌うことや踊ることを発明して、絵を描くことを身につけ、言葉もその流れのさなかで生まれたのだ。

人間は、もともと言葉だけに頼りきるどうぶつではない。

同時に、言葉がないと、人間ではなくなってしまうのではないかな。

少なくとも、ヒトではあるとして、“人物”ではなくなってしまうような気がする。

「言葉はなんて無力なんだ」と絶望する日は、茶飯事だ。

でも、言葉が無力であることは、自明の事実なのだね、きっと。

「言葉は無力」であることが問題ではなくて、その事実にあぐらをかくことの方が、問題なのかもね。



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