弱点と古傷

この週末は訪問スピリチュアルケア専門講座の受講日。
(この場合のスピリチュアルとは「スピリチュアルペイン」のことで、終末期には特に感じやすい、存在や生死に関する哲学的な問いや悩みのことを指す)

人の話を聞くことでケアをするのだが、まずは聞く前に自分のことを知らなければいけない。
自分の弱い部分を自覚することで、人の話を聞いて予想外に心が揺れた時、状況を俯瞰して自らを落ち着かせることができる。
ケアする方はいわば器であり、場合によってはサンドバッグになる可能性もあるわけで、それをまともに受け取り続けたら身が持たない。
自分の急所や弱点を知るのはケアする相手のためだが、ケアギバーを守るためでもあるのだろう。

というわけで、昨日のカリキュラムは講座のハイライトになる「生育歴」。
子供の頃、10歳くらいまでの自分を振り返り、心が揺れた出来事を感情の動きを中心に振り返って文章化し、それをグループ内で読み上げる。
聞いたメンバーは、それを聞いてどんな感情が湧き上がってきたかをシェアし、発表者に質問をする。
最後に発表者の感想と、今の感情をシェアするというものだ。

「今どんな気持ち?」を言語化するのは思ったよりも難しい。

人の話を聞いた後に「今どんな気持ち?」と言われてつい言ってしまいがちな「すごい」「素敵」「頑張ったんだね」「楽しそうだな」は感情ではなく感想だ。
感情とは、「嬉しい」「悲しい」「つらい」というようなものだ。
すべて「私は○○」と主格で語れる。
感想は「私は○○と思いました」となるので、ここに明確な違いがある。

普段から感情を表現している人は意外と少ない。
特に日本人はその傾向が強いように思う。
一人称で語る感情は場の空気を壊しかねないし、ワガママだと思われることもある。
職場で「仕事つまんない」と感情を露わにするのは社会人として問題だと思われるだろうし、ママ友とのお茶会を「めんどくさい」と公言したら後が怖い。
日本の社会構造は、感情に蓋をして、解釈や感想という大義名分や建前で回るように出来ているような気がする。

でも、結局人を動かすのは感情だ。
自覚していない感情のせいで、身体を壊すこともある。
なぜだかわからないけど涙が出たり、喉の奥がギュッと詰まったりするのは、すべて感情によるものだろう。

自分の生育歴を読みながら、いつもより声が震えるのがわかった。
何度も振り返り、その度にボロボロと泣いてきたような、幼少期の出来事も書いた。
でも今はもう泣かないし、声が震える程度でおさまっている。
似たような経験をした人の話を聞いても、今ならもう、大きく心が揺れることもないだろう。
私の弱点は、今ではもう古い傷跡のような、たまに疼くけど懐かしいものに変わったのだ。

豊かな人生のために、ファッションのスパイスを。 学びやコーチングで自分の深掘りを。 私の視点が、誰かのヒントになりますように。