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受け止めることと、表現することと。

現在、私は「写真家」を名乗っている。

もともとは小学校の保健室の先生だった。
去年は、高校の保健室の先生であり、写真家だった。

自分でも何がしたいのかよくわかっていなくて、
したいと思うことを全部やってみた結果、
余計わからなくなって、
ちょうど出産が近いということもあり、
今はほとんど何もしていない。


今日は、昔話をしようと思う。
誰も聞いてくれなくていい。
今回は、自分の整理のためにだけ書いている。

*と*で挟まれている部分はどうぞ読み飛ばしてください。


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厳しくて、余裕がない、そんな両親の元、4人姉妹の長女として育った。

罵声されることや殴られるのは当たり前。
「言ってわからないやつは動物と同じで叩いて覚えさせるしかない。」という論理の元、ことあるごとに殴られた。
飼っていた犬も、私と一緒に殴られていた。

小学校に入る頃には、「自分なんていない方がいい。生きていても害しかない。」
と思っていたので、いじめられた時には、「やっぱり。」としか思わなかった。

上履きがなくなっても、靴に泥水が入っていても、教科書がビリビリでも、水をかけられて体操服で帰っても、両親は何も言わなかった。
気づかなかったのかもしれない。
もともと未熟な両親が4人を殺さずに育てるには、それくらい余裕がなくなるようだ。

簡単に「最低3人産め」という政治家には、心底呆れてしまう。

そんな時助けてくれたのは、私の作品「忘れていいよ。」の被写体である、おばあちゃんだ。

受け止めてもらえる体験をした私は、いつからか、自分も受け止める側の人間になりたいと思うようになり、保健室の先生として、子どもの居場所の一つになろうと思った。

仕事はやりがいもあり、充実していたが、
虐待やいじめを受けている子どもたちと向き合うことは、自分の過去と向き合うことでもあり、その過程で双極性障害とパニック障害という精神疾患を発症し、療養のため休職を経験した。

復帰して順調に勤務していたが、異動のタイミングで、校長から、
「異動してすぐ妊娠なんてしないくださいね。異動先で迷惑がかかるから。」と言われた。

当時30歳。
初期流産の経験もあり、検査で不妊症であることもわかっていた。
子どもが欲しいけど、仕事も辞めたくない。

でも、もし妊娠できたとしても迷惑がられ、産休育休手当をもらうことでもぐちゃぐちゃ言われることが嫌で、辞めてしまった。
5年以上も前の話だが、現場では未だに同じことが言われているのだろう。

休職中、古賀絵里子さんの「浅草善哉」という写真集に出会い、
感動し、趣味で写真を始めていた。

退職後、写真を撮ることが増え、いつからか「写真家」を目指し作品を撮るようになっていた。昨年、「夜明け前」という双極性障害をテーマにした作品で、名取洋之助写真賞奨励賞をいただき、写真家としてスタートラインに立てた所にいる。

が、志半ばで退職した「保健室の先生」という仕事にも未練があり、昨年1年は高校で働いていた。

仕事の任期も3月で終わり、7月に出産を控えていて、今はぼーっとしている。

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さて、私は何がやりたいのか。
これから何をやっていこうか。

保健室の先生という職業で、特に何がしたいかというと、
子どもたちを「受け止めること」だ。

頑張っていることも、その子の課題も、抱えている辛さも、その子が発してくれている全てを受け止めたいのだ。

受け止めるプロになりたくて、公認心理師や精神科医を目指したい気持ちもある。
それくらい、誰かを受け止めて、その人の未来のために伴走していくことに価値を感じている。

同時に、もどかしさを感じる面もある。
受け止めることには限界があり、一人で働いて伴走していく人数にはかなり制限がある。

また、受け止める際には、私の価値観や考え方は、時には邪魔になるので、
先入観をなくし、目の前の人とまっさらな気持ちで向き合うことが必要になる。

一方、表現することは、私のバイアス入りまくりの、エゴ入りまくりである。

それは、とても怖いことで、「私はこういう価値観で、こういう考えだ!」というのを全面に出していくことになる。
否定されることも、もちろん生じるだろう。

ここまで書いてきて、やっとわかったことがある。

私は、自分を否定されることに、怯えていたんだ。

「人を受け止める側の人間」でいることは、私にとって、ある意味安全で安心な場所だったのかもしれない。

自分を出さなくていいし、誰からも否定されない。



写真家と演奏家は似ていると、思った。

演奏家は、楽譜というツールから、作曲者の想いを受け止め、自分なりに表現する。楽譜が同じでも、演者により演奏が違うのは、表現が違う前に、「受け止め方」も違うのではないだろうか。

写真家も同じで、被写体が同じでも、その写真家の受け止め方によって、全く異なる表現となって、作品が出来上がる。


今の私は、「受け止めること」をプロとする職業には向いていないのかもしれない。「受け止めること」自体、自分のエゴを満たす行為なのかもしれないから。

そして、「自分なりに受け止めて、自分の考えを表現すること」に魅力を感じている。私にとって、とても怖いことだけれど。


そこまでわかったところで、今日は終わりにしようと思う。
今は、「受け止める」のではなくて、「感じる」だけでいたい。

引っ越しをしたから、四方を山に囲まれて、庭でホタルに会えるようになった。
外に出ると川が流れる音が聞こえてくる。
娘が虫を見つけて楽しそうに私を呼んでいる。
お腹で新しい家族がもぞもぞ動いている。

今はそれだけを感じていたい。


サナギのような今の自分が、羽化したら、また作品を撮りたいと思う。

その時には、ただ正確に楽譜をなぞる演奏ではなく、自分なりの表現で自分の音楽を届けるような作品を、写真で届けていきたいと思っている。

ではまたお会いしましょう。

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やどかりみさお(写真家)

写真家。双極性障害をテーマにしたドキュメンタリー作品「夜明け前」で、第14回名取洋之助写真賞奨励賞を受賞。家族写真、ポートレートも撮っています。現在は産休中。 お問い合わせはHPからお気軽にどうぞ。 HP▷ https://www.yadokarimisao.com/

MIND

日々、感じていること、思っていること、これからのことを徒然と。
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