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キーボードが規定するもの

 丸二日絶食状態,その後もしばらく食欲がなく,ちびちび少量頻回食事で胃腸の安静をはかり・・・ようやく元通りに回復しました。いやぁしんどかったなぁ・・・あんなにゲエゲエ吐いたの,若かりし時の飲みすぎ以来かも。妊娠中のつわりも辛かったけれども,つわりは「おえっ」となる程度で地味にずっとムカムカしてる感じだったから,今回みたいな「全部中身を出し切らずにはいられない」胃の凄まじい衝動には・・・たいそう驚かされ,ダメージを受けたよ。とほほ。

 そんなこんなで連休スタートは数日お布団の中という冴えない感じだったんだけど,派手な症状が落ち着いてゴロゴロしている間はほぼスマホを眺めていた。といっても動画は好みじゃないので,Twitterみたり,ネット検索したり,いろんなネット記事を読んだり。そんなことをしていると割とあっという間に時間が過ぎていき,活字勢としても本を読む元気はない間の,手軽な娯楽があることにありがたさを感じたものだった。でも一方で,スマホがなかった時には一体私はどうしてたんだろう,とも思うのである。スマホを持つようになって6年くらいしか絶ってないのだけど,こういう時どうしていたのかまるで思いだせない。多分ゴロゴロゴロゴロ,退屈してるだけだったんだろう。何にもすることがなくて,色々と考えにふけったり,妄想したりしていたようにも思う。

 そうして,はたと気づく。
 スマホが手元にあると,そんな「何にもしてない」時間が限りなくゼロになっているということに。なんとなく時間があくとスマホに手を伸ばし,何かしら情報を仕入れている。

 もちろんそれが悪いだなんてことを言いたいのではなくて,「そうなっている」という客観的事実を述べているにすぎない。でもいいとか悪いとかいう是非とは別に,そのことが何か私自身に大きな質的変化をもたらすんじゃないか,という気はする。それが「何」なのか,今の時点では全く分からないのだけど。テクノロジーによってもたらされる自分自身の(質的な)変化は,振り返って「いま」と比較してみなければ分からないんだと思う。

 たとえば私はパソコンを利用するようになって,「手書きのスピードでは思考することが出来なくなった」。それこそ大学入学前までは,紙(原稿用紙)と鉛筆で小論文を書いていて,そのことに何の不自由も感じていなかった。しかし大学入学と同時にパソコンを使うようになり,キーボードで文章を入力するようになると,当然キーボード入力のほうがさくさくと早く文章を作ることができるので,そのスピードで思考するようになる。おまけに校正も途中で簡単にできるし,文章全体の構成を途中でがらっと変えてしまうことも(切り取り&貼りつけで)容易だ。そうしたスピードと状況を「前提として」思考する,ということを始めてしまうわけで,前提の異なる「手書き」では通常の思考が成り立たなくなってしまった。それはスピードの遅さにもどかしさを感じる,という程度のことではなくって,例えば手書きで書き直しは面倒だから予め全体の構成を考えて・・・なんてやってしまうと,「あまり着地点を考えずにスピードにのって書いていく」ということができなくなって,「私(の思考)」じゃない感じがしてしまう,というようなことさえあるのだ。

 この私のキーボード依存はなかなか大変なもので,スマホのフリック入力も大嫌いというありさま・・・なのでスマホでもBluetoothキーボードを使っているし,よく使うLINEはパソコンに入れてあり,在宅時はパソコンからLINEをしている。フリック入力もキーボード以上のスピードが出せるそうだけれども,なんかもうその修行をするのは億劫すぎて。

 こんなふうにパソコン(テクノロジー)が私の思考を規定するようになるなんて,キーボードのブラインドタッチ練習を熱心にしていた頃には思いもよらなかった。便利だから,効率的だから,合理的だから・・・ということでICTに飛びつきやすい私なんだけれども,私たちが享受できるものと引き換えに失うものもあるんだということは覚えておきたいと思う。・・・うーん,でも細かいようだけれどもそれを「失う」と言っていいのか,正直なところ私には分からない。もしかしたらそれはテクノロジーが創る新しい文化,かもしれないのだから。

 少なくとも私がこのスタイルで文章を書いてnoteに毎週投稿できるのは,パソコンでキーボード入力ができるおかげ,である。

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