私は傷ついていた~Twitterの世界での立憲民主党体験~

 梟文庫の運営ではSNSを活用しているのだけれども、FacebookにしてもInstagramにしても、個人では使っていない。別にそういう主義だとかいうのではなく、単に面倒くさいのと、さして不便がないから、というだけである。使い始めたら(LINEがそうであったように)「すんごい便利じゃん!」と、「なくてはならないもの」に変化するのかもしれないが、今のところ必要性を感じない。

 しかし、Twitterは別である。Twitterは、2年ほど前から個人アカウントで使っている。

 そもそもはTwitterもFacebookやInstagramと同じように、梟文庫の情報発信用に使おうと思っていたのだが、なんとなくどう使っていいのか掴めなかった。使いこなせずに「イマイチやなぁ」と思って、やや放置状態が続いていた。ただその間も個人的に気になる人のtweetを時々ネット上でチェックするなど、「そこに参加せずに傍観」はしていた。そうしているうちに、私はTwitterに流れている情報と、大手メディアが報道している情報との間に差を感じるようになった。とりわけ政治に関する情報にその差を強く感じるようになり、新聞やテレビが報道しない情報が目に入るたびに(正直なところ)怖くさえなった。大事なことが知らされてないんじゃないか。どこかの誰かにとって都合の悪いことが、歪められて伝えられているんじゃないか。そして安保法案で国会が揺れた時期に「このままでは、私の知りたいことを知ることができない」と危機感を感じて、主に政治的な情報の収集を目的に、Twitterを個人的に使い始めることにした。

 もちろん、Twitter万歳!という話ではない。Twitterという公共言論空間に溢れるヘイトや罵詈雑言にはウンザリするし、それを放置しているTwitter社への不信感も大いに持っている。便利に使わせてもらってはいるが、当然のことながら完璧ではない。それでも使い続けるのは、やはり私の場合、現在の権力に抗う人たちの、権力から(完全にではないにしても比較的)自由な立場から、まっすぐに届けられる自由な意見を聞きたい、と思ったからである。そして大手メディアは、もうすでにそれが望めない末期的状況にあるように見えた。

 そうしてTwitterの世界に参加してみると、その差を余計に感じることになった。当然といえば当然だ。私は反権力の人々の声を主に集めているのであり、権力にとって不都合な情報が多く共有されるのである。市民が判断をするために必要な重要情報がTwitterのタイムライン上を賑わせていても、大手メディアはそれを全く報じない。そしてその「報じない」というメタ情報までが抱き合わせのように流れてくる。ほぼ、リアルタイムで。

 実のところ私は、この事態をどう飲み込んでいいのか分からずにいる。でも今回はそれがテーマではないので、ひとまずおいておきたい。(前置きが長くてスミマセン)

 今回私が書きたかったのは、Twitterの世界での「立憲民主党体験」である。まだまだ続く渦中の体験だから変な方向へ行ってしまう危惧も抱きつつ、それでも選挙前に書いておきたかった。きっとTwitterの世界では、私と同じような体験をしている人がいっぱいいるんじゃないかと思うのだ。

 突然権力者の自己都合で解散となった衆議院。その後自民党の隠れ補完勢力でしかない極右政党の誕生、民進党の解体・・・そんな中での衆院選。野党共闘も叶わず憲法改正までまっしぐらという情勢に、私は本当に傷ついていた。政治の世界は遠い場所のこと、そこで起こることに私が「傷つく」とは、なんとも不思議だし「大げさだ!」と非難もされるかもしれない。でも実際に、「傷つけられた」という表現が一番私の感覚にフィットするのだから仕方がない。一体私は何に傷ついていたんだろう?

 それはたくさん、本当にたくさんのことの積み重ねではあるのだろうけれども、やはり一番辛く感じていたのは、時の権力者が「少数の者たちの意見に全く耳を貸さずに、数にものを言わせて押し通してしまう」その振る舞いだったと思う。安保法案しかり、共謀罪しかり。そして今回は自らの不正(森友・加計学園問題に、伊藤詩織さんの勇気ある告発※1など)さえも、選挙を通して数の論理で「なかったこと」にしようとしている。そんなことはおかしいんじゃないか!と声を挙げる人がたくさんいても、民進党の希望の党への合流によって野党共闘も潰れ、封殺されようとしている・・・「あぁ、もう終わった。」と、正直私は思った。このまま権力は暴走し、言うことをきかない市民は上から押さえつけられ、言いたいことも自由に言えない世の中になっていくんだ、と思ったらとても辛かった。

 ここで重要なのは、同様の傷つきは今社会のあちこちで起こっていることでもある、ということだ。「国家」という大きな制度の中で起こっていることは、実のところ「職場」や「学校」や「地域」や「家庭」という小さい制度の中でも起こっていることなのだ。人々が生活する場所で、強権的な振る舞いによって傷ついている人たちがたくさんいる。私もその1人である。いろんな場所で「それはおかしい」と主張して民主的であろうとした振る舞いを、否定され続けてきた。そのようにすでに傷ついている者たちが、もっと大きな制度である「国家」の振る舞いを目の当たりにして、傷つかないわけがない。この状態に甘んじろ、と言われてしまうことなのだから。「選挙に行ったって、無駄だよ。誰も私のことなんて聞いてくれない。」という気持ちは、実は私にもよくよく分かる。それくらい傷ついているよね、と。

 そんな時である。
 Twitter上で、♯枝野立て、のハッシュタグが立ったのは。

 民進党の代表選の時からTwitter上で枝野さんはリベラル層から支持されており、私も期待をこめて応援していた。しかし前原氏が民進党代表に決まり、その後希望の党へと合流・・・共産党などリベラル勢力との野党共闘を望む人々にとっては絶望的な状況の中で、その流れに逆らうべく枝野さんに期待が集まるのは自然なことだったと思う。「♯枝野立て」のハッシュタグが立ったときには、私も「枝野さん、本当にお願い!」と心から思ったし、枝野さんを応援する声がたくさん集まった。

 そうしたら、枝野さんは希望の党へと合流せずに、たった1人で「立憲民主党」を立ち上げた。

 「そうしたら」なんて言ってはいけない、という自制心もある。枝野さんの背を押したのは、ご本人も言っておられるように、Twitter上の声だけではない。しかしそれでもTwitterで「♯枝野立て」と応援していた者の正直な感覚としては、「私を含む、民意の声が聞き届けられた」と思えたのだ。「一緒になんとかしていこうよ」と言ってくれる人が現れた、そう思えた。これが傷ついていた者にとって、どれだけ励まされる経験だったか。・・・とはいえひどく葛藤してしまうのだが、「ヒーロー現れた!」と熱狂してはいけない、というブレーキも一方でかかりつつ。

 立憲民主党が「まっとうな政治」の実現を掲げているように、枝野さんの主張は何も特別なことでもないし、何ら目新しいものでもない。トップダウンではなくボトムアップでやっていく、権力をしばる憲法を時の為政者の自由にせずに守らせる、お互い様の気持ちで支え合う、多様性を認め合う、富を再配分する・・・どれも「当たり前でしょ」と思うことばかりなのに、「そういう社会にしていこう」と公に訴えてくれる人がいるっていうだけで、何でこんなに感動しなくちゃいけないんだ・・・とすら思う。一体今までどれだけ権力者からひどい言葉を聞かされ続けてきたんだワタシは、という話でもあるのだ。

 もう一つ今回の経験で私が気づいたことは、私が渇望していたのは「誠実さ」だったんだな、といことである。いや誤解を招くかもしれないが、その人が「ほんとうに」誠実であるかどうか、というのは正直なところどうでもいい、というか興味がない。だからそれが「戦略的」誠実さであっても、「やせ我慢」であってもなんら差支えないのだ。でも例えば、公然と嘘をつかない、他者の悪口を言わない、なんていう当たり前の振る舞いを「そういうものですよねー」と共有できることに、ほっとする。そしてこれも裏を返せば、公然と嘘や悪口を言う、つまり他者を形の上でさえも尊重できないようなリーダーを一国の首相としていだかざるを得なかったという状況に、私は本当に辟易としていたのだな、と思う。それに加えて、彼らのその言動ゆえに私自身が彼らに敬意を払えない、ということがストレスでもあったのだ。何も人のこと悪く思いたくなんかないのに、「尊敬できない」ってそれだけで辛い。

 ここで私が思い出すのは、私が勝手に生活上の師匠と仰いでいる、自由学園を創設した羽仁もと子氏の言葉である。新年になると、いつも手帳にこの言葉を書きうつしている。

 自家の質素にして安定した生活に必要である以上の富を得ている人は、われらの大きな家庭であるところの社会に目をつけ、また力をつくさなくてはなりません。富むものは貧しき人に施さなくてはならないといった、温情主義的な慈善などと同一様の気持ちではなくて、今の時代に生まれたわれわれの、重要な使命の一つとして、しなくてはならない義務です。義務であるゆえに怠っているとのろわれます。のろわれなければならない人が多くなると、それがいろいろの深刻な国家社会の病根になります。
羽仁もと子著作集9 家事家計編, 羽仁もと子, 婦人之友社, 1966.

 現状に即して意訳するとこうなる。トリクルダウンなんてだめですよ、義務として、つまり善意に頼らずきちんと制度を作って富の再配分を行いなさい・・・あぁ羽仁もと子さんの、クリスチャンでありながらもこのリアリズム!大好きなんです・・・これが出版されたのが1966年ということを考えると、羽仁もと子氏に先見の明があったというか、時代が逆戻りしてしまったというのか・・・いや本当に、「のろわれます」なんて最初に聞いた時にはぎょっとしたものだが、今となっては「あぁのろわれてるな。」と普通に思えてしまうから恐ろしい。

 のろわれて病気になってしまった社会が、少しずつ回復していけるように。
 そのために私たちの代表を、国会に送りたい。
 そんなふうに応援できる人(政治家)が現れてくれて嬉しい。

 そんな素朴な思いが、私の「立憲民主党体験」である。そしておそらくTwitter上には、潜在的に同様のストーリーが溢れているんじゃないかと思う。それをできる限り可視化して、ゆるく連帯していけたらもっと大きな力になっていけるんじゃないかな。そう思って、選挙前に慌ててしたためてみたのである。

 さらにもちろんこれは、Twitterの世界に閉じていてはいけない、とも思う。「こんな社会になったらいいな」と理想を胸に抱きながら、自分の手の届く範囲でできることをしている草の根の人たちとともに、政治「にも」モノ申していける文化を作っていけたらいいな、と思っている。

※1
http://www.huffingtonpost.jp/2017/10/16/black-box-shiori-ito_a_23244676/

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