子育ては、内も外も大自然なんだから

 前回「あざとくてもいいから、自己責任論を回避する!」と言ったのは、患者さんとか人のためではない。 

 言ってしまおう。 

 自分のためである。 

 過去の自分のため、今の自分のため、未来の自分のため。 

 「そうであったかもしれない」自分のため、は「現在の他者のため」、と言おうと思えば言えなくもないかもしれないが、それはそれとして。 

 今回は、私がそのように考えるようになった経緯についてお話してみようと思う。 

 かつて私は「自分の力ではどうするこもできん!」という経験をしている。ちょうど子どもが1歳を過ぎた頃、毎晩毎晩繰り広げられる「夜泣き」に疲労困憊していた。もともと私はロングスリーパーでかつ睡眠に依存する体質でもあるため、睡眠不足は大きな打撃だった。一方子どものほうはというと、今でもそうなのだが、ショートスリーパーなのである。相性が悪すぎるというものだ。夜「寝たくない」とさんざんごねるムスメを自転車のかごに乗せては町中を走り、それでも寝なければ車に乗せて寝かしつける日々。ようやく寝たかと思ったら、「おっぱい~!」と何度も何度も起きる。それなのに朝の5時にはパチっと目を覚ますんだな、これがまた!早朝からすることもなく、よく賀茂川を二人で散歩したものだ。そんな寝不足マックス生活に疲れ、終わりのない夜泣きDAYSに終止符を打つため、時期的に少し早かったのだが断乳(母乳をやめる)をした。「せめて朝まではぐっすり寝てくれ」と願ってのことだったが、残念ながら夜泣きはいっこうに収まる気配がなかった。おまけに断乳後、体調が優れない。日に日にひどくなる全身倦怠感。両親も遠方、日中子どもと二人きり。だるく重い体をひきずるようにして、子どものお世話をしていたのだが・・・ある日、ぷつんと何かが切れて限界がやってきた。「3日でいい、3日だけでもいいから入院したい・・」と、さめざめ泣いてオットに訴える私。入院だなんて大げさな!と思われるだろう。でもその時の私は本気だった。本気で子どもと完全に離れて、3日間コンコンと眠りかったのだ。もちろん現実的にそんなことができるわけではなかったが、事の深刻さにオットも驚き、義母に応援をお願いすることになった。 

 そうして、「ワタクシ、実家に帰らせて頂きます。」と、オットを残してオットの実家へ(子どもを連れて)帰ることになったのである。 

 それからおよそ2カ月ほど、オットの実家で義母にお世話になりながら、ゆっくり過ごさせてもらった。ムスメは相変わらずの夜泣き三昧だったが、夜中泣きわめくムスメを義母があやしてくれることもあった。日中は少し大きいいとこたちと遊び、私の手を離れる時間もできた。家事もほとんどせず、義母に甘えっぱなしだった。さらに厚かましいことこの上ないが、この期間子どもを義母にみてもらって、運転免許をとりに教習所へも通わせてもらった。(これを言うと、みなさん絶句される。)そうこうしているうちに、私はちょっとずつ元気になっていった。 

 その時からだ。私が心底、「自分の力ではどうにもできないことがある」と思うようになったのは。子育ては、その最たるもののように思った。子どもという、自分のコントロールの域外の大自然と暮らしているのだから、「自分の力ではどうにもできない」なんて当たり前なのだ。努力や倫理観や義務感でどうにかるようだったら、とっくにどうにかしているのである。どうにもできないこと、それは「荒ぶる大自然を鎮めること=子どもの夜泣きをとめる」ではなく、周囲の人に助けてもらいながら当座をしのぐしかないのだ。 

 そして今になって思う。私は別の「大自然」を自らの内にも抱えていたのだ。というのも、その時期ひどく悩まされた全身倦怠感と頭重感、視野がせばまったような窮屈さは、断乳後生理の再開とともにぐんぐんと軽減していったのである。私は今でもはっきりと覚えている。ある日突然、頭にへばりついていた架空のヘルメットがとれて頭重感がなくなり、視野がぱっと開けた。そしてその日の内に、産後初めての生理がきたのである。あの苦しかった体調不良は、産後(断乳後)ダイナミックに変化していたホルモン動態の影響をもろに受けてのことだったのだと思うと、空恐ろしくなった。それこそ自分の意思の力ではどうにもならないことに翻弄される可能性は、今も、これからも、常に自分の内にあるのだ。 

 内も外も大自然という生活。それを自己責任でコントロールせよと? 

 そんな馬鹿な。 

 これは「価値観の相違」の問題なんかではなく、そんな主張は「事実誤認」に基づいたものなのである。まずは「コントロールなんて、できやしない」という「事実」に基づいてもらわないと困る。それでも「オレは自分の力でなんとかしてきた!」と豪語する方たちがゾロゾロ列をなしているかもしれないが、なんとかできることは、はじめからなんとかできることなのである。「あなたと、その事態の組み合わせがよかった」にすぎない。100歩譲って「あなたの努力が報われた」ケースがあったとしても、他者が見舞われている厄災と自分のケースは同じではないのだから、「あんたも頑張ればできるはずだ」などと主張することはできないはずである。ついでに、「私はあんたじゃないし!」ということも指摘しておこう。多様な人間と、多様な事態との組み合わせで起こることなのだから。雑な般化はとうてい許容できない。 

 そして自己責任論が頓珍漢なだけでなく害悪ですらあるのは、「事態が何ら好転しなくても、そのまま放置される」ところにある。「本人に頑張ってもらう」ほかにアプローチ法を持たないので、当然だ。このアプローチでは「本人に頑張ってもらう」ことが目的化するが、本来の目的は「大変な、困っている事態」をちょっとでもよくすること、それが出来なければ、なんとかやり過ごせるようになること、である。そのためには、本人だけではなく、本人を取りまく環境や関係性を考慮に入れなければならなくなる。なにしろ「本人」は外界から完全に遮断された真空パックの中にいるわけではなく、この世界の中に網目を作って生きているのである。だから「本人」にしか目を向けないのは事実(事態)誤認につながり得るし、まっとうな合理的思考ではないと言える。 

 私に訪れた「子育てクライシス」においても、私自身の体調はホルモン動態の変化が落ち着くまでどうすることもできなかった。子どもの夜泣きは3歳くらいまで改善されることはなかったし、私は「自分が頑張る」という方向性での努力を放棄さえした。その代わりに義母を頼り、自然の中で大家族のように暮らし、できないことを手伝ってもらううちに、2ヶ月ほどで元気回復していったのである。逆にもしあのまま歯を食いしばって孤軍奮闘していたらと思うと、ぞっとする。夜中泣き止まない子どもにイライラが募って、手をあげていたかもしれないと思う。そんな最悪の事態を回避できたのは、私に向かって「もっと頑張れ」と言うのではなく、出来ることを見つけて協力してくれた家族のおかげである。 

 だから。 

 内も外も大自然!という中で、がんばっている人が困っていたら、その人を取り巻く環境の一部を担っている者として、その人がその事態を少しでもしのぎやすくなるようなはたらきをしたいと、心から願っている。梟文庫も地域の中で、子育ての共同的な空間を立ち上げるようなはたらきができたらいいなと思っている。 

 これからも胸はって、自己責任論に唾を吐き続けるのだ。

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