見出し画像

構造を問え~学ぶ構えを実装する~

 「うちはどう考えても普通じゃないな。」

 先週の記事でお伝えした「中学勝手に留年方式」採用については以前からムスメちゃんに言ってあったのだけれども。改めて告げると「分かってるよー。」と言いつつ、上記発言。わはは、ようやく今頃気づいたか!

 まぁもともとのんびりマイペースさんなので、この方式に特に異論はない模様。実際同級生のお友だちとも仲良くやっているけれども、一番の仲良しさんは学年の違うお友だちだったりするし、フリースクールでは異年齢集団で楽しくやっている。もし本当に留年になったとしても、お友だちとの年齢差をさほど気にしないんじゃないかと思う。私自身も看護大学に編入しているので自分より若い方たちと一緒に学んできたし、それはそれで面白いことがたくさんあった。社会に出たら2~3歳の年齢差なんて、誰も何も気にしない。たまたま同じ年に生まれたからという理由でひとくくりにされている集団に、自分の自然に反するような無理をして適応する必要なんてないよね。自分のペースで、自分にとって必要なことを身に着けていけたらそれでいい。

 しかしこの「勝手に留年方式」を採用する決断を下すまで、実のところ私は非常に悩んだのである。ムスメちゃんにはアクセサリー作りやその他諸々やりたいことがいっぱいあって、そのこと自体はとてもよいことなので応援しつつも、私はどうしても「中学卒業程度の基礎学力の獲得」に関して譲ることができなかった。オット氏は(ムスメちゃんが)小学生の頃のノリで「遊びは勉強」「やりたいことをやったらいい」「勉強ばっかりせんでいい」という路線を貫いていたのだけれども、それを「勉強なんてしないでいい」とムスメちゃんに短絡されては困る、と常々思っていた。だからまぁ鬱陶しがられるのを覚悟で、「学校のテストはともかく、中学校で習う単元は習得すること」を口うるさく繰り返し伝えてきた。しかしよくも悪くも「みんながやってるからやらなくちゃ」と思って頑張るタイプではなく、やりたいことがほかにたくさんある中で「勉強する」動機づけを持つことが極めて難しい状態だった。基礎学力の獲得は、「自分で考え、自由に生きていく」ために必要な土台の部分だから・・・なんていう漠然とした理由は、「そうかも」くらいには思えたとしても、勉強へと彼女を向かわせる強固な力にはなってくれない。

 それならば。

彼女自身の中から湧き起こる内発的な動機づけを待つばかりではなく、「そうしなければならない」環境を構造化するしかない。個に直接働きかけても無駄な時は、個を取り巻く環境を調整するしかないのである。

 やりたいことをたんまりやったらいいと思うし、そうすることで未来は切り拓かれていくと私は思っている。だがお若い成熟の途中にある方々がみな「自分が生きていくために必要なこと」全てを手中に収めているわけでは決してない。自分にとって必要なことを身に着けてみるまで、それが自分にとって必要だったということに気づかないことのほうが圧倒的に多い。今自分が為していることの意味は、未来の自分しか分からない。「何でこんなことしないといけないの」と成熟前の自分が思うようなことも、「今」せっせとしないといけない、ということである。それができるのは、「そのこと自体がとても楽しくやりがいがある」か、「やらざるをえない」かのどちらかになるのだと思う。

 だから勉強自体を楽しくできる工夫をしつつ、それだけではなく「自分の進みたい道に行くのであれば、それまでに(中学卒業程度の学力を)習得しないといけない」という構造(システム)を作ることにしたのである。ぶっちゃけ、名案というよりは苦肉の策である。本当は、勉強それ自体が超絶面白い!楽しい!!機会を提供してあげたいところなのだが、私や社会の力不足でそれが叶わないのが残念でならない。

 それともう一つこのシステムを作ることでムスメちゃんに暗に伝えたかったのは、「目的のためには手段を選ばない」ことが時に必要だということ。私が頑として譲らなかった「基礎学力の獲得」のためには、「中学を卒業したら、そのままみんな行ける高校に行く」という常識や当たり前をひっくり返す必要があったわけだが、「そうしたっていい」んだし、「そうするしかない」時だってこれからあるんだよということを、知っておいて欲しいと思うのだ。というのも、学習支援をしているとよく直面するのだが、「学校で教えられているやり方」がどれほど自分に合っていなくても、「みんなと違うやり方は嫌だ」と本人が「自分に合ったやり方」を拒否することがままあるのである。計算がしんどいならどんどんMyScript Calculatorなどのツールを使ったらいいと思うし、板書が苦手なら写真にとってデジタルノートに取り込んじゃったらいいと思うのだが、「みんなと違うことをする」「特別扱いされる」ことに対する心理的抵抗が一番のハードルになってしまって、自分にとっての最善を模索する道が閉ざされてしまうとやりきれない気持ちになる。同調圧のきついこの社会で「みんなと違う」ことをするのは勇気がいるのも分かるけれども、何かうまくいかないことがあった時にその原因を自分の内に見出す(できない自分がおかしいとみなして努力する)だけではなく、システムや環境に目を向けて解決や改善に向かえないと、現代版奴隷として消費・使い捨てされるリスクは否応なく高まってしまう。自分が「みんなと同じ」であることで誰が得をしているのか、今一度立ち止まって考えてみる必要がある。

 中学生くらいまでの勉強は、知識の獲得という側面もあるけれども、結局「提示された条件やルールの中で試行錯誤をする」訓練でもあると思う。だから一つ一つの内容に「これは意味があるのか(将来役に立つのか)」問うて答えが出ずとも、「このスタイルが身につくことで、いずれ自分や他者を助ける」ことは間違いないんじゃないかな。

 何度でも言うけれど、変化のスピードが猛烈に速い現代社会では特に、自分で意識的にせずとも常識や当たり前が覆されていくことが多いだろうし、そうなってくるととりわけ「その都度学び、最適解を見つけていく」ことが求められてくる。要するに学び続けていくことが必須となるわけだから、今この時期(義務教育)に必要なのはそうした構えを実装することなのだと思う。

「みんな」と横並びでいることなんか、気にしている場合ぢゃない。心からそう思う。

細々noteですが、毎週の更新を楽しみにしているよ!と思ってくださる方はサポートして頂けると嬉しいです。頂いたサポートは、梟文庫のハンドメイドサークル「FancyCaravan」の活動費(マルシェの出店料等)にあてさせて頂きます。