それぞれの「ちつじょ」を大事にする、しかけ

 前回の記事は「単発で」投稿したつもりだったのだけれども、その後「それぞれの秩序がそれとして大事にされるには、しかけ(仕掛け)が要るんだよねー。」と思ったので、前回の続きを書いてみたい。 

 以前関わっていた中年男性患者さんAさんとの間で、こんなことがあった。

  Aさんは気の優しい、クマみたいな風貌のおじさんなのだが、まぁ世間的に言ったら清潔とは言い難かった。ある時Aさんは出かけるお母さんに、「危ないから送って行ってあげる。」と言った。しかしお母さんは、「いらん。こんな浮浪者みたいなんと一緒に歩きたくない。」と仰った。 

 正直私はその時、切なくて胸がつぶれそうだった。お母さん、何もそんなこと言わなくても・・・と、やはり思ってしまった。だけど一体私のどこに、それをつぶやく資格があるのだ? 

 だってそうでしょう? 

 私は気の優しいAさんが、たとえ清潔とは言い難くても、とても好きだった。でもおそらくそうやって「好きだなぁ」と言えるのは、時々しか出あわない人だから。ちょっとの間、清潔じゃない「部分」に目をつむればいいだけだから。「お母さん」として、一緒に歩く必要がないから。そして何よりお金をもらって仕事として、関わっているのだ。だからAさんの優しさを受け取れる「余裕」みたいなものがあるわけだし、もちろん役割として引き受けてもいる。それが24時間365日一緒にいなくてはならないとか、自分が産み育てた息子だという気負いがあったとしたら、「気のやさしさ」よりも「その汚い恰好をなんとかせい!」が前景化してくるのは当然だと思うのだ。私も同じ立場に置かれたら、「清潔を保てないのは、その人なりの理由がある(ちつじょがある)」なんて思えなくて、無理やりザブザブ洗ってしまうかもしれない。結局のところAさんのことを「好きだなぁ」と感じさせてもらえているのは、私が直接の利害関係を免責されているからに他ならない。 

 以前この話をつぶやいた時、「まぁそれも親子のコミュニケーションなんだし。」と言う人があって内心憤慨した。一体どこの母親が、自分の子どものことを「浮浪者」なんて呼びたいのだ?そうやって罵り合うことが長年の関係の中で常態化していたとしても、それを望む人がどこにいるというのだろう。子育ての過程の中で、私も子どもに対してひどいことをしてきた。子どもが泣き叫ぶことに耐えきれなくて、壁に全力でおにぎりをたたきつけたこともある。夜寝ないことにほとほと疲れて、布団の上に放りだしたこともある。だけど本当に苦しいのはその状態ではなくて、あとからやってくる罪悪感なのだ。本当はそんなこと、したくない。もしその時誰かが「ちょっと見てるから、気分転換しておいで。」と仮に言ってくれたとしたら、したくなかった「そんなこと」はせずに済んでいたかもしれない、と思う。そうして責め苦のような罪悪感に、七転八倒する必要もなかったかもしれないのだ。 

 だから。 

 まがりなりにも「支援者」と呼ばれる人に求められるのは、せめてお母さんに「浮浪者」なんて言わせないような環境を作ることなんではないかと思う。だからといって、Aさんの「ちつじょ」を無視したり無理に変えて、Aさんをザブザブ洗ってお母さんの望む形にするということではない。そうではなくて、お母さんの世界の中にAさんのちつじょの居場所を作る、ということ。「まぁ、いっか。」と同居できるということ。そのためには24時間365日一緒にいる距離感を調整したり、お母さんの負担を減らしたり、家族をとりまく環境そのものが変化するような「はたらき」が必要なのではないかと思う。家族の中でそういった力がうまく働いていればそれでいいが(きっと「ヒロ」のご家族もそうだと思うが)、なんとなくうまくいかない場合は直接の利害関係を免責されている支援者がその役割を担えばいいのだと思う。・・・自分が十分に出来ていなかったのに大きいことは言えないが、反省の気持ちをこめて書いている。 

 結局それぞれの「ちつじょ」がそれとして大事にされるということは、それぞれの側の資質や能力だけに負うているのではないということだ。それぞれがどんな環境にいるのか、どんな立場にいるのか、どんな関係性があるのか。そういうもっと大きな構造の問題だというふうに考えないといけないように思う。そしてそれぞれの「ちつじょ」はその基盤を身体に置いているのでそうそう変えることはできないが、構造の方はある程度人為的に「仕掛け」ることができるのではないだろうか。その人の中の「不潔」が前面に出るのではなく、「やさしさ」を感受できるような仕掛けをせっせと作ること。(※1)それは何も支援の現場だけではなく、今社会のあちこちで必要とされている仕事なのだと思う。(※2) 


※1それぞれの「ちつじょ」が成り立っているのも構造の上(中)に置いてなのだから、構造が変わったら「ちつじょ」もその影響を受けて変化するだろうと思う。お母さんにヤイヤイ言われなくなったからフロへ入るようになったとか、自分で銭湯へ行ってみたらハマってしまって結果的にキレイになるとか、そういう「まわりまわって」事態が変化することなんてたくさんある。こう書いてしまうと「とどのつまり、Aさんが清潔になるのがいいのか?」と問われかねないけれども、要するにAさんの清潔保持レベルと、こちら側の許容度のバランスの問題である。だからAさんをよく知っていくにつれてAさんの魅力を感受し、こちら側が「まぁこれくらいの汚さならいっか。」と思えれば、別にAさん自身の清潔保持レベルが変わらなくてもいいのだ。異論はあるでしょうけれども。えぇ、もうちょっときれいにして欲しいなと願わずにはいられないですけれども。 

※2例えば子どもを取り巻く昨今の問題も、保護者の子育ての能力の要員、貧困という社会的な要因など様々にあるが、「子どもってかわいいなぁ」「子どもって面白いなぁ」と思えるような仕掛けが社会に用意されていないというのはあまり指摘されていない。ワンオペ育児でどうやってそう思えっていうねん!ということに対しては、もちろん経済的・時間的余裕を生むような構造にしていく工夫が必要だと思うのだが、それと同時に、子どもという自分とは異なる仕方で世界と関わっている存在と生きる、その面白さや魅力がシェアされる仕掛けがあってもいいと思う。「かわいい!」とか「オモシロい!」というのは、その人のもとへと向かわせる、とても、とても大きな力になるからだ。まぁママ友が集まってしていることの半分は、愚痴まじりに「かわいい」「オモシロい」を流通させることだったりするわけだが。

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