ヒロのちつじょ写真

「ヒロのちつじょ」にみる研究の意味

 今から8年あまり前、(精神科)デイケアの研究をしようと思いたって大学院に入学した。デイケアという場所やそこに集う人々の面白さや魅力を伝えたい、そのためには誰もが納得する「数字」でその効果なり影響力を示さなければ・・・と考えて、数量的な研究に着手することになった。・・・が、どうしても出来なかった。「数字で表現」をしようとすればするほど、私が日々触れているデイケアの日常と乖離してしまう感覚を拭えなかった。魂を売ってこのまま数字で表現できるところだけ表現して、お茶を濁して卒業してしまうことも考えた。しかし変に頑固な私には、それもできなかった。そしてとうとう、全てを放りだしてしまいたくなって「もう大学辞めてもいいですか。」とオットに聞いた。(ダメだと言われた。)そんな出口の見えない暗闇にいる時に出会うことができたのが、「現象学的な看護研究」だった。既存の理論や枠組みをいったん棚上げにし、現象をその成り立ちから記述するという研究手法によって、私はようやくデイケアの言語化しにくい営みについて知り、表現することができたのだった。(3年かかってなんとか卒業もできた。)

 ただ今回ここで言いたいのは、現象学的な看護研究と出会ったおかげで研究としてまとめることができたとか、大学院を卒業できたとかいうことではない。ものすごく大げさに聞こえてしまうかもしれないが、現象学的な看護研究はもっと「私自身」を大きく変える出来事だったのだ。よく「(1事例だけ記述して)役に立つのか」と研究の意義を問われるのだが、その「役に立つ」という「(役に)立ちかた」がほかの研究とだいぶ違うんじゃないだろうかといつも思う。少なくとも私自身に関していえば、研究活動を通して「これまで見ていたもの」の見え方がガラリと変わり、それに伴って周囲との関係や私自身の在りようまでもが変わっていった。こんなことを言うと「研究をしている当の研究者自身の変化」が研究の成果なのかよとツッコミを入れられてしまうかもしれないけれども、研究を共有してくれた人たちにも(程度の差はあるが)同様の変化を促すのが、こうした研究の面白さだと思っている。そこに学びの本質をみることができるのだけれども、evidence basedなんちゃらの世界ではなかなか認めてもらえないところでもある。

 ・・・と抽象的なことを言っていてもサッパリ伝わる気がしないので、現象学的な看護研究によって私自身に訪れた、最大の変化について書きたいと思う。実はつい最近手に取った素敵な本が、私のその変化を可視化してくれているように感じた。それは佐藤美紗代さんの「ヒロのちつじょ」。ダウン症の兄「ヒロ」のちょっと変わった癖やこだわりを、妹の佐藤さんがイラストと文章で表現されているのだが、あたたかいタッチがなんともいい。「ヒロ」の不思議な振る舞いに思わずクスリと笑わされたり、微笑ましかったり、「あるある!」だったり。でもこの本の最大の特徴は、著者の佐藤さんの、「ヒロ」へ向けられた眼差しの変化にある。「ヒロ」と一緒に生活をしていた頃には嫌だったり鬱陶しく感じられた癖やこだわりは、大学の卒業制作で「ヒロ」を題材にすることに決めて改めてよく観察してみると、「ヒロ」なりの秩序があるのだというふうに佐藤さんは捉え直しを促される。そして「ヒロ」に秩序があるように、それぞれの人にそれぞれの秩序があるのだと。

 私が現象学的な看護研究で教えられたことも、この「それぞれに秩序があるはずだ」という前提である。私の経験の延長線ではとても理解できないような振る舞いやあり方を、既存の理論や知識、あるいは自分を参照にして解釈したり分析しないで、まずはそれがそれとして成り立っているありようをよく見てみる。するとそこに何らかの構造(≒秩序)が見えてくる(見えてこないことも、もちろんある)・・・そんなふうに目の前の人、出来事を見ようとする態度がインストールされると、世界が途端に驚きに満ちた、新鮮なものになる。世の中「まだ知らないこと」でいっぱいになり、時と場合によっては不謹慎なのだがワクワクさえしてくる。また他者の秩序を知ることで、自分の秩序がどうなっているのかも気になってくる。自分が当たり前にしていることが、どんなミラクルの上に成り立っているのかについて考えざるを得なくなる。いまだ解明されていない、身体の奇跡的な営みへと思いを馳せて驚嘆する・・・これが、面白くないはずがない。

 そして、その人がそのようであるのは、その人なりの秩序がある・・・それを前提にすると、途端に(精神の)「病気」や「障害」が何なのか分からなくなってしまう。「病気」や「障害」が「ない」のだと言っているのではない。明らかにそれぞれ「違い」はある。だがそれは、陳腐な表現になってしまうが、「健康」または「正常」な状態へと「治療」や「矯正(リハビリテーション)」を施す対象になるのだろうか?その人がそのようである秩序が成り立っているのは、「この世界において」である。その人の秩序が病的あるいは不健康に見えたとして、その秩序には「この世界」が既に含まれている。もし「変わるべき」として治療されるのであれば、その人を含んだ「この世界」も変わらなければならないはずである。大体適応を求められるこの世界だって、完ぺきではないのだ。こんなに同調圧が高く、空気を読み合い、権力に忖度することを要求されるような世界は、私だって息苦しい。それぞれがちょっとずつ、違いのある他者とこの世界に同居できるように工夫を凝らしていき、少しでもマシな世界にしていくよりほかないのではないかと思う。

 というような感じで、いろんなことの見え方が変わることで、それとの付き合い方や関係性も変わってくる。これを「役に立つ」と言っていいのかは分からないが、少なくとも私自身は「新たな知見なり情報を得る」とは別の仕方で学び続けることができているように思う。しかしぶっちゃけ他者に対しては(実践的な場面では)、(現象学的な看護研究が)「役に立つ」というよりは、「自分の害悪を減らす」程度のことしか出来ていない。どうしたって長年染みついてしまったフィルターを通してしか見ることのできない諸々、それに対する偏見に気づいて懺悔したくなることが度々ある。自分が「役に立つ」かどうか以前に、「そもそも目の前のもの(人、こと)をちゃんと見ることができてますかー?」と自分に問わにゃいかん日々。なのだよ。

※佐藤美紗代, 「ヒロのちつじょ」, 太郎次郎社エディタス, 2017.

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Nishio Misato

京都上賀茂で「梟文庫」という私設図書館を運営しています。noteでは、「生活とケア」をテーマにぼちぼち研究します。毎週金曜日更新。https://www.fukuroubunko.com/

何度も読み返したい素敵な文章の数々vol.10

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