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「不登校キッズ」あらため

 ヒノキアタックで咳は止まんないし,変な声も(多少マシだけど)なおらない。モビルスーツ着て(乗って?)歩きたいの,私だけじゃないよねー?

 と,相変わらず体調不良愚痴から始まる春先のnoteでスミマセン。いやもうほんとに,ボーっとしてるうちに春休みが終わってしまいそう。あと数日で中学校の入学式だなんて,え?小学校後半ムスメ氏がホームスクーラーだったということもあり,「学校へ行く」ということが現実味を帯びていない気が・・・やばいです,切り替えなくちゃ。

 ところで私の友人の娘さんが,我が家のムスメ氏や学校に行っていない子どもたちと出あって,私が時々使っていた「不登校キッズ」という言葉に疑問を持ってくれた。私も常々,「不登校」という言葉に(すでに)ベッタリと貼りついているネガティブなイメージはなんとかならんかな,と思ってはいたのだけれども,代替できるほかの言葉を思いつくことができなかった。そんな折,その友人の娘さんが「不登校キッズじゃなくて,自由キッズだ」と言っていたと聞いて「なるほど!」と思った。

 不登校の子どもたちに,学校に馴染めない,とか,学校に行けない,という状況が(それぞれに)あるのは事実だけれども,そうした状況において子どもたちは「学校へ行かない」ということをある意味全力で,かつ主体的に選択しているとも言える。そしてそれは外側から(他者が)いいとか悪いとかジャッジできることではなくて,ただ単に個人の選択である。子どもたち自身も誤解しがちなので繰り返し繰り返し(ムスメ氏には)伝えているのだが,子どもにあるのは(学校で)教育を受ける「権利」であり,決して教育を受けなくてはいけないという「義務」ではない。そして子どもたちが持っている「教育を受ける権利」を保障する義務を負うているのは,当然のことながら大人(社会)である。つまり子どもたちは学校へ行かないといけないのではなくて,逆に学校で学ぶという権利を保障されなければならないということになる。学校に馴染まない子どもがいるのであれば,馴染まない要因(原因)を子どもの側に求めるのではなくて,それぞれがそれぞれのペースとやり方で学ぶことができる環境を整えたり新たに用意したりする義務を社会は負っているのだ。

 だから,「こんな場所では学べないよ。」と主張する権利と自由を子どもたちはそれぞれに有している。そして大人はその声に耳を傾けなければならない(なんせ義務だから)。でもきっと今を生きる子どもたちの多くは,もちろん学校に行っていない子どもたちも含めて,自分にそんな権利と自由があるっていうことを知らない。だってそんなことは誰からも教わらないし,というより暗に「そんなものはないよ」という教育を(低学年のうちからキッチリ)施されているのだから。すでに決められた枠の中でやっていくことが当たり前で,枠そのものに疑問を持てば「不適応」(あるいは問題児)のレッテルが貼られるか,学校へ「行けなく」なってしまう。

 でも,子どもに限ったことじゃなくて,「枠」を疑う自由は各人にあるんだよね。というより,枠を疑えることそのものが「自由であること」だとも言える。何かうまくいかないな,というような時に,すでに与えられた環境の中で四苦八苦するだけではなく,「・・・そもそもその設定がおかしくね?」と制度設計にコミットしていけること。「これしかない」ではなくて,「こうすればいい」「ああすればいい」という選択肢をたくさん有している(作っていく)こと。それが自由(の一部)なんだと思う。

 その意味からも,学校へ行かないことを選択している子どもたちは「自由キッズ」と言える。そして学校に行っていない子どもたちだけじゃなくて,学校へ行きながらあらゆるおかしな制度にレジスタンス運動を展開している勇者たちも,みんな自由キッズである。

 こう言うと学校に楽しく通っている子どもたちはどうなのか,自由じゃないのか,なんてご意見も出てくるかもしれないけれども。もちろんそんなことはちっとも思っていない。自分の学ぶ環境が自分にフィットしているということはとても幸運かつ幸福なことだと思うし,その環境で学ぶことができる権利が保障されてしかるべきである。ゆえに無理やり(自分に合った)枠を疑えなんて思わない。しかし願わくば,身近に学校へ行っていないお友だちがいるのであれば,「自分にはフィットする環境も,他者にとってはそうでないのかもしれない。」「この環境が万能ではないかもしれない。」可能性に思い至ってもらえたら,と思う。そんなふうに自分の環境を相対化できることも,「自由」の一つのあり方だと私は思っている。「不登校キッズ」っていう言葉はおかしい,「自由キッズ」なんじゃないかって言ってくれた子どもさんも,その意味でめちゃくちゃ自由キッズである。学校へ行ってようが行っていまいが,どこでも「自由」たることはできるのだ。そして私は一人の人間として,そんな自由を生きている子どもたちを心から尊敬している。

 だーかーらー。
 「学校に行くのは当たり前だよねー」とか「もう決まっていることなんだから従うべし」みたいな不文律を押しつけ合うんじゃなくって,大人たちは真っ先に「君たちには権利と自由がある」ってことを口を酸っぱくして伝えていくべきなんじゃないかな。もちろんそれはコワいことだよね,そう伝えた途端に学校に行くことを選択する子どもが激減しちゃったらどうしようって思うもんね。でももしそうであるならばその事実と向き合わざるを得ないし,子どもの権利をどう保障するかということをそこから真剣に考えないといけないんだと思う。ていうか,学校へ行かない子どもたちがこれほど増えているのだから,今が「その時」なんではないの?

 なんてエラそうに言っているオトナの私も,同じように「その時」を迎えているのだ。

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