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子どもを見て「いいなぁ」と思っちゃう現象について

 なんかちょっと気持ちが弱っている時っていうのがあって,たぶんそのせいなんだと思うのだけど,最近やたらと「子育て終わった感」の寂しさに襲われることが多くて困っている。それがどんなふうなのかと率直に書いてしまうと,「それ子離れできてなくてヤバいよ。」って絶対言われてしまうのは分かっている。分かっているが,ええい,寂しいもんは寂しいし,ここでずっとオロオロしてないで次へ進んでいくためにも,正直に書いちまいマス。中学生のムスメ氏より小さい子どもさんを見ると,「あぁ,いいなぁ。」と思ってしまう現象を。

 例えば下校中の小学生たちを見かけたときも,「あぁ,いいなぁ。」・・・え?なにが「いい」の?って意味不明だと思うのだが,私の羨ましさ全開の眼差しの先にはその子どもさんのお母さんがいるのである。「ただいまぁ!!」ってランドセル背負って帰ってきてくれるんだよねぇ,「おかえり!」って迎えてあげられるんだよねぇって思ったら,羨ましくて羨ましくて,油断すると目じりに涙が浮かびそうになる。(←ガチです。)それとか,小さい子どもさんの微笑ましい振る舞いだったり,ミラクルな勘違いだったりに出くわすと,かわいくてかわいくて,(それらが日常にある生活を送っている)お母さんがたを心底羨ましいと思ってしまうのである。もちろん子どもちゃんたちのかわいさをお裾分けしてもらえるので,幸福感に包まれながら,だけど。

 まだまだムスメ氏,その辺の草花をつんで花束にして帰ってきてくれたり,「四則演算」を「とらさん?寅算(とらさん)て何?」とかミラクルなこと言っちゃうかわいい中学生だし,今より小さい時のほうがかわいかった,と思っているわけでは決してない。今は今で相変わらずかわいくて,でもかわいいだけじゃなくて色んなことができて尊敬しているし,毎朝送りだせる幸せも,「おかえり」と迎えられる幸福も目いっぱい感じている。でもこの寂寥感は,うーん,たぶんその「終わり」が見えてきてしまった,ことに由来するんだろうな。そう,共に暮らせる期間は,早ければあと数年で終わりがきてしまうのだから。この生活がずっと続くわけではないという現実が,過去への回帰を誘っているのだろう。

 先日の授業参観でも「過去と未来,どっちに行きたい?」というテーマで子どもたちがワイワイ楽しそうに話し合っていたのだが,私は「過去に戻って,0歳のムスメちゃん,1歳のムスメちゃん,2歳のムスメちゃん・・・全員に会ってハグしたい」という親バカ妄想を密かに展開していた。しかし先生が「お父さん,お母さんにも意見を聞いてみましょう~」と仰ったので,はっと我にかえり「こんな妄想垂れ流したら絶対ムスメ氏に怒られる・・・」と焦って別の意見を捻りだして用意した。幸い当てられなかったけれど,鬱陶しい親この上ない。こうして客観的に自分を見ると,「ウザい」って思うんだけど。

 つらいわぁ。

 あんなに子育て大変がっていたのに,終わりが見えた途端にこんなことになるとは。先日も赤ちゃんの夜泣きに苦しんだお母さんの,悲しい事件が報道されていたけれども,全く他人事などではない。それは私だったかもしれないっていうくらい,私も夜泣きで追い詰められたし(3日だけでいいから入院したい!と泣いて,オット氏置いて義実家で数か月お世話になった話はこれ読んで),とてもじゃないがそんなにしんどい思いをしている方に「しんどいのは今だけですよ。子離れが辛いっていう時が必ずきますよ。」なんて言えない。もし当時の私がそんなことを言われたら,「ふざけんじゃねー!今がしんどいんだよ!黙って今入院させろ!」と言っていたと思う。いや,そんなパワーもなかったからさめざめと泣いていたんだし,言い返す気力もなく一人で絶望してたんじゃないかな・・・とにかく「今」がしんどすぎて「未来」から語りかけられてくる言葉を受け取る余裕なんか,これっぽちもなかったんだよ・・・でもその日々を(いろんな人の支えで)通り抜けてみたら,子どもの巣立ちが寂しくてたまらない私がいるというのもまた,事実である。そこを通り抜けるには具体的なサポート(ゆっくりと休養できる環境,子どものお世話をかわるなど)が必要なわけで,その手が届かなかった(届けられなかった)ことを社会全体で受け止めて具体的な施策へとつなげてもらいたいと思う。

 話はもどって世のお母さん(お父さん)はみんなこんなに寂しがるものかなぁ,自分が変(ベタベタしすぎ?)なのかなぁ?って逡巡した時に,実母はどうだったのだろうとふと思った。正直実母は私と対称的なタイプで,「かわいい♡」とか言ってもらった記憶も皆無だし,身体的なスキンシップもなかったと記憶しているし,大体「褒める」ということもほとんどしない人だったと思う。褒められた記憶よりは「どんくさい」「不器用」と笑われることのほうが多かった。それは考えてみると今でも結構あって,たとえばムスメ氏が「ねぇ,お母さんって子どものとき勉強できた?」と実母・弟に質問したときに,

弟「できた,なんてもんじゃないよ。」
実母「それほどでもないわよ。」

 という具合だったりする。でも不思議と「褒めてくれ」と思ったことはなくて,それというのもたぶん,実母が心底私を「認めていない」からそんなことを言っているんじゃないっていうことは私にも分かっていて,「ただそういうふうにナナメにものごとを言う人なんだ」と思っていたからだと思う。そんなふうに思うのは,基本的に褒めてはくれないけれども,何かをだめだと押さえつけたりするようなことはしないで,やりたいと私が言ったことは尊重して応援してくれていたからかもしれない。(この場合も言葉で応援してくれるんじゃなくて,経済的に応援する,みたいな形が多かった。)

 そんな淡泊な実母からみたら,私とムスメ氏の関係はどうも衝撃的なようだった。ある時「あなたがこんなに〇〇ちゃんに手をかけているのをみると,自分がしてもらえなかったことをしてあげてるんじゃないかなぁって,そんなふうに思うのよ。」とポツリと言われ,私のほうこそビックリした。というのも,そんなふうに思ったことなど一度もなかったから。「かわいい,かわいいって言って育ててもらえなかったから,自分の娘にはそう言って育ててあげよう」とか,そんなことを意識的に心がけてやっていたんじゃなくって,脳内キュンキュンがダダ洩れ状態っていうだけなの・・・単に人としてのタイプが違う,表現方法が違うってだけなんだと思うんだけど,なんていうのかなぁ,実母からしたら(言葉が悪いけど)「当てつけ」みたいに感じてしまうなんて,ちょっと切なくなった。私もムスメ氏が淡泊な子育てをしていたら,「私がベタベタしすぎたから,自分の子どもにはそれで嫌な思いをさせまいとそうしているのかなぁ。」なんて思う日がくるんだろうか。うう,想像するだに切ない・・・

 でもそんな淡泊な実母だけれども,私が結婚をして東京を離れることになった時,「いつも身に着けていてもらえるものを贈りたい」なんて殊勝なことを言って,腕時計をプレゼントしてくれた。かわいい,かわいいと分かりやすくかわいがってくれたりはしなかったし,離れるときに寂しいなんてことも言わなかったけれども,やっぱり子どもの巣立ちは寂しいし,できることならそばにいて欲しいって思っているんだろうな,と思う。思春期以降家族全体で色んなことがあったし,その時に拗れたものを引きづっていないといったら嘘になるけれども,ムスメ氏の自立を寂しく思う私の気持ちと,実母のそれとを重ね合わせると気持ちは一緒なんだろうなと思うし,でもそんなことをこれっぽちも考えないで好き勝手しているので「あれこれ不義理ですまん」とも思う。

 ・・・なんか,やっぱり弱ってるな。なにってわけじゃないんだけど。低気圧のせいにでもしておこう。

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