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ゆっくりのんびりほんわかモード

 なんで義務教育って9年しかないんだろう,って最近よく思う。

 いやもちろん9年でちょうどいい子どもたちが大半だからこその制度設計なんだろうけれども,その枠からはみ出す子どもたちだっているわけで。その事実は従来「能力差」として捉えられてきているように思うけれども,「学ぶ(成長・発達する)スピードの差」という観点がごっそり抜け落ちているような気がしてならない。同じ年齢の子どもたちを集めて同じペースで学ばせれば,当然「学びゆっくりモード」の子どもたちはついていけなくなるし,次から次へと積み上げの学習が進んでいってしまうわけだから,挽回のチャンスも学校だけでは得ることは難しい。だから年齢にかかわらず就学時期が選べたらいいなと思うし,せめて「ゆっくりモード」「通常モード」「ハイスピードモード」くらい選べて,かつそのモード間を(子どもの成長発達に合わせて)時期によって自由に移動できたらいいのにと心底思う。

 なんてことを言うと「能力による選別」になっていくんじゃないかって批判されそうなんだけれども,なんていうのかなぁ,「速いほうがいい(能力が高い)」っていう価値判断が本当に客観的にみても正しいのか?って私なんかは思ってしまう。ゆっくりゆっくり進めていった人と,びゅーんと駆け抜けていった人とで最終ゴールは同じ,ってことだってあるよね,きっと。それに最初は駆け足でいったとしても,途中で壁にぶつかってゆっくり歩く必要が出てくるかもしれない。それはその人が本来持っている特性と,その時の課題との組み合わせで決まることなんだから,いいとか悪いとか,できるとかできないとかの問題ではないんじゃないかと思う。

 なんでこんなことを言いたいのかっていうと,教える側も「同じ年齢集団」のベルトコンベアーに子どもを乗せないと,って焦ってしまうからなのである。例えば算数の「速さ」の問題で「みはじ(きはじ)」が使われることの是非で論争が巻き起こっていたけれども,学習をきちんと積み上げてきて,速さという概念を理解する準備が整っている子どもはそんなパターン学習をせずとも速さの問題を理解,解くことができると思う。もしまだ準備が整っていないのなら前段階の学習に戻って進めたらいいし,準備が整っていても理解に時間がかかるのなら丁寧に(その子どもに合った)説明をして,時間をかけて理解を促せばいいだけだ。でも,学校の授業は待ってくれない。どんどんどんどん,予め決められたペースで進んでいってしまう。「それはそれとして」大事なポイントは落とさず教えようっていうことが叶うならそうすればいいんだけれども,なかなかその機会も持つことができないとしたら「とりあえず,みはじで正解出しておいて」ってなっても仕方がない。学校のペースに合わせ,かつ評価(テスト)を乗り切るための苦肉の策として。もしそれぞれの段階とペースに合わせて学習を進められる環境があったとしたら,教わる側だけではなくて教える側だって,そんなに焦らずに済むんだと思う。

 ・・・と言いながらも,誤解を恐れずに言えば私は「みはじ」を敵視しているわけでは決してなくて,何も考えずにパターン認識で解くことへの危惧はありながらも,いったん概念を理解したあとはきっと便利な道具にはなってくれるだろうな,と思ったりする。私自身は「みはじ」で習ったわけではなくその都度考えながら解いているんだけれども,この「考える」行程,種類によってはもんのすごく負荷が高い時がありませんか?私は「速さ」の課題は割とスルスルといけちゃうんだけれど,「単位あたりの量」の(分数が入る)計算が恐ろしく苦手である。たとえば2/5mの重さが3/4gの針金がある,この針金1mの重さは何gか,なんていう問題がそれ。自分の名誉のために言うが!?この問題が解けないわけでは決してない。きちんと式を立て,答えを出すこともできるし,それを説明することだってできる。のだが,とにかく考える負荷が高い!・・・この感じ,オット氏に言ってもまるで伝わらないんだけど,一瞬脳が考えることを全力拒否する感じっていうか,脳が捻じれる感じ?(←余計意味不明度をアップしているか・・)そこに耐えて考えればすぐに解けるんだけれども,つい面倒くさくて比の式をたててぱぱっと計算してしまう。(2/5:3/4=1:x)これだって「こういう問題の時にはこの式をたてて計算せよ」とパターン化することもできてしまうから,教え方によっては「理解せずに,数字をあてはめるだけ」の作業になるよなぁと思う。でも私の中ではあくまでも,面倒な作業を肩代わりしてくれる「便利な計算機」みたいなものである。ただそうしているうちに,その部分に必要な力が衰退していくかもしれない可能性は否定できないかな・・・

 それともうひとつ,「理解」の上にいろんなものが積み上げられていくのが理想かもしれないんだけれども,現実そうではないことっていっぱいあるなぁとも思う。あんまりちゃんと理解してない(できない)んだけどなんとなく解けちゃう,そしてその先の学習が進んでいってようやく「あれってこういうことか!」って突然気づくようなことって結構ある気がするのだ。必要にせまられて今私も「かけ算」や「割り算」の意味を改めて考える中で,「なるほど,こういう構造になっているのか!」と目から鱗を落としたりしているし,それは私だけじゃなくて(教員の)オット氏も「割り算をちゃんと理解したのは大学に入ってから。」と言っていた。今目の前の課題が「できる」ということと,「理解」のあいだにはタイムラグがあることもあるし,未来のワタシに理解を託して前に進むっていうことも大事なことだろうとは思う。これまでの論と矛盾するようだけれども。そういう意味では,「理解」ってなんだろう?と分からなくなる。それは「今」を切り取って評価できるようなものじゃなくて,未来へと先送りしたものを含みこんで成り立っているのかもしれない。

 あっそれからもうひとつ。私は言語寄りの思考に偏重しているので,つい「概念」の理解を「自分や他者に言語的に説明できる」というふうに考えがちなんだけれども,もっと直接的に「理解」したり「操作」したりしている人たちもいっぱいいるだろうと思う。それをイメージすることは正直私には困難ではあるのだけれども,目の前にいる人が自分とは異なる仕方で理解している可能性を常に心にとめておきたいと思っている。どうしても私は「全てに意味がある」と思っちゃいがちで,例えば「マイナス×マイナスはプラス」の理由をすんごい考えても合理的な理由が思いつかなくて撃沈したことがあるが,それはもう「そういうことにします(そういうことにしとかないと不都合が生じるのでそうします)」ということなんだと知って脱力した。「あ,そういうルール設定ね~」ということを無駄に考え続けてしまうのは,算数(数学)苦手勢のあるあるな気がする。そういう設定をすっと受け入れて,その中でのびのびと遊べるような人もたくさんいるだろう。

 なんだか話があちこちいってしまったけれども,ここでタイムアウト。
義務教育,「ゆっくりのんびりほんわかモード」はプラス2年くらい欲しいもんだな,と思っている。

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