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5-8. 美術において「理性」は有意義に暴走する 【ユクスキュル / 大槻香奈考】

画集の作品解説を読んでいて気になった箇所を引用します。

「この写真シリーズには「過去を書き換える」「家族とは別の物語を描きだして他人化する」意味があり、本来の写真の力から解き放たれて「人間の精神はどこまで自由になれるか」ということを問いかけています。」――58 | 空の家 09(2015) より
(※同タイトルの画像がweb上に見当たらないため、引用を見送ります)

「空の家56」引用元:https://twitter.com/kanaohtsuki/status/821385195974557696?s=21


ここでの問いかけはまさしく人間の「理性」や「知識欲」などの性質そのものではないかと感じました。特にカントの言う「理性の暴走」に近いように思います。以下に引用します。

①究極真理の問いは、なぜ答えが出ないのか?
②なぜ人間は、答えの出ない問いの底なし沼にはまるのか?

この二点を論じる上でカギとなるのが、人間の「理性」です。(…)感性は空間・時間を伴う「直観」をもたらし、悟性は「判断」をつくり出します。これに続く理性は、「推論」という働きをもっています。

(中略)

悟性と理性は「考える」という点では同じです。しかし、悟性が直観と結びついて働くのに対し、理性は必ずしも直観に縛られません。(…)理性は必ずしも合理的な推論を導くとは限らないのです。

たとえば理性は、原因・結果のカテゴリーを使ってどんどん推論を進めていくかもしれません。「(…)だったら○○を生み出す原因は何だろう?原因の原因の、そのまた原因は?」となって、ついに「世界の一切を生み出す究極原因は何か」という問いにたどり着く。

このように、理性は推論に推論を重ねたあげく、現象界から逸脱し、究極の真理まで行き着こうとする本性をもっているとカントは述べます。答えの出ないことを求めて「暴走」しかねないのが理性なのです。――『100 分 de 名著 カント『純粋理性批判』』より。

しかし個人的には、理性の暴走はそれほど危険なものだとは思いません。答えの出ない問い(魂の不死や世界の始まりと終わり、神の存在など)を作り出してしまうため【厄介なもの】ではあるかもしれませんが…


けれど、暴走するだけの推進力があるからこそ、思考ひいては創作のエネルギーが生まれるとも考えられるのではないでしょうか。


現代はネットで検索することが日常化しており、理性が暴走するほどのエネルギーを生み出しにくくなった人が増えているように感じます。web 検索は非常に便利で、知りたいことを瞬間的に(しかも基本的に無料で)知ることができます。

しかし意識していなければ、それは「その場限りの知」に留まり、忘却され、「血肉となる理解」もしくは「更なる知への欲求」にはなりません。

インターネットや SNS が広く普及したことに伴い、知識や情報に対して受け身になる人々が増えている今、「考えること」そのものが、人間生活の営みから乖離しつつあるように思います。

それは創作活動に身を置く人間にも言えることです。
昨今は、流行りのサンプリングを繰り返し「ネット受けは良いけれど作品自体の寿命が短く作者名がすぐに思い浮かばない(もしくは別の作者と混同を起こす)」ような、その場限りの刹那的な作品が多くなっているように感じます。

以上の理由から、こうした「問いかけ」を孕む作品は非常に重要だと考えております。作家性および作品の強度に直接繋がる、大切なピースだと思うからです。

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ナツメ注釈:この段階(2020年11月下旬)ではカント哲学への理解がまだまだ及ばず、言葉足らずになっていることをお詫びいたします。今後さらに読み込み、理解を深めていく所存です。

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