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7-2. 何度でも蛹になる。蛹になれる。 【ユクスキュル / 大槻香奈考】

羽化した自然界の蝶は物理的に蛹に戻ることはできず、死に近づいていくことになります。しかし絵なら可逆的な変化が可能です。

むしろ、絵に限らず、人間そのものが、生きながらにして何度も蛹になり羽化することを経験できると考えられます。


少し長いですが、スピノザによる一節を引用してみましょう(太字はナツメによるものです)。

しかしここで注意しなければならぬのは、身体はその諸部分が相互に運動および静止の異なった割合を取るような状態に置かれる場合には死んだものと私は解していることである。

つまり、血液の循環その他身体が生きているとされる諸特徴が持続されている場合でも、なお人間身体がその本性とまったく異なる他の本性に変化しうることが不可能ではないと私は信ずるのである。

なぜなら、人間身体は死骸に変化する場合に限って死んだのだと認めなければならぬいかなる理由も存在しないからである。というのは、人間がほとんど同一人であるとは言えぬほどの大きな変化を受けることがしばしば起こるからである。

(中略)

もしこうした話が信じがたいように思えるなら、小児について我々は何と言うべきであろうか。成人となった人間は、他人の例で自分のことを推測するのでなかったならば、自分がかつて小児であったことを信じえないであろうほどに小児の本性が自分の本性と異なることを見ているのである。
――『エチカ(下巻)』より

人間は肉体の死は無くとも、成長によって非肉体的な死を迎え、また生まれ変わることができると言えるのです。それも、何度でも。


その際、必ずしも青虫(スピノザの例を踏まえるなら小児)の段階からスタートしなければならないとは限りません。青虫の段階を飛ばして、再度蛹になることも考えられます。


小児から大人になる際の「肉体的な蛹から蝶への羽化」も、大人になってからの「精神的な蛹化」
も、イニシエーション(通過儀礼)に近い、一度死んで生まれ変わる儀式と言っても過言ではないように思います。


逆に言えば、最初の肉体的羽化(思春期から青年期頃)に不足があったとしても、また蛹からやり直すこともできるわけで、そう考えると蛹そのものが「光(希望)」の要素を呈してくるように思います。

そして蛹化と羽化を環のように繰り返すことで、より深みのある人間へと成長していくのではないでしょうか。

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