見出し画像

そもそもなぜイエスは十字架に?

なぜ十字架に?

イエス・キリストがなぜ十字架刑で処刑されなければならなかったのか、その理由について私が学んだことをまとめてみたいと思います。

ローマ帝国による処刑:
イエスが生きていた時代、パレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は、反乱を起こした者や犯罪者に対して、十字架刑という残酷な方法で処刑することがありました。イエスは、ローマ帝国の支配に反対して教えを説いており、ローマ帝国から脅威とみなされていました。

ユダの裏切り:
イエスの弟子の一人であるユダは、イエスを裏切り、ローマ帝国の兵士に知らせたことがきっかけで、イエスは捕まりました。ユダはイエスを裏切った理由について、イエスが十字架にかかった後に後悔し、自殺したという説があります。

宗教的な理由:
イエスは、自分をメシア (救い主) だと述べており、ユダヤ教の指導者たちは、イエスを偽メシアだとみなしていました。イエスが十字架刑になったことで、ユダヤ教の指導者たちはイエスが偽メシアであることを示そうとしました。

これらの理由が複合的に影響しあって、イエスは十字架刑になったと考えられます。しかし、イエスの死は敗北ではなく、キリスト教においては、イエスの死は人類の罪のために必要な出来事だと信じられています。

イエスがなぜ十字架に張りつけられるに至ったかは、このような理由からでした。ではなぜイエスの死と復活がキリスト教において大切なのでしょうか?

イエスの死と復活が大切な理由

大塚国際美術館にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のレプリカ。「12使徒の中の一人が私を裏切る」とキリストが予言した時の情景が描かれている。


さて、私が初めて”Jesus died for our sins.“(イエスは私たちの罪/Sinのために死んだ。)と初めて聞いた時、私が罪?冗談じゃない、なんて思いました。自分は犯罪を犯していない善良な人間だと思っていたので、ツッコミが炸裂し、安易に受け入れることができなかったのです。

ここでの「罪」(sin)の意味について理解したのは後になってからでした。罪は罪でも、crimeは 法律に反する罪や犯罪であり、ここでいう sinとは道徳や宗教的の罪のことを指していました。人として生まれたからには誰もが「罪(を犯すポテンシャル)」を持っている、ということでした。

それではなぜ、人は生まれながらにして罪を持っているのでしょうか?そういうものだから、と言われても、いや、そんなわけないでしょう?絶対その理由があるはず。さて、一体どういういきさつがあったのだろうか? というツッコミがまた入ります。(納得したいんですね、性格的に(笑) いや、違う、興味が止まらないのだと思う。(笑))


まず、キリスト教の教えでは、「神は人間を創造」しました。

注:人は猿から進化したというようなダーウィンの進化論と真っ向から対立するのはここですね。当時、私の留学先のミシシッピ州の高校ではこの「反進化論州法」(1923~1929にかけて、オクラホマ、フロリダ、テネシー、ミシシッピー、アーカンソーの各州で進化論教育を全面的に禁止したという背景がある。)は廃止されていましたが、生物の時間で進化論を教えることに対して根強く反対していた人が多かったです。カルチャーショックでしたね。

ところが人間は神に背いて罪を犯してしまいました。この罪によって、人間は神の元に戻ることができなくなり、死後は永遠の滅びに至るとされています。この「罪」とは、なんだと思いますか?

それは、ずばり!神が創造した最初の人間と言われるアダムとイブです。アダムとイブがエデンの園で神に逆らい、蛇にそそのかされて禁断の「善悪を知る知恵の木の実」を食べた行為(原罪)から始まったとされる、人間の本質的な罪深さや道徳的な欠陥です。罰としてアダムは労働の苦しみを、イブは産みの苦しみを背負うことになりました。さらに最大の罰は「いつかは必ず死ななくてはならない」ということでした。この原罪により、人類は神との完全な関係を失い、罪の性質を継承することになったとされます。

ですが、神は人間を愛していたので、人間を救うためにイエス・キリストを送りました。イエス・キリストは神の子であり、人間として生きながらも、神の教えを説き人々に神の愛を示しました。そこで色々あって(冒頭に書いたように)十字架にかけられ死に、復活し、神の元に戻りました。

イスタンブールのコーラ教会にあるフレスコ画。キリストがアダムとイブを冥界から引き上げる様子が描かれている。

このイエス・キリストの死と復活によって、人間の罪は贖われ、この世での死があったとしても神の元(天国)に戻ることができるようになったとされています。天国での命は永遠だと言われています。したがって、イエスの死と復活は、信じる者たちに永遠の命を与えることを意味し、これはアダムとイブより前にあった「神との永遠の絆」を取り戻すことでもあるのです。

同級生男子からのとある告白

ここで思い出したことひとつ。高校留学の最後の日に、仲良くしていた男子が私に会いにきました。「話がある。」となにやら神妙な面持ちで。何かというと、「キリストを信じて欲しい。」とのことでした。なぜかというと、彼は私に地獄に行って欲しくない、死んだら天国で会いたい、ということなのです。

16歳だった当時は、死ぬとか天国とか地獄とかが、どうも絵空事でしかなく、教会に通っていたとはいえ、どこか自分事としては受け取っていなかったのですね。自分の信仰は自分で決めたいし、それをまだ決める段階には至ってないと思っていました。

それではクリスチャンではない人(私の親や友達など)はどうなるのかという私の問いに、彼は「残念だけど、君たちはみんな地獄に行くことになる。」と言いました。この件で私は残念なことに、ひとたび教会の話をすることから距離を置いてしまいました。(でも巡り巡って今に至る不思議!)

ちなみにこの仲良しだった男子は今では教会の牧師になっているそうです。信仰が厚かったのですね。素晴らしいことだと思います。そしてあの時は受け入れられなかったことも、今となってはビタースイートメモリーです(笑))

遠い目、、、

終わりに

さて長々と書きましたが、私が以前から持っていたイエスのことに関する知識や情報一つ一つは点々としたものでした。人に聞いても納得のいく答えにはなかなか巡り合わず、思い入れや解釈が入るのでしょう、全く違う方向に話が行ってしまったりなどして、今の今まで長い年月が経ちました。

でもきっと今なのだと思います。スペインで思いがけずセマナ・サンタに出会わしたのも、そして1年後の今イースターの時期に、何かに駆り立てられるかのように一連の投稿をしているのも。私の学びには終わりがありません。ですけれど、ここで一旦今回感じたこと思ったことを、思い切ってアウトプットしてみました。

長い文章をお読みいただきありがとうございます。

★一連のセマナサンタ/イースタ投稿はこちら:


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?