映画で見る“親子の絆”とは


 映画『マイダディ』と『そしてバトンは渡された』を見てきた。

 どちらも、血の繋がっていない親子の話だ。ずっと本当の親子だと思っていた牧師の父(演:ムロツヨシ)と白血病を患う娘(演:中田乃愛)の話。実の父とのブラジル行きより、継母(演:石原さとみ)との日本での生活を選んだ娘(演: 稲垣来泉/永野芽郁)の話。でもどちらの親子にも、親子の絆は確かにあった。病という苦しい運命に立ち向かって行けたのは、その絆があったからこそだ。

 血の繋がりと親子の絆との間には、相関関係があるだろうか。私はそうは思わない。これは、映画を見てもそう思うし、実体験でもそう思う。

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 今年も、「現代用語の基礎知識」編 ユーキャン新語・流行語大賞のノミネート語30語が発表された。その中に、『親ガチャ』と言う言葉があった。産まれてくる時に、子どもは親を自分で選べないことを、カプセルトイがランダムで出てくるガチャガチャや、ネットゲームのアイテムガチャからとったネットスラングらしい。

 数年前には『毒親』という言葉が流行ったが、それも、子どもの害になるような(身体面だけでなく精神面でも)親のことである。虐待やネグレクトは言語道断だが、子どもを支配したり、自分の叶わなかった夢の身代わりに子どもの将来を決めたり…と、子どもの立場で考えられない親のことも含まれる。
 毒親という概念は、近年のSNSのお陰で「うちの親おかしい?」が明るみに出やすくなった結果、顕著に見えてきたものではないだろうか。おそらくそういう親はずっと前からいたはずだ。

 そういう毒親の話を聞くと、血の繋がりと愛情とは?絆とは?を考えずにはいられない。

 私は、今、自分の親から“お前は血の繋がりがない子どもなんだ”と言われても、「あ、そうなんだ」という感想で終わってしまうだろう。なぜなら、今まで愛情を持って育ててくれたのは間違いなく今の両親だし、一緒に育った兄弟達も(すでに結婚して家を出ているが)、家族として過ごした時間は変わらない。愛情を持って繋がっている、家族の絆がある、と感じられるからこそ、私にとってそれの有無は瑣末なことに感じる。

 そう思う根拠もある。

 私の母は養女だった。母には、産みの親と育ての親がいた。私にとっての祖父母だ。母を産んだ直後、祖父が亡くなり、祖母はシングルマザーで3人の子どもを育てなければいけなくなった。そして泣く泣く産まれたばかりの母を、子どもがいなかった家庭に養女に出したそうだ。

 そして、私が物心ついた時には、三人のおばあちゃんがいた。父方の祖母も合わせて、母を産んだ祖母も育ての祖母も、お互い分け隔てなく接していた。けれど、おばあちゃんが三人いることに私は何も疑問に思わなかったし、どのおばあちゃんも、同じように愛情を持って接してくれた。
 実は母が養女だったと知ったのは、私が中学生になってからだ。だが、その時も、「そうなんだ。」としか思わなかった。私にとってはどの祖母も変わりがなく、私のおばあちゃんだったからである。

 だから、血の繋がりと親子の絆は関係ない、と断言できる。

 以上の事を踏まえると、親の愛というのは、子どもに受け取ってもらえて初めて親子の絆になる、のではないだろうか。それが、親が良かれと思ってやった事かどうかは関係なく。血の繋がりに関係なく。子どもが、受け入れるかどうか、なんじゃないだろうか。

 私の母は、どちらの母からの愛も、受け入れたからこそ、双方とも良好な関係が築けていたんだろう。

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 親子の愛は“無償の愛”と言われる。一般に言う無償の愛とは、見返りを求めることはせず、相手のために尽くす愛情、ということらしい。まさに、『そしてバトンは渡された』の映画の中での母と娘の関係だろうか。血は繋がってなくても、母は娘の願いを叶え、やりたい事をやらせてやろうと奮闘する。

 似た言葉に“献身”という言葉がある。献身的な介護、等と使われる。こちらも、自分の利益を顧みず、相手に尽くす事だ。こちらは『マイ・ダディ』での父娘の関係がしっくりくる。白血病の娘の為に、何としてでもドナーを見つけようとする父親。

 どちらの言葉も親子間でよく使われている。でも、親子間の無償の愛とは、献身とは、本当に見返りを求めないのだろうか?

 私はそうではないと考える。どちらの場合でも、親達は子ども達から受け取っているものがある。それは、目に見えないモノ、言葉にするなら、癒しだったり、喜びだったり、自分の生きている意味を与えてもらうことなんじゃないだろうか。
 子どもの笑顔で癒される。この子の為に何かしてあげたい、と思う事で、自分の存在が肯定される。
 これが、親達が子から受け取るそれぞれの見返りだ。
 よく言う、「この子が居れば頑張れる」という言葉。これが真理だと思う。その存在から、力を与えて貰ってるからこそ、お返しに愛情を注げる。

 だから、親の愛は決してボランティアや自己犠牲の上に成り立っているわけではない、と私は考える。どちらだけが与えるだけ、どちらかだけが犠牲になる関係は、きっと続かない。
 だからこそ、双方向で、愛情を与え、与えられ合った中で親子の絆は育まれていく。

それが出来ていれば、血が繋がっていようがなかろうが、関係はないのだ。


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