男性作家にも女性作家にもなりたくない

今回の投稿は最近私がしばしば考えていることであり、気にかかっていることです。

私は自分自身のことを女性とも男性とも思っていません。このことに明確に気が付き周りにも話せるようになったのは最近です。
中高は女子校で過ごしたのですが、当時はジェンダーについてほとんど意識せずに過ごせていました。大学に入って久しぶりに共学という環境に身を置き、私は女として見られているのだなと感じることが増え、少しずつ、しかし確実に疲れを感じはじめました。

昨今様々なシチュエーションにおいて”男女比”が語られます。男と女の人数に偏りがあるとどちらか一方の性別にとって有利・または不利と読み取られる。もちろん現実にそのような状況がすでに蔓延している場所や環境もあるでしょう。男だから、女だから、という理由で拒絶されたり批判されるのはもちろん問題です。
ただ、私はそもそも男女のどちらかに問答無用で分けられてしまうということ自体に違和感を感じます。例えば男ばかりの中に私がいたとして、第三者の視点で見れば男女比が偏っている!と見られるのは仕方がないと思うのですが、その中で男も女も関係なく公平な関係性が築けているかということは目に見えるものではありません。

人数が同じくらいであること=平等と本当に言えるのでしょうか。そもそもどちらでもないと感じている私や、私と同じような思いをしている人はどうすればいいのでしょうか。居場所はどこにあるのでしょうか。

私は男女どちらでもないと感じながら、女として見られることにはある程度耐えることができます。「男チーム、女チームに分かれて」と言われるようなシチュエーションがあったとしたら、自分自身の存在に疎外感を感じながらもなんとなく女チームに入ることはできます。女として見られているのだ、と知っているので。ただ、このシチュエーションで本当に身動きが取れなくなってしまう人もいるでしょう。
私は自分と同じノンバイナリーである人たちのブログやインスタグラムを見て、苦しみの度合いや周囲の認知度にも差があることを知りました。個人的にはノンバイナリーという存在は珍しくないと思っています。ただノンバイナリー以外の性についても言えますが、ジェンダーバランスや性差別について語るときにあまり話題にのぼらないことが気にかかっています。

「男性作家にも女性作家にもなりたくない」というタイトルは私が思うそのままの気持ちです。どちらにもカテゴライズされたくありません。カテゴライズされることを免れ得ない時もあるのかもしれませんが、そういった場面に出くわしたときに「私はどちらでもないです」と言える準備をしなければ。と最近強く思いはじめ、文章に記しました。

「どちらでもないです」と主張しておきながらも少し困ることがあります。
それは生物学的には女性に分類されるためなのか、私も女性としてセクハラなどの被害に遭う経験があることです。にも関わらず私自身は「女性のための、女性だけの集まりに行く」ことにはかなりのストレスと疎外感を感じます。もしかすると同じような感情を抱いたことがある人もいるのではないかと思っています。

男性・女性という区分が設けられた場に出くわしたとき、または自分が意識せずいた環境を後々そのような区分で語られたときに、どこにも行けなさを感じている人たちは一体どれほどいるのでしょう。同じような苦しみを感じている人たちが10年後、20年後も同じように苦しまない為に、今から何か手を打てないかな。と考えています。

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