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裏窓

 自由が決して簡単なものじゃないことを私は知っている。何故ならおおよそ手に入る自由のほとんどに不幸せが付随しているからだ。掴み取った自由と手放した自由は似ているようでまったく違う。掴み取った自由とはいわば勝利のあかしであるけれど、手放した自由は鏡張りの無限世界のように眼を凝らしたら息苦しいものであるからだ。人は安定しているときには不安定で刺戟的な夢を見たがるものだが、めまぐるしさの中で洗われている最中には、一瞬でも構わないから深呼吸がしたいと考える。わがままで報われない生き物だ。
 私もそんな例に洩れず文無しのまま春を迎えようとしている。確かに身軽な気がするけれど、旅の仕方も忘れちゃったし、青い空が青くもない。それより一粒のチョコレートの方が私には煌めいて見えるくらい。貧乏は人を咳きこませる。欠けている方がいいことなど、この世にはないに等しい。人は充足していなければ、何かに気づくことができないのだ。かなしいけれど退屈にさえ手の届かぬ人間は、夢を見ることすらできないのだ。
 裏窓に陽が射して、狭いアパートはまっかに燃えた。私にとってもうなんでもない場所だった。白い壁にひとりの影がうつった。郵便受けを覗いたら、懐かしいひとから手紙が届いていた。私が私に宛てた手紙である。へたくそな十歳の字で、きっと私に何もかもを託して希望に満ちた、残酷な問いかけをして。
 私はふるえる手でグラスにワインを注いだ。少しこぼした。絨毯に赤い染みができた。明日のことなんて、もう考えるのやめちまおうと、少しやさぐれながら、それでも生きてるだけずっとましさと、散々ワインをあおったあとで、床に寝転び、眼をつぶれば、途切れ途切れに懐かしい音楽が聞こえ始めた。

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