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夢のむこうの港から

 慣れない都会の駅舎のすみで、改札の前に立ち、ふるさとの水路に悪戯に石を並べた日のことを思い出していた。せき止めようと石を敷き詰め、積み上げても、その隙間を縫って水は流れ続ける。そんな様子を眺めていると、僕は時の流れをじかに感じることができた。無力感に浸ることができた。どうしようもないことも、世の中にはあるのだと知ることができた。それは確かに淋しいことではあったが同時に僕を救ったのだ。僕は幾つかのことををあきらめなければならなかったからだ。立ち止まることをあきらめて僕は歩き始めたのだ。
 改札をくぐる人は誰も忙わしい。どこかうつむきがちに、足元だけに目をやりながら、一言も喋らず、一度だって躓かず、まるで感情がないみたいに、永久機関的に過ぎてゆく。僕はもう人を人とは思えなかった。それはただ留まることのないあの水路と同じだった。僕だけの時が止まっているみたいだった。あるいは、僕以外の時がみんな止まっているみたいだった。腕時計は七時五分を指していた。

「遅れてごめん。」
 待ち人はやがて現れた。夏草の香りがした。乱れた前髪を手櫛で流しつつ、僕を一度見て、それから目を逸らした。
「とりあえず、店予約してるから行こうか。」
 僕は彼女の面影がそっくりあの日のままだったことに戸惑い、そうしてどこか後ろめたい気持ちを抱きながら歩いた。道中、互いにひと言も発さずに、彼女はじっと僕の後ろについて歩いた。

 酒場のネオンサインは相変わらず半分消えかかっている。それでいて店内は、僕の予約の二席以外はすっかり埋まっている。トム・コリンズを二杯頼んで腰掛けた。窓際の小さな丸テーブルだ。
 何から話せばよいか判らなかった。グラスを合わせた音がふたりのあいだにはっきりと響いた。
「十年ぶりか……。」
「懐かしいね。」
 互いに窓の外を眺めやり、宙に向けた言葉をこぼし合う。僕はグラスに口をつけて、含ませた炭酸の刺戟と舌に残る酸味を反芻しながら、無意味に何度もグラスを置いた。じっとしていられなかった。彼女の方もまた、ゆらゆらとグラスを揺らして、風鈴みたいな音を鳴らし続けている。
 やがて雨が降り始めた。強い雨だった。雨粒が屋根を叩く音が、店じゅうに薄くかかったスローバラードを搔き消した。そうしていると何故だか黙っていることが自然なことのように思えてきた。曇り始めた窓のあたりに視線を戻して、雨音がつくり出す途切れ途切れの静寂に身を任せてみる。

 ふいに、彼女と目が合った。ふたり、可笑しくなって、微笑した。
「なんだか、変な夢みたい。」
 夢——、そうかもしれない。なんだか永い夢を見ていたようだ。僕たちは、喋らないのではなく、喋れないのだ。あの頃も、いつも静寂だった。すっかり大人になったつもりでいたけれど、今の僕なら、僕たちなら、凍りついた季節を溶かしてしまうことができるような気がしていたけれど、大人なんて、案外こんなものにちがいない。大人はみんな、背伸びしすぎた少年なのだ。

「私たち、変わってないんだね。」
「お互い、ちょっと老けたけどね。」
 彼女は僕の言葉に笑って頷き、カクテルを飲み干して、チェリーを齧る。僕はロングピースに火をつける。
 上京して一年。彼女とばったり逢って一週間。お互い、初恋だった。人は偶然に弱い生き物だ。僕は別に話したいこともなかったし、彼女もまた同じだったろう。ただ、気まぐれのようなものだったのかもしれない。来週の土曜日、七時に横浜駅で。それだけ約束して、その夜、眠れなかった。
 思い出の中にはいつも彼女の姿があった。この街では決して匂わないふるさとの香りを、彼女は手首にふりかけて、漂わせている。僕の大好きな夏草の香りは、ふるさとの風の香りだ。
 僕は、ふるさとに背を向けた。そうして都会の小さなアパートの部屋の中で、ひとり時代に取り残されて、前に進めず、後戻りもできず、堕ちてゆくのだと思っていた。けれどふるさとは、みんなそれぞれの心の中に、散り散りだけれどもまぶしい星のように、こうこうと在り続けているのだ。

「十年ぶりに、君に逢えてよかったよ。」
「なに、もう一回、口説き直すつもり?」
 最後に僕たちは、一杯ずつのウイスキーを飲んでから別れた。僕たちは、何も変わっていなかった。だから、やっぱり、さよならをする運命なのだろう。人には、自分の歩んできた道程を、後ろから照らしてくれる、思い出、という存在が必要なのだ。

 雨はいつの間にか上がっていた。僕は艶めくアスファルトの上、そこらじゅうの水たまりを踏み砕いて歩いた。今日を思い出にするために、僕は明日も生きるのだ。街灯りが夜にくっきりと浮き立って、行けども行けども明るかった。どこかで汽笛が鳴った。

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