あのこのゆめ

 恋はたやすい。夢の中なら。この頃ずっと悪い夢ばかり見ていた私だが、ゆうべは特にいやな夢だった。初恋のあの娘があらわれたのだ。私は簡単にあの娘を手に入れた。それはかつてのあの娘ともどこかちがって、そうして今のあの娘ともちがう、私の思い出の中にだけいる架空の少女みたいだった。あの娘の容姿をかぶせただけの着ぐるみの少女。だから手に入れたところで私のむなしさはぬぐえなかった。私は知っていたから。恋はそんなに簡単に叶うはずがないんだって。それは私の暗かった青春時代を通して、魂をけずって学びとった唯一の真実なのだから。
 孤独に慣れた者にとって、いちばん信じられないのは叶えられる恋なのだ。肌にすっと馴染むような暗闇のつめたさにおかされた者は、二度と陽差しを愛さない。自然に、反射的に、孤独を選んでしまうのだ。だから私のかき抱いた少女の形をした蜃気楼は、無闇にほほえみながら黄昏へと消えてしまった。夢の中で私は商業ビルの中にいた。全面絨毯張りの立派な施設だった。そのビルのオーナーがあの娘の両親だった。そこの一階にあるジムに割安で入会させてもらえることが決まり、私は破れた恋の苦々しさを押し隠しながら入会申込書に名前を書いた。これから立派に身体を鍛えて、健康的になってそうして、あの娘でない誰かを抱きしめるのだと。
 当たり前のことが当たり前のように過ぎるのが現実なのに、夢の中でさえ私は予定調和をえらんだのだ。私は商業ビルの中を何度も駆け回った。あの娘を忘れることで出逢えた人々に対して罪悪感でいっぱいになりながら、ぐにゃぐにゃの廊下を踏みしめた。天井がゆがみ、シャンデリアが熟れた果物のようにこぼれおちた。昼のまぶしさでも、夜のうつくしさでもなく、かといって月でも星でも、涙でもなかった。私の視界は烈しい光にうめつくされて、やがてフェードアウトとともにベルが鳴った。朝だった。
 今日も仕事だ。そうだ、それだけのことだ。安心する。いつもの憂鬱だった。叶わなかった恋は、その痛みが消え残っているうちはもう一度手に入れる価値があるのかもしれないが、今や余白を残していない私の心と肉体に、時の甘美は通用しないのだ。醒めてしまえばなんてことない夢だった。ゾンビに追われる方がよっぽどおそろしい。あのこのゆめなんて、明日からは何度見たって大丈夫さ。だってもう、私は嬉しくなかったから。

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