白いファンデーションの上で

 東京に雪がつもったその夜に、私はいつもより早く仕事を切り上げて、雪化粧に色気づいた路面をぺたぺたと歩いて帰った。コンビニから漏れる灯りや車のヘッドライトを受けて、青春群像みたいな光のつぶが私の傘、頰、コートの裾をころがる。すれ違う貴婦人は眉を顰めて足元に視線を落としながら、一歩一歩を大事そうに踏みしめている。
 駅に着くと構内は水びたしで、梅雨どきの渡り廊下みたいに居心地が悪かった。どうせ濡れるなら、やっぱり雨より雪がいい。それにじつは、雪の夜は案外あたたかいものなのだ。まるで白い毛布を羽織って歩いているみたいに、身体の内側からぽかぽかと上気してくる。だから雪道は散歩にうってつけなのである。そんなことを思いながら、いつもより混んでいる電車に押し込まれる。電車の中も水びたしだった。頭上からのアナウンスの声がトンネルの中にいるように奇妙に反響して、銀河鉄道さながらである。
 最寄駅は大混雑。迷い子のような家路難民たちが、無闇に駅のコンコースに足跡をつけて、私もそのうちのどれを選んで歩こうか最初の一歩を決めかねていた。すると、目の前でひとりの女性が足をすべらせて、見事に尻餅をついたのだ。それは一瞬の出来事だった。私は手を差し伸べるか迷っていた。これまでそうした紳士的ふるまいをしたことはないのだが、雪の日くらい紳士になることが許されるような気がしたのだ。だってこんなに雪なのだから。
 迷った挙句、私は手を差し伸べなかった。代わりに彼女の落としたりんごを拾ってやった。よっつ転がっているうちのひとつを拾って手渡した。残りのみっつは彼女がすでに回収していた。
「ありがとうございます。助かりました。今夜、マーボー豆腐なので。」
 咄嗟のことで、私は返事のひとつも思いつかずに、ただ会釈した。そうしているあいだに彼女はおじぎをして、つつつっと立ち去ってしまった。彼女の背中を見つめながら、私はようやく我に返った。マーボー豆腐にりんご?
 私にはマーボー豆腐にりんごを入れるという習慣がない。母親も、おばあちゃんも、給食も、私は生涯においてそうしたマーボー豆腐に出会ったことがないのである。漬物的な立ち位置なのか、すりおろして隠し味にでもするのか、それともひょっとして東京の人はみんなそうだったり……?
 このままでは明朝になって雪が溶けても私の心に芽生えた疑念は一切溶けぬままだろうと、我慢ができなくなって、先ほどの女性を追いかけた。
「ちょっと、すいません、ちょっと待ってください。」
 彼女は不思議そうにふり返る。そうして軽く頭を下げる。
「いえ、あの、りんごなのにマーボー豆腐って、どういうことですか?」
 すると彼女はにんまりと笑った。
「じゃあ、これからうちに、来てみます?」
 彼女のなめらかな前髪と長い睫毛に小さな雪のつぶがくっついて揺れる。弓なりになった瞳の奥に映る、にぶい街灯の光が私をあやしく惑わせる。
「どうするんですか?」
 とまどう私をせき立てるように、彼女は小さな唇をとがらせる。やさしい桜色のルージュが広がったり縮んだりする。
 ——やっぱり大丈夫です! と言い残して私は背を向ける。そうして駅前の路地の古びた中華料理屋に駆け込んで、マーボー豆腐とビールを頼んだ。歳月に霞んだ窓の外では、相変わらずやまない雪の中を右へ左へ過ぎてゆく人々。そんな景色を眺めながら、私はぼんやり考えていた。雪女も、転んだりするのかなあ、と。


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