一滴の水彩

 二十五階の窓からは雨のやまない町が見えた。町は灰色にちぢこまっていた。
「すごい雨だね。」
  ジュリーが濡れた髪をくしゃくしゃに拭きながら、ちょうどバスルームから戻ってきた。
「ええ。」
 ヒロコは目も合わさずに窓から離れた。
 サイフォンを傾けて一杯のコーヒーを飲み、それからふたりは十六階へ降りた。カーテンを閉め切ったその部屋の、暗い隅でふたりは抱き合った。ベッドのスプリングは雨音より淋しかった。
 抱き合っていてもヒロコには、ジュリーが遠くに居るように感じられた。彼は淋しさを忘れてしまったのだ。淋しさを忘れてしまったジュリーのことを、ヒロコは今迄どおり愛せなかった。彼女の愛したジュリーは死んで、もうどこにも生きていないように思われた。
 一度つめたいキッスをして眠ったが、次に目醒めたとき、ヒロコの隣には背中で啜り泣くジュリーが居た。その声は下手くそなヴァイオリンみたいに脆くたどたどしく響いた。
 可哀想な人……、そう思ったけれど触れてやることはできなかった。そのうちに泣き疲れたのかジュリーは寝息を立て始めた。死んでしまったみたいに優しい寝息だった。
 ヒロコにとって恋愛は哲学だった。正しくあろうとしたし、どこかに答えがあるんじゃないかと思っていた。そうして守ってゆきたかった。
 ジュリーにとって恋愛は、終わりのない詩を永遠に追いかけることだった。急ぎ過ぎたり、行き遅れたり、上り下りや甘い調べ、時には残酷な響きも聴きながら、それでもジュリーにはそれしかなかった。ほかにやり方が見つからないのだった。はなから答えなんてあると思っていなかったし、どんなに間違ってもふたりの均衡さえ保たれていれば、あるいは世界さえ滅んでも構わないと思っていた。家族にも、友人にも、背を向けてやる覚悟だった。ただ、ヒロコにだけは、背を向けたくなかったのだ。
 その夜、雨はやまなかった。

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