夜の中の真昼

 ヒロコはまたいつものように長い寝坊の末に瞼を開けて、とうにレースのカーテンを突き抜けて差し込んでいる陽光に首元を灼かれている。確認するでもなくブリキの目覚まし時計の針が正午を回っていることは、彼女にとって早朝の、九時をおそらく知らせたはずの鐘の音の余韻が、もうこの止まった部屋のどこにも残っていないことからも明らかだった。剥がれかけたシーツを蹴飛ばして起き上がり背伸びをし、その拍子に二十年物のベッドは間の抜けたスプリング音を軋ませる。
 頭上からヒロコの名を呼ぶ声がした。ヒロコは返事もせずゆっくりと自室の十六階からダイニングのある二十五階へ上がった。螺旋階段をめまいしそうになりながらくるくる上がり、ただ吹き抜けの天井のずっとずっといちばん上の、ステンドグラス越しに見える空が幼い日に弟と取り合いをしたきらきらの折り紙の色によく似ていることは、このときいつも思うのだった。
「おはようございます。今朝はヒロコさんの好きなオクトパス型の目玉焼きでございますよ。」お手伝いのトメが言う。ヒロコは別段目を輝かせることも舌なめずりをすることもなく黙って席に着いて手を合わせた。オクトパスの目玉焼きは、黄身が頭の部分、白身が八本の足を表しており、魚の苦手なヒロコにとって、しかし海の好きなヒロコにとって、なんとも夢にあふれた料理であった。箸先でつつけばすぐに黄身があふれ出し、いつか散歩をしている折に、森の中で柊の葉に切りつけた手首より、とめどない血の玉がぬぐってもぬぐってもふくらんで来たことを、ヒロコは思い出しながら、振りすぎた胡椒は公園の砂場の体裁。
 ヒロコがスパイシーな少女なのは近所でもうわさだった。妹のみゆきが狂信的に甘党なのと比較されて、余計にふたりの存在は町内会でも際立っていた。もっともこの町に若い娘がヒロコ達姉妹しかいないことがいちばんの原因ではあるのだが。
 海の近い町だった。そこらじゅう潮の匂いが染み付いていた。ヒロコはそれが好きだった。みゆきがまだ弟だった頃、そして辛党だった頃、ふたりはよく港の桟橋に腰掛けて細っこい足をぶらぶらさせながら、ドライソーセージを齧りながら海を見た。遊覧船の外国旗が南風を孕んでいとこのお姉さんの開襟シャツの胸元みたいにはちきれそうに膨れ上がるのを面白く見ていた。
 件の思い出さえ今は遠く色褪せて見えるほど何もかも変わってしまった。町にはコンクリートが敷き詰められて、潮の匂いは工場排水の臭いと混じってその涼やかさを失っていた。父親は煙草屋をとっとと畳んで、どでかいジャム工場で雇われ懐をあたためた。町の人々の多くが今ではそのジャム工場で働いている。潮の町はジャムの町となった。ヒロコはジャム工場がきらいだった。一度近くまで行ったことがあるが、甘い香りなどひとつもしなかった。職を与え、金を与え、魔法のようなジャムを与え、人々を縛り付けて離さないその工場の内部でなにが行われているのかは、窓のひとつもない壁面からは想像もつかなかった。イチゴやブルーベリーはともかく、あらゆる果物、野菜、果ては肉まで、得体の知れないどんなものでもどろどろに煮えたぎらせてジャムにしてしまう場所である。
 町は瓶詰めである。つまりは都会になってしまったのだ。その象徴がヒロコの家である。父親は二度目のボーナスで既にこの家を建てた。元々二階建てだった家を改築して二十五階建て屋上付きにしてしまった。だが父親の上司に当たる元魚屋の主人などは、五十階建てにしてしまったというのだからおそろしい。そしてヒロコの父親は死んだ。糖尿病だった。一日三つほどジャムの瓶を空にしていた。ヒロコは泣かなかった。恨みはした。大好きだった町を破壊した全てのやつらを。
 二十五階の窓から見える景色はぼんやりして他人事だった。この塔から出ないでいれば、楽しいこともない代わりに、辛いこともきっとないのだと心に決めて、自室のある十六階より下へはもう長いこと降りていない。みゆきの部屋は十七階だがこの頃物音がしないから、きっとどこかへ出掛けているのだろう。みゆきは見るたび女になってゆく。思春期が加熱したのだ。ただヒロコは今でもみゆきのことが好きだったし、町が元通りになったらふたりで町角の洋服屋さんへショッピングにでも出掛けたいと思っているところである。
 淋しい気持ちになったのでヒロコは二十二階のバスルームでシャワーを浴びたあと、二十一階の書斎からお気に入りの詩集をひとつ持ち出して、十九階の人形部屋でぬいぐるみの山に顔をうずめた。カーテンを閉め切った部屋は暗くて埃の匂いだけがした。そのうちヒロコは眠ってしまって、次に目醒めた時はもう夕方だった。また頭上からトメの声がしたので二十五階に上がった。トメが「お客様がお見えです。」と言った。長い黒髪に癖毛の跳ねた恋人のジュリーだった。ジュリーは「おはよう。」と言ってヒロコに微笑みかけた。ふたりはレーベンブロイで乾杯した。西陽がちょうどセンチメンタルな具合に切迫して、町を臙脂に染めていた。それはコンクリートの風景が唯一映える時間だった。
 食後にふたりは腹ごなしに屋上へ出た。ちょうど空には星が幾つか数えられ始めていた。生温い風がするりと首筋へ忍び込んで来て心地よかった。けれどなんだか目の前の景色が美しければ美しいほどヒロコは淋しい気持ちになるのだった。ヒロコの睫毛が下向き加減のまま、でたらめに微笑んで見せたのを、ジュリーは見過ごさなかった。ヒロコの髪を撫でつけながら、しまいには抱きしめて、「君は、ぼくがどんなに君を大切かわからないだろう。」と呟いた。そうしていてもふたりは背中合わせだった。ジュリーは未来を、ヒロコはいつだって過去を向いていた。その方角がふたりの故郷なのだった。
 工場は深夜でも一時も休むことなく稼働しつづけている。だからちっとも潮の匂いは戻ってきやしなかった。ただヒロコが不意に安心したのは、何か懐かしい匂いがしたからである。それがジュリーの慈愛に満ちた低い声なのか、少しの酔いどれが開けた記憶の引出しなのか、誰にも判らなかったけれど。
 夜は無闇にあかるくなりつつあった。星の数がもはやかぞえられなくなっていた。空一面、煌めきが飽和していた。白と黒との境が、いよいよもって失われていた。果たして真昼のようでもあった。ふたりの足元には影さえ出来た。その影は連なって伸びて、ずっと遠くの地平線の彼方まで伸びて、やがて消えた。

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