小さな窓のある部屋

 白衣の色は水色だった。水色なのに白衣と呼ぶのはいささか矛盾を感じるけれど、矛盾のない物事の方が少ないこの世の中では、たとえ白衣と喪服とを言い違えたって、なんら差し障りのないことだろう。あるいは私にとって、それは喪服と呼ぶのが最適だったかもしれない。その色を、いつもは大好きな空の色にたとえるのに、今日はまっ先に青ざめた死人の顔色が浮かんだ。その袖口から覗いた細い手首の色が、またぞっとするほど白かったので、思わず眼をつぶったら、「痛かったですか?」と彼女は問うた。私は幽かに首を振った。それが精一杯の否定だった。
 ほとんどKissできそうな距離にまで近づいていた。切り揃えられた前髪の奥で二重瞼のまなざしが私を見据える。彼女は私の唇を触った。手袋越しにも生温かい体温が伝わってくる。繊細な指先に息を呑んで、思わず舌を這わせたら、おどけていると思ったのか、彼女は私の頭を軽く小突くそぶりをした。マスクで隠された口元から、少しだけ息が漏れて、目元の涙袋がぷくりと膨れた。
 この部屋では、私の時は巻き戻される。青春時代さえ通り越して、私は生まれなおすのだ。ほとんど歳も変わらぬこの女性に、私が感じていたのは、恋とか、夢とか、エロティシズム、それすら追っつかない、豊穣たる母性であった。彼女から溢れ出る慈愛が壁じゅうを反射して丸ごと私を包み込んでいるようだった。
 私は口を開けた。彼女は柔毛の歯ブラシを手に取って、私の口へそれを突っ込む。歯と、歯茎の間へ、毛を差し入れて、掻き出すように、私の口内は蹂躙された。博愛主義を唱えていれば、溝掃除をする喜びは味わうことができるだろう、けれど溝掃除をされる地球側の気持ちなど、永久に想像もつかぬものだと思っていた。私はこのかよわき一人の博愛主義者に身を任せることにした。丁寧だけれど、どこか乱暴な彼女の手つきは、まるで私を悩ませるうぶなわがまま娘のようだった。長いワンピースの裾を掴んで、砂浜を懸命に駆け回るお下げの少女が浮かぶ。天井の低いこの部屋には、通りを走る車の影しか見えない小さな窓があるばかり。空想だけが雲行きを変えてしまう。今日の天気は、海だ。
「おわりましたよ。」
 眼を開けた。私の顔を覗き込みながら、今度はマスクをずらして、ルージュもつけない浅い色の唇で、「おつかれさまでした。」と微笑む彼女。私は上体を起こし、手元の蛇口で二三度口をゆすいでから、「ありがとうございました。」と返した。
「次は冬頃ですね。」彼女は何も知らぬ様子。それもそのはずだ。さよならはまだ、私の心だけが知っている。……言い出せなかった。何も言い出せないまま、待合室へもどった。
 数分して、私の名が呼ばれた。受付の娘はいつもと変わらぬ細い腰の前で両手を重ねて、「おつかれさまでした。」と笑う。私はいたたまれず財布の小銭を探るばかり。
「次は十二月ですね。御予約はどうなさいます?」
 あどけない娘の笑顔が、一瞬でも引きつるところなど、見たくなかった。見たくなかったけど、私は告げた。
「もう、逢えません。僕、遠くへ行くんです。」
 娘の瞳が潤んだ。幻だろうか。とうに私の両眼など、何の役にも立ちやしない。淋しさに縁取られた町の景色が見えるばかりだ。あの人も、あの人も、今の私の視界には、水色のお化けにしかうつらないのだから。
 背を向けた。自動ドアーが静かに開いた。振り向きもせず、私は一段、また一段と階段を降りる。あの部屋の小さな窓から、今、私の背を見送ってくれている人がいるだろうか。

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