ロマンス

 昨晩は大変お疲れさまでした。うちに集った友人と、持ち寄った酒を飲む会合は、始まりから欠かさずしてもうじき丸一年を迎えそうである。この頃私はお金がないものだから、酒の購入は控えているんだけれど、缶のチューハイ一本くらいならと、痩せた財布の小銭入れを探り探りして、近所のスーパーへ立ち寄り求めた、キリンのレモンチューハイ一本、おつまみコーナーには目もくれず、そうして家へ帰り、友人の到着を待った。友人は私に比べればお金の都合もつきやすい生活をしているし、収集癖、大酒飲み、世話焼きなどが働いて、毎度高そうな瓶入りの焼酎や、多様な肴を持ち込んでくれる。そうして別の友人も、一本ワインを準備していて、そのほか、我が家に残ってある貰い物の酒を含めれば、じゅうぶんに困らない量のアルコールが支度されているのであった。
 乾杯して、テレビを点ける。録画してあるバラエティ番組は、概ねハードディスクの要領不足の問題で消してしまったから、宴の席でわいわいと眺めやるような番組は見当たらず、ひとまず音楽番組を流しながら会話の方に身を乗り出す。その内容、一から十まで他愛なく、記憶に留めておくことさえ難儀である。酒はいつでも進んだ。私たちの飲むペースは同じくらいだった。酒飲みの友人が私に合わせていると云った方が正しいけれど。
 それにしても、お酒の強さに関して、周りの人間にどんどん追い抜かれている感がある。始めのうちは私のことを強いと云っていた人間も、時間を経て、知るうちに、弱いとまで云い始めることがある。おそらく酒は飲めば慣れるのだ。私は人より先に慣れていただけなのだ。慣れていない人間と飲めば、それは自分が強いと錯覚しても仕方がない。私のアルコールの許容量のピークは、一年以上前にとうに迎えられていて、その頃まだ酒を飲む習慣のなかった友人らは、伸びしろを大いに残したまこちら側へと引きずり込まれた。私はもう長いこと同じことを続けているし、どのくらいで酔ってしまうか、どのくらいで明日へ響くかが大方判って来ている。判っていても飲むことを余儀なくされる場合もあるが。日頃はもう、私は無理をすることを辞めてしまって、酒なんて何も、スポーツではないのだ、周りが全員酩酊していても、また逆に、堅苦しく生真面目な装いしていても、同じだけ酔っぱらえるのが正解な気がするのだ。
 しかし寒い夜で、小さな炬燵がひとつあるばかりの部屋では、その寒さ凌ぐには心許なく、上着羽織ってもなお寒い。途中、小休止に近くの自販機まで飲み物を買いに行った折には、身体じゅうがたがた震えて、芯まで冷や水浴びせられたような心地であった。
 やがて夜も更け更け、部屋には泥のように青年の寝姿が転がる。朝まであっという間であった。朝はとても穏やかに訪れた。まるっきり土曜日の朝だった。私はそっと起き出して友人の足を踏みつけぬよう、空いたグラスを下げ、ひとり台所へ向うのだった。宴のあとの淋しさは、妙に熱い余韻があって、不思議と安心さえ覚えるものだ。
 友人達の帰ったあとには、私は風呂の残り湯を沸かし直し、遅めの朝風呂に浸かった。昼風呂と云ってもよい。蒸気にまみれながらiPhoneをあやつってネットサーフィンをする。懐かしいサイトを覗いたりして、センチメンタルな気持ちになる。初めてつくったブログのことを思い出す。それはまだ私が中学生の頃だった。家にパソコンが来て、自由にインターネットが使えるようになったことに浮かれて、ひっそりとブログをつくってみたのだ。単なる中学生の日記にも及ばぬ駄文をつらつら書きなぐっていただけのブログだったが、ほんの数人、読んでくれている人もいたし、私を熱中させるには十分すぎるほど、世界の広さを教えてくれた。そうして私が華やかな青春に背を向けるように夜の明るさへ引きずり込まれるのは時間の問題だった。そうした日々の延長に今があって、失ったものと得られたものを天秤にかけたとき、もしも人生をやり直せたとしても、多くのものを手にしたあとで、今、失いたくない幾つかのものごとが、仮に行き違いを起す未来が待っているとしたならば、私はやり直すことそのものを躊躇してしまうだろう……、などと思いながら、湯舟に汗を落とす。
 夜。ホットブランデーを飲むことにした。ハチミツがない。レモンがない。クローブはあった。耐熱グラスに注ぐ。あったかくて胸に灯がともる。労働なんて忘れてしまって、甘い夢を見ていたい。夢はなにより美しくて、優しくて……。だけどそのいちばんおそろしいところは、それが永遠でないということだ。いつだって朝は来やがる。シーツをぎゅっと握りしめて、私を離さないでと泣きつきたくなる心持ちで、羽毛布団に抱かれて眠るも、その心変わりのつめたさに、グッドバイさえ息をひそめる。

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