表現の自由の淵源

某青いのが表現の自由の顔役やりだしてからしばらく立つけど、誰も表現の自由がどこから来たかも知らなさそうだ。
それについて誰も語らないし、興味も無いのだろうと思う。
それでもあえて、俺がどのように表現の自由と関わり、そしてその根源まで辿っていったかを粛々と綴ろうと思う。

表現の自由について関わり始めてから10年くらいが経つ。
当初は都条例と児童ポルノ法の改正案の時からで、その時俺は何をしたかというと、アレオパジティカを読むことだった。
この本の何が重要かというと、言論の自由の宣言がここから始まったということだ。
そしてさらに遡ると、自分でもあまり知らなかった前提があることを知った。

それは何かというと、かつて聖書はラテン語以外に翻訳すると焼き殺されてたということだ。

キリスト教にとって聖書がいかに重要な基準であるかは、条文一つの解釈巡って公会議を起こし、それでも一致しないな宗派ごと分裂することからも分かる。
カトリックが多言語翻訳などやろうものなら、正当性担保など破滅的に無理だろう。
実際多く聖書を刷れる訳でもないころだからそれでもよかった。

でもある日疑問を呈する人も出てくる。
プロテスタントの台頭である。

彼らはこう考えた。別にラテン語で無くとも各国の言葉に訳してみんなで読めればもっと良くなるのではないか、と。
実際大問題になった。
初期とか焼き殺され尽くした。
フスとか正に最初期の人である。彼もまた信仰の自由のために火あぶりになった人だ。
分かるだろうか? 表現の自由戦士と軽くいうが、本物の自由の闘志はかつて本当に火あぶりにされていたということを。

だが彼らの活動も広まりきることもなく、基本的にプロテスタントの流れは、基本的にヨーロッパの辺境に止まった。

ところが時代が下って教会もミスを犯した。
免罪符の販売である。
ルターが猛烈に抗議した。そしてルターも後に聖書をドイツ語に訳した。
時代が時代なら火あぶりだけど、今度は数が味方した。
活版印刷である。

こうして絶対的なカトリックの定める基準、つまり司教が下す聖書の解釈ではなく、万人が各々で判断を下す素地が出来つつあった。
その流れで清教徒革命の書記官のミルトンが言った。別にもう検閲はいらないのでは? と。

ミルトンはいう。検閲しないことで、市井に間違ったのと正しいものが入り乱れることになるだろうけど、それでも真理と虚偽なら真理が負けるわけがなかろうが、と。
これこそが検閲を排除する理由の根幹である。

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