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『天晴!な日本人』 第85回 己を貫いた見事な生き方をした、お鯉(3)


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<本文>

<日比谷焼打ち事件とお鯉>

1905(明治38)年9月5日、日露戦争での「ポーツマス講和条約」の内容に憤激した国民が、日比谷公園を中心に暴動事件を起こします。大臣官邸、新聞社の他、警察署2、交番219、教会13、電車15台が焼き払われました。内乱とも言える規模でした。
これは、政府も軍も日本の窮状を伝えず、ただ勝利のみを知らせたからです。本当は日本はこれ以上戦うことは難しいなどとは、ロシアの手前、言えるはずがありません。
国民は日清戦争勝利で手にした約3億6000万円の賠償金、国家予算の約4年弱ぶん以上の賠償金を獲れるというメディア識者の言葉を鵜呑うのみにし、今回は10億円だ、いや12億円は獲れると皮算用していたのです。

戦争にかかった戦費は15億2321万円(25年もかかって払い終えた)、外債以外に、国民に営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・各種輸入税・地租(固定資産税に相当)などの増税と、親族・家族の戦死傷という犠牲を強いての結果でした。真実を知る政府関係者、伊藤は、講和交渉に出発する小村寿太郎に、帰国の時は国賊呼ばわりされるだろう、わしは必ず出迎えに来る、と告げ、小村も、その通り、と答えています。
彼我の状況をかんがみると、親日のセオドア・ルーズベルト大統領の尽力もあり、決して悪い条件ではないものの、賠償金を一銭も獲れなかったことがメディア・国民の不満に火を点けたのでした。「小村を弔旗で迎えよ」「国民と軍は桂内閣と小村全権に売られたり」と新聞は連日、報じています。そうして、暴動の鉾先ほこさきは政府に向かい、宰相の桂が的になりました。

次には「坊主憎けりゃ袈裟けさまで憎い」で、愛妾のお鯉に向けられたのです。新聞には、「お鯉は傾国けいこくの妖婦」とまで書いたものもあり、住所を知られているお鯉のもとに、「殺す」など物騒な脅迫状まで来るようになったのでした。
お鯉邸に警官が派遣されますが、民衆の襲撃もあり、一時は避難します。他に行く所といっても、お鯉は、他人様ひとさまに迷惑はかけられないと、あっさりと覚悟を決めたのです。
この時、お鯉は使用人たちを避難させ、自邸に戻りました。そして、死装束に薄化粧をし、一振りの短刀を帯びて、座敷に端座したのです。あたかも、武士の覚悟、一分いちぶんを彷彿させる姿でした。

街の騒乱がしずまりかけた頃、桂からの使いの田嶋信夫たじまのぶおが訪れました。田嶋は、「自分に尽くしてくれたことに感謝する。この度、このような騒ぎを起こした以上、身を退いて社会を鎮静化させねばならない。そこを察して、そなたも身の振り方を見つけて欲しい」という口上と、1万円(今の1億円、または2億円)を渡したのです。
これだけの金額ならば、お鯉が生活に困ることはないであろうというものでした。
桂の勝手とはいえ、いさぎよさ、誠実さが窺えますが、お鯉は、「身を引けとおっしゃるならその通りにいたしましょう。しかし、これは受け取れません」と大金を突き返しました。そうして桂に書簡をしたためたのです。

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