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『天晴!な日本人』 第64回 まさに名は表す、山のような人徳の名将、大山巌元帥(2)

<上京後の大山、新式軍制との出会い>

1863(文久3)年12月、大山弥助やすけは、江戸にいました。
薩摩藩が江戸で砲術を学ばせようと選抜した一員になったからです。
他には黒田清隆も含め、総勢10人でした。遊学先は、「江川えがわ塾」です。
江川太郎左衛門(1801~1854)の作った砲術の塾でした。江川は9年前に物故し、その師匠の高島秋帆しゅうはん(1798~1866)が代表を務めています。

江川は伊豆韮山にらやまの代官で、名を英竜ひでたつと言います。この人、大変な開明的な賢人で、1854(安政元)年には反射炉を作り、銃や大砲を鋳造しました。
また、日本で初めてパンを作ったのも、この人です。

高島は長崎人で、オランダ人より砲術を学び、拒否されたものの、幕府に必要性を説きました。洋式砲術の大家となり、後に幕府の講武所こうぶしょ砲術指南役をやっています。
大山らは、そこでフランス式軍隊の教練も見ています。

そうして、塾頭の大鳥圭介おおとりけいすけと会いました。この人は幕府軍の司令官ともいうべき人で、戦術の秀才とも言われた人物でした。後に明治政府の外交官にもなっています。

大山が入塾して驚いたのは、自身の計算力、幾何きかのセンスでした。恐ろしく計算力が速く、正確なのです。
砲術は、発射角度、威力、放物線など、全てが物理学と数学の世界でした。かのナポレオンは砲兵将校ですが、幾何、数学の成績は飛び抜けていました。
大山は、砲術こそ、己の天命かもしれないと考えます。

後に大山は「長四斤山砲ちょうよんきんさんぽう」「十二斤綫臼砲せんきゅうほう」を開発しましたが、綫とは、砲の中にラセン状のみぞを入れたことで、これで射程距離を伸ばしたのでした。ここに大山の頭脳の優秀さが示されています。これらの砲は、「弥助砲」とも呼ばれています。

また、大山は、この縁で「勝海舟かつかいしゅうとも出会い、そこで下足番のようなことをしていた坂本龍馬りょうまとも親しくなりました。
龍馬は海舟を暗殺しようとして海舟宅に来た際、これからの日本についての御高説ごこうせつを拝聴して、弟子入りをしていたのです。
会った時には黒田清隆も一緒で、1866(慶応2)年に龍馬がプロデュースしたとされる「薩長同盟」、実は黒田も大いに貢献しています。龍馬に金を出したのが西郷で、その西郷に同盟を熱心に説いたのが黒田でした。

塾での学習を終えて薩摩に戻った大山は、砲術の第一人者となった他、流罪を赦免しゃめんされた西郷隆盛の手足となって、長州に出かけるようにもなりました。
この間、長州をめぐって「8月18日の政変」「禁門きんもんの変」「幕府による長州征伐」などがありましたが、打倒!幕府に燃える薩摩は、長州と手を組むことにしたのです。
この薩長同盟では、薩摩を嫌っていた長州も、過去のことを水に流して、同盟することにしたのでした。

この頃の大山は、派手な軍服に6連発銃を持ち、西郷や大久保のボディガードとして大いに目立っています。生来のきかなさが表われたかぶものと言えます。若い頃の大山は弁も立ち、機略縦横のやり手でもありました。

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