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『天晴!な日本人』 第84回 己を貫いた見事な生き方をした、お鯉(2)


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<桂との再会>

そのまま、ロシアとの開戦を迎えた頃、桂はボスの山県に浜町の常盤屋ときわやに呼ばれました。山県は同郷(長州)の大先輩で、陸軍の中で桂を引き立ててくれた恩人であり、政界でも山県閥のドンとして右腕、番頭の桂をバックアップしてくれる人物です。
これには桂の優秀さもありました。後に互いに反目した時もありますが、それは桂が独り立ちするだけの政治力を持ったことと、「権力の権化」として、「絶対に権力は手放してはいかん」という山県の当然の帰結でした。
山県は権力、権勢を保とうとする鬼ですが、史上で言われるほどの腹黒さや狡猾さはなく、本来は優しさ、温かさも持った人物です。但し、己の権力のために金銭、爵位と勲章の授与を濫用したことは褒められたものではありません。

他方、桂は、「ニコポン(ニコニコしながら相手の肩をポンと叩く、人たらし)」「十六方美人」「サーベルを吊った幇間ほうかん(太鼓持ち)」などと揶揄やゆ、批判されますが、桂自身の実力がなければ、3度も首相となって安倍元総理の登場まで100年以上にわたって総理在職史上最長記録を作ることはなかったでしょう。
ドイツの兵制を調査し、大村益次郎おおむらますじろうの温めていた徴兵制を、より具体的に山県に上申し、軍政をドイツ式に転換することに大きく貢献しています。

1878(明治11)年12月、「陸軍参謀本部条例」という重要な規制の制定も、中佐時代の桂が中心になってやったことです。1891(明治24)年、名古屋師団長となった際、大災害の濃尾地震が起きた折りには、住民救助と保護に大活躍していますし、日清戦争では第三師団の師団長として出征し、自ら指揮して満州政略を成功させました。
その時、桂は全軍に、「戦争の目的を達するを本旨となすといえども、我に抵抗せざる人民に対しては温和の手段をって、これを愛撫すべし。秋毫しゅうごうも犯すことなく、文明国の軍隊に仁義のいくさをなすの名に恥ずることなきを要す。万一、略奪あるいは婦女子を犯す等のごとき悪業をなすのはなはだしき者なれば、これを厳罰に処す。人民の所有する家財は戦利品にあらず。ゆえにこれを分捕ることの厳禁はもとより、むしろ、これを保護することを要す。もし、これを犯すときは帝国軍隊の面目に関し、野蛮軍隊たるの汚名をこうむるべし。(中略)微発に関しては、住民に必ず微発券あるいは現金を与え、人民を悦服せしめるの方針をとるべし」と訓令を発しましたが、武人としての桂の矜持が示されています。

桂の透徹したバランス感覚、識見は、日清戦争後の請和においても発揮されます。遼東半島の割譲につき、現状の日本の国力を思えば高望みであり、外交は適当な範囲にて妥協するのが国際的慣行と述べて、唯一人、反対していたのです。その後の「三国干渉」を見れば、桂の卓見、先見の明は明らかでしょう。
本当に「十六方美人」ならば、政府も軍も含めて国中が遼東半島を獲れ!の大合唱の渦中で、たった一人、こんなことは表明しません。凱旋後、勲功で功三級金鵄きんし勲章(武功抜群の軍人・軍属に与えられ、功一級から七級まで。三級は滅多に与えられない)年金700円(今の700万円又は1400万円。大東亜戦争後まで続いた制度)、勲一等端宝章授与、子爵を叙爵されました。

しかし、この頃から健康面に影が忍び寄るのです。また、最初と次の夫人共に死別で、3人目の妻、可那子と結婚しています。この後、桂は台湾総督、陸軍大臣を歴任し、政界においても地歩を築き始めました。
1898(明治31)年4月、政治的、学問的に台湾を研究する「台湾協会」が発足した折り、会頭に推され、就任しています。台湾産物の日本本土への輸入、台湾人留学生招致、台湾での文化的普及活動など、財閥を引き込んで展開したのです。
台湾での人材育成のための学校「台湾協会学校」の校長にも就任しています。この学校が改称を重ね、後に拓殖大学になりました。

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