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『天晴!な日本人』 第60回 ひたすら己の信ずる道を貫(つらぬ)いた硬骨漢、山本権兵衛(ごんべえ) (1)

<お知らせ>

祝日の関係で、今週は、(月)天晴!な日本人、(火)フィスト・ダンス、(水)美達さんからの返信、となります。

<山本、海軍までの軌跡>

これまで述べてきたように、日露戦争での帝国海軍は強国ロシアの海軍を完膚かんぷなきまでに粉砕しました。
その裏方での最大の立て役者となったのが、これから紹介する山本権兵衛です。多くの資料では、「ごんべえ」と読ませますが、「ごんのひょうえ」という古式にのっとった読み方もあります。

裏方での立て役者と言ったのは、戦闘自体に、何か作戦で貢献したということではなく、帝国海軍が勝てる要素を持つに至った過程で、多大な貢献をしたからです。
山本は「帝国海軍中興ちゅうこうの祖」とも称されていますが、従来の古い海軍を大改造し、列強としていける(対抗していける)海軍を作った、というのが正確な解釈になります。

山本の最大の特徴は、日本人らしからぬ「唯我独尊ゆいがどくそん」、組織や世間の同調圧力、既得権益きとくけんえき、権力など、ものともせずに、正論を果断かだんつらぬくところにありました。志操堅固しそうけんご剛毅果断ごうきかだんという語に相応ふさわしい人物でした。

山本は1852(嘉永かえい5)年10月15日、薩摩さつま(鹿児島)で生まれました。
父の五百助盛珉いおすけもりたまは、藩主の島津家の右筆(書記)を務め、藩主の書道指南も兼ねていた人物です。書の他にも歌や絵画にも才能のある人でした。
母はつねで、山本は6男4女の5番目の男子でした。

生まれたのは、西郷隆盛や大久保利通としみちと同じ加治屋かじや町ですが、薩摩の子の教育制度の郷中ごじゅうでは、隣町の樋ノ口ひのぐちで受けています。
樋ノ口の郷中の当時のリーダーは黒田清隆きよたかで、非常に気性の激しい人でした。
そのせいなのか、山本も気の強い、傲慢ごうまんとも言える気性の持ち主になっています。
郷中制度については、大久保のところで詳述しているので参考にして下さい。

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