見出し画像

『天晴!な日本人』 第69回 智謀湧くがごとしの辣腕実務家、児玉源太郎(2)


<緊急「大」ニュース!?>

来たる2024年2月16日、いよいよ『天晴!な日本人』がワニ・プラス社より満をして刊行されます。
大久保、小村の他、乃木希典まれすけ、桂太郎の愛妾の、凜とした美人のおこい、高橋是清これきよ、小野寺まこと、東條英機、樋口季一郎ひぐちきいちろうの、日本人の魂を伝えます。
安倍さんの偉業とメディアについても詳述しているので、今後の参考にして下さい。
超人気のおそれあり?あっという間に品切れとなる前に、アマゾンでの予約をしといた方がいいです!よろしく!

<お知らせ>

今回は郵便事情で一部しかコメントが届かず、1月18日07:48から同日10:58迄のコメントへの回答しかありません。
次週、他のコメントへの回答を出します。
すみませんが、楽しみに待っていて下さい!!

<本文>

<西南戦争、その後の児玉>

1877(明治10)年2月、薩摩が蜂起して西南戦争が勃発しました。児玉は、この日の来ることを予期していて妻と子を大阪に帰しています。
この機にも第14連隊長心得の乃木と会っていました。乃木は、この戦いで連隊旗を奪われ、責任を感じて死に場所を求めるような戦い方をしていますが、児玉になだめられています。
西南戦争は9月24日、西郷の自刃、桐野利秋きりのとしあきの戦死を以て終わりました。従事した政府軍の兵は6万人あまり、死傷者は総計で1万6095人、うち戦死は6200人あまり、薩摩側は兵員が約4万人、死傷者は約2万人、処罰者約2700人でした。
児玉は勲四等で年金120円、今の約180万円を下賜されています。その2年後、乃木の軍旗喪失の報告が遅れたというので、児玉が謹慎3日の処分を受けていますが、これは政治的なものでした。

東京に赴任した児玉は歩兵内務書第三版取調という閑職に回され、不遇をかこっています。この時、桂太郎と旧交を温めていました。
桂は山県の知遇を得て、ドイツ帰りの知識もあって、参謀本部管西かんせい局長になり、陸軍の中枢を歩んでいました。桂の使命は、従来のフランス式を、ドイツ式に改めることでした。普仏戦争で、プロイセン、後のドイツ帝国の中核がフランスに圧勝したからです。
現代ではあたりまえの参謀制度の発祥は、プロイセン、英語読みではプロシアです。歴史をさかのぼれば、1806年に「戦争の天才」のナポレオンが、プロイセンの前身である神聖ローマ帝国を滅ぼしました。
以来、プロイセンはナポレオン戦術の研究に明け暮れ、参謀学を制度にしたのです。皆さんが知っているクラウゼヴィッツは、対ナポレオン戦争に従軍した一人でした。彼が戦争を作戦という面から見直し、後のドイツ参謀の優秀さにつなげたのです。
桂とは小柄という点でもウマが合っていました。桂の仇名の一つに「巨頭」というのがありますが、小柄ながら頭は大きく、死後、解剖したところ、脳もカントと同じくらい大きかったとのことです。

1880(明治13)年4月、児玉は中佐に昇進、東京鎮台第2連隊長になります。第1連隊長は乃木でしたが、翌年、児玉は連隊同士での対抗演習を申し込んで完勝しています。
次は乃木の部下たちが雪辱を期して申し入れますが、これまた、乃木軍があっさり負けました。乃木が無能ではなく、児玉が凄過ぎた結果でした。
乃木は後年、児玉の戦術につき、「いかにも放胆でかつ細心驚くばかりなので、非常に敵に恐れられた。命令通りに少しの間違いもなく軍隊を操縦した点などは、児玉の児玉たるゆえんであろう」と賞讃しています。

1883(明治16)年2月、児玉は大佐に昇進、2年後のメッケル少佐来日を迎えました。メッケルはドイツの参謀のドン、モルトケ推薦の愛弟子で、『戦術学』などの著書を17冊も刊行していた軍人です。
1886(明治19)年3月、臨時陸軍制度審査委員会の委員長となった児玉は、メッケルと対面します。メッケルの年俸は6000ドル、1ドルが1円銀貨1枚の頃で、日本の少佐の年俸は1000円足らずの時でした。
メッケルは、統帥とうすい権の確立を唱えます。これは政治が作戦に介入できないことを目指すもので、昭和の陸軍が悪用して、独善独走となったのは残念でした。
翌年、児玉は陸軍大学校校長となります。陸軍の超エリートを養成する学校ですが、これも悪い方に傾き、昭和には頭でっかちの秀才が道を誤ることになりました。
メッケルは徹底した現地に赴いての実地演習で、日本の軍人を鍛えました。3年後、離日する際、最も優秀なのは児玉、次には小川又次またじを挙げています。
小川は日清戦争での功で勲3等、男爵に叙せられ、中将で日露戦争を迎え、奥大将の第二軍の傘下となっています。南山なんざんの攻防ではロシア軍を潰走させ、独創的な戦術家として知られていました。日露戦争中に大将に昇進しますが、戦傷で内地に戻り、休職しています。

1889(明治22)年8月、児玉は少将になりました。そして、ヨーロッパに留学を命じられ、1891(明治24)年10月に横浜港を出ます。ドイツでは昇進していた恩師のメッケル「大佐」と再会、さらなる戦術の教育を受けていました。
この時、兵站へいたんの重要性を指摘されています。兵站とはロジスティックス、補給、輸送のことで、これが未熟で大東亜戦争は負けたようなものでした。
兵站のまずさのため、戦地での餓死者が続出したのです。陸大出身のエリート参謀らの大失敗でした。彼らは机上の空論でしか作戦を立てないドアホウだったのです。そのために何十万人、百万人単位で死なせてしまいました。なんと悲惨なことでしょう。明治の軍人とは、人徳も気骨も、戦う脳も別人のようでした。

さて、メッケル大佐ですが、エリートとして軍人街道をまっしぐらと思いきや、少将になった折り、人妻との不倫、熱愛で左遷、その後も別れず、予備役となりました。相手の女性は離婚してメッケルと一緒になったとのこと、それなら、それもまた人生か、というところです。

ここから先は

2,813字
書評、偉人伝、小説、時事解説、コメント返信などを週に6本投稿します。面白く、タメになるものをお届けすべく、張り切って書いています。

書評や、その時々のトピックス、政治、国際情勢、歴史、経済などの記事を他ブログ(http://blog.livedoor.jp/mitats…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?