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『天晴!な日本人』 第50回 神算鬼謀(しんさんきぼう)の奇才、天才参謀の秋山真之(さねゆき)(2)

<士官としての出発>

この時の海軍では、鋼鉄船は『高千穂たかちほ』『扶桑ふそう』『浪速なにわ』『高雄たかお』『筑紫つくし』のみで、他は小さいか、鉄骨木皮の古い船が大半でした。まだ、国産で大型艦を作るまでには至らず、外国から買っていたのです。

真之が帰国した年の7月、清国海軍の北洋艦隊は『定遠ていえん』『鎮遠ちんえん』という7400トンの巨艦の他4隻、計6隻を連らねて親善と称して長崎、神戸、横浜、くれに寄っています。
『定遠』『鎮遠』はドイツのフルカン社製の新鋭艦でした。主砲は口径12インチ(30センチ)という、この頃としては巨砲です。その他に6インチ(15センチ)副砲2門、3インチ(7.5センチ)砲4門を持ち、げんの装甲は厚さ30センチの鋼板という艦です。

北洋艦隊の本当の目的は、デモンストレーションでした。それらの巨艦を見せつけて、日本を威圧しようということです。
そのため、艦内も日本人に公開しています。乗艦した日本の海軍士官たちも、分厚い装甲と、日本にはない30センチ砲に瞠目どうもくしています。

呉でも日本の海軍軍人を招いてレセプションを開いていますが、招待された中に、呉鎮守府の中牟田なかむた長官と、東郷平八郎参謀長がいました。
北洋艦隊は『平遠へいえん』を呉軍港の修理ドックに入れ、修理していますが、これは軍港の地形、ドックの技術を探るためでした。その間、乗員は艦内にいましたが、毎日、それを観察していたのが東郷です。
東郷の北洋艦隊評は、「恐れるに足らん」でした。海軍軍人として神聖な砲に洗濯物を下げ、その下で賭博をし、ゴミを散乱させている兵士を見れば、士気も低く、軍紀が緩んでいることもわかります。
事実、数年後の日清戦争での両海軍の戦いは、っ気なく日本の勝利で終わっています。

1891(明治24)年の暮、真之は父を喪いました。1893(明治26)年6月、真之はイギリスから『吉野よしの』の回航を命じられます。
回航というのは、日本が発注した軍艦が完成したので、それを日本まで航海させろということです。
『吉野』は中型艦として最高性能の新鋭艦でした。4200トン、12門の速射砲を持ち、最高24ノットの快速艦です。
『吉野』は、日清戦争でも活躍しました。1ノットは1.85キロのことで、24ノットは時速44.4キロ、15ノット(27.8キロ)から18ノット(33.3キロ)が普通の当時としては超快速艦でした。それゆえに新鋭艦の『吉野』に、日本の期待が集まっていたのです。

北洋艦隊の巨砲に対して、快速かつ速射砲は絶大な威力を発揮しました。
この船のため、国家として貧しかった日本は明治天皇が30万円(今の約1200億円)を下賜され、それに国民が呼応して建造資金を寄付で集めて配備されたのです。
巡査、教師の月給が4円5円の時の200万円強の建造費でした。月給5円として今なら約5万倍、1000億円強と高価です。
現在、海上自衛隊の護衛艦が1000億円前後ですから、貧しかったこの時代、いかに軍艦が高嶺たかねの花だったかわかるでしょう。

『吉野』の回航委員には、日露戦争時の連合艦隊参謀長になる加藤友三郎ともさぶろう大尉がいました。この人は海軍の歴史上77人の大将の中でも、山本権兵衛ごんべえ(ごんのひょうえ、とも)と共に優れた大将と呼ばれています。
後世のワシントン条約会議での日本の全権、その後、首相にもなっています。

『吉野』は、イギリスが様々な造艦上での冒険をした艦だったので、最新にして最高の装備と性能を誇っていました。それで不具合がなければ、自国の軍艦に採用しようとしたモデル艦だったのです。

1894(明治27)年8月、日清戦争が始まりました。真之は『筑紫』の航海士に任命されています。排水量1370トンの古い艦でした。
帝国海軍は初めての連合艦隊を編成し、伊東祐亨すけゆき中将を司令長官とします。連合艦隊は、平時の各艦隊を統合し、司令長官命令で一体化した戦闘ができるようにしたものです。

大東亜戦争で負けて海軍が解体されるまで、24人の長官がいました。
皆さんが知っているであろう軍人では、東郷平八郎が3人目、鈴木貫太郎かんたろう(大東亜戦争終結時の首相)が10人目、米内光政よないみつまさ(開戦時の海相、海軍の大物)が18人目、山本五十六いそろくが21人目、勇猛で知将の小澤治三郎じさぶろうが24人目でした。美達さん、全員覚えています。

真之、特別に活躍したということはありませんが、後年、天才参謀と言われた観察力・分析力の片鱗へんりんうかがわせる報告を、海軍大学教官の山屋他人やまやたにん少佐に出していました。
この山屋も後に8人目の連合艦隊司令長官になっています。この人は、鎮守府長官だった頃、精神異常者の通り魔的事件で愛児を殺害された悲劇の人でした。鎮守府とは海軍の駐留地のことで、長官とは陸軍の師団長と同じです。

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