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『天晴!な日本人』 第63回 まさに名は表す、山のような人徳の名将、大山巌(いわお)元帥(げんすい)(1)

<WHO?大山巌>

明治維新を経て国際社会にデビューした「弱小国」日本が、新進気鋭しんしんきえいを通り越して、「強大国」としての勇名を冠された記念碑的「大イベント」が日露戦争でした。

国家予算で約8倍から10倍(その年により異なるため)、陸軍兵力は10倍も大きなロシアを相手に、戦前の国際社会での下馬評げばひょうである、「日本はロシアの相手にもならない、鎧袖一触がいしゅういっしょくだ」をくつがえして、日本は終始、各戦闘で勝利を積み重ね、「勝っているうちに上手に講和に持ち込んだ」のでした。

そのため、ロシア陸軍参謀本部では、少しも負けたという空気はなく、これからシベリア鉄道で精鋭兵をどんどん送り込み、日本を撃破する気マンマンだったのです。
現実にも、日本が今後、動員できるのは約64万人とされていたものの、そのほとんどは壮年の予備役・後備役兵で、開戦当初からの精強兵は死傷、あるいは疲れきっていた他、銃弾・砲弾の補充も不調という状況でした。そうして、何よりも戦費がなかったのです。
大本営の試算では、尚、1年の継戦となった場合、6億円が必要とのことでしたが、その金は日本にはなく、外債募集をしたとしても全額が集まるか、目算もくさんが立たなかったのです。

そうした現実に対して、日本の陸軍首脳部以外の各軍の将軍、将校、下士官、兵らは意気軒昂けんこう、いくらでもやってやるぞ!の心意気であり、かつ、欧米の観戦武官らプロの見方は、日本軍の方が強く、負ける可能性は低い、というものでした。
彼らが、日本が勝つと見たのは、第一軍から第四軍、鴨緑江おうりょっこう軍の司令官たちが優秀だったこと、将校以下、兵士らに愛国心と戦争意欲が旺盛だったこと、日本軍は命を捨てて戦うことを全く恐れていないという、欧米の文化からすると想像できない精神性メンタリティがあったことなどが理由です。
軍規の厳しさも、軍の強さとして欠かせない条件でしたが、これについては当時の日本軍はダントツでした。
明治の日本軍がさまざまな意味で強かったのは、一にも二にも、武士道、忠義の魂、おおやけの奉仕の精神、胆力の太さがあったからです。
それだけ、武士道が持つ勇敢さ、責任感、惻隠そくいんの情など、サムライ精神が生きていた時代でした。

前置きが長くなりましたが、今回、紹介するのは、その陸軍の満州軍総司令部総司令官の大山いわおです。
総司令部隷下れいかの各軍の司令官は、どの人物も剛毅、勇猛、戦闘意欲、人格共に尋常ではない、歴戦の猛者もさたちでした。
それらつわものを束ねられたのは、この大山の度量の広大さと、人徳があったからです。

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