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隋唐皇帝一族

 匈奴と鮮卑だらけの家系図。仮に漢族出身だろうが鮮卑化し、これだけ通婚していれば中身は胡族。そのため遊牧民の特徴になるレビラト婚が見られる。レビラト婚とは、亡くなった血のつながらないの妻を兄弟や息子が娶る風習でありモンゴルなどの遊牧民に見られる。隋唐皇帝もレビラトを行っており遊牧民の性質を強く残している。

 ちなみにモンゴル高原にある遊牧民国家は部族連合の形をとっており部族(もしくはその下の氏族や家族、個人)ごと匈奴から鮮卑に移ったり、鮮卑から匈奴に移ったりすることがある。これは部族の力関係で決まる。鮮卑の部族国家に参加しなかった部族は、更に北の方で柔然(モンゴル系と目される)や突厥(テュルク)と言う部族国家を作っていた。

 登場人物は全員武川鎮軍団出身になる。北魏の時代、首都平城の北方陰山山脈南麓に高車(トルコ系と言われる)を分散し、管理する為に配置したのが六鎮で、そのひとつが武川鎮になる。この時、鮮卑の北方に柔然が勢力を広げており、六鎮は首都防衛の要だった。そのため本来エリートが配置される場所だったが、北魏の洛陽遷都とともに洛陽居住者の優遇と六鎮冷遇が原因で六鎮の乱が発生し北魏は崩壊する。その時、武川鎮の宇文泰を中心にして出来た傀儡政権が西魏で、宇文泰の北周に引き継がれる。その後、外戚の楊堅が北周を乗っ取り隋を建国し、天下統一を成し遂げる。息子の煬帝は、揚州に引きこもってしまい、部下に暗殺され崩壊する。煬帝の従兄弟の李淵が再統一し唐を建てることになる。

武川陳軍団・隋唐皇統図

 さてここにあるのは隋皇室と唐皇室の系図になる。女系で見ると匈奴や鮮卑ばかりになる。

 これは「貞女は二夫に見えず」とした漢民族のと相容れぬ概念になるが隋唐皇帝は鮮卑族なので漢族の風習など無問題。

 唐高祖の母親は匈奴人で、唐太宗の母親も匈奴人、唐高宗の母親は鮮卑人、武則天の母親は唐書には姓しか書かれていないが、別の史料には隋宗室出身とある。ただし武氏についてはよく分かっていない。しかも太宗に嫁いだ後、息子の高宗に嫁ぎなおしておりレビラト婚らしきものが見える(名目上一度出家している)

 随の煬帝が父の妃だった陳氏を娶ったのも鮮卑のレビラト婚に過ぎず、これをもって暴君にする理由はない。

 その点では息子の妃(楊貴妃)を寝取った玄宗の方が上。当後期には同族婚も行われている(遊牧民は族外婚で、儒教も宗族内の婚姻を好ましくしていないのでどこから来た風習なのだろう)

 ただし北魏から唐にかけては、石に墓誌を書いて埋める習慣があり20世紀に5万以上の墓誌が盗掘されたようで今後の墓誌研究によって正史の内容がひっくり返る可能性もある。

 2018年には9世紀の唐宗室の李宏の墓誌が発見されているが、そこには趙州昭慶人とあり、唐皇室が主張している隴西李氏ではなくなる。趙州昭慶(河北省邢台市隆堯県)は戦国趙が存在したところで白狄の中山国にも近い。五胡十六国時代だと目まぐるしく勢力が変わっている感じだが鮮卑慕容部の前燕後燕の勢力圏あたりか。しかし、9世紀には唐皇室は隴西李氏と主張しているはずなので墓誌に趙州昭慶と書いた理由が気になる。

 なお楊貴妃は、隋宗室に連ならない。北周由来の府兵制が破綻し都護府の代わりに節度使(藩鎮)を置く様になると武川鎮は凋落していく――とはいえ第11代皇帝代宗まで、皇帝の母親は武川鎮系。

 節度使の分裂から突厥人、ソグド人、ウイグル人なども権力を持つ様になりそれが宋代まで続く。突厥沙陀族系軍閥出身国家の宋は禁軍に軍事力を集中させ節度使を解体させることになる。

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