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既に弥生時代の時代は500年繰り上がっている

 既に弥生時代は、紀元前3世紀から紀元前8-9世紀まで繰り上がっていると言う。さらに、紀元前10世紀まで繰り上げる説も存在する。現状最古の水田稲作遺跡は菜畑遺跡で紀元前930年頃と推定されているらしい。そうなると日本の稲作は、朝鮮半島南部と同時期かそれ以前に始まってる可能性もある。その理由は朝鮮半島最古の水田稲作遺跡が慶尚南道喜山のオクキョン遺跡で紀元前11世紀頃と考えられているからである。しかし、稲作が朝鮮半島南部から来た事は譲れない政治案件らしく未だ抵抗しているようだ。従来説では朝鮮半島から日本へ稲作が入るまでに700年余の猶予があったのだが、現在説では50年しか猶予がない。しかし稲作伝来に関しては農学者の研究を無視し、紀元前10世紀後半と紀元前11世紀の間で科学的ではない政治的な攻防が行われている。最新の遺伝子調査によれば小豆の栽培は縄文時代の日本から逆方向に伝わったらしいが政治的には朝鮮半島から伝来しないと駄目なのだろう。

 これは時代の測定方法が、従来の炭素14法から酸素同位体比年輪年代法に変わったことと関係しているらしい。炭素14法は植物に閉じ込められた放射性元素、炭素14と窒素14の比率を調べることで年代を推定する手法で従来用いられていた手法だが、誤差が100年以上あると言う問題があった。恐竜の化石の年代測定なら問題ないが、人間の時代になると100年の誤差はあまりに大きく数字がアテにならない。酸素同位体比年輪年代法は植物に閉じ込められた酸素16と酸素18の比率を比較する方法で、あらかじめ年ごとの酸素16と酸素18の構成比のデータが必要になるが、誤差が1年以内と極めて小さい。ただし、サンプルが無い時代の年代までは調べられないので3000年前ぐらいが測定限界らしい。このデータにより、その年の気候や降水量まで推測できると言う。ただし日本の水田稲作の受容年は、この方法の測定範囲以外にあるため正確な数字が出ない。そのため紀元前8-9世紀までしか遡らせられなかっただけともいう。政治的歴史学者の炭素14法で古い数字が出た時の脅し文句、測定誤差が使えなくなかったので、受け容れるしかなくなったのもあると思われる。酸素同位体比年輪年代法が広がるのは2010年代なのでそれから僅かな期間で水田稲作の開始時期が繰り上げることを否定出来る証拠が消滅しまったのであった。そのためかインターネットを調べてもアップデートされていない10年以上前の古い情報が沢山が出てくる。

 そもそも弥生時代と言うのは明治時代の稲作信仰と原始共産主義の縄文時代が穀物栽培と手段を持つ事で階層社会化していくと言う唯物史観のストーリーから生まれた概念なので、紀元前1000年の水田稲作の跡が見つかるといろいろ不都合が生じる。

 しかし紀元前8-9世紀の水田稲作の痕跡が既に大量に見つかっている状態で、従来の弥生時代の設定だと、縄文時代晩期に水田稲作が行われていった事になってしまう。もちろん従来の弥生時代の設定だとこの説は正しい。しかし唯物史観的には縄文時代に水田稲作が行われているのは不味いのだ。

 そこで、弥生時代を繰り上げると言う奇策に打って出たようだ。それにより弥生時代は500年繰り上がった。ところが縄文時代は中期には階層社会に変化しているので唯物史観のストーリーは既に完全に崩壊されているのだけど。しかも紀元前500年頃の寒冷期で日本の人口は水田稲作伝来したにもかかわらず減っているため弥生時代の水田稲作の伝来は人口増加に寄与していない。いつまで稲作神話に取り付かれているのやら。

 この繰り上げにより縄文時代に水田稲作は行われていなかったことになる。何しろ水田稲作が行われていた時期はすべからず弥生時代に認定されるのだ。仮にこれより古い水田稲作の証拠が見つかっても縄文時代に水田稲作が行われていた証拠にはならず、単純に弥生時代が繰り上がるだけである。水田稲作が縄文時代の終わり頃に伝わったのは当たり前。なぜなら水田稲作の始まりを弥生時代と定義しているからである。

 しかし、そうなると困るのは既存の歴史妄想。今までの紀元前3世紀から弥生時代が始まったことを前提とした諸説が全て破綻してしまう。

 まず弥生時代が鉄器時代と言う前提が崩れ去っている。なぜなら紀元前10世紀は殷周時代に相当し大陸に鉄器が存在しない。存在しないものは伝来しない。そして鉄器時代が大陸より日本の方が早いことは政治的に許されない。そもそも日本の遺跡に物的証拠が発見されていないから繰り上げられた弥生時代初期に鉄器が入ってきたと言うのは無理筋だ。さらに青銅器時代でもないから新石器時代のまま弥生時代に突入したことになる。青銅器を作るには銅と錫と鉛が必要になる。日本に於いて銅が発見されるのは7世紀頃であり、錫は6世紀頃とされており、鉛も7世紀頃と考えられるので、当時の日本列島内で青銅を作るのは不可能。原料を輸入して利用するしかない。しかもシナにおいて青銅器に必要な銅や鉛は遍在していたが、錫は、ほぼ全量を雲南に依存していたという。そのためシナの青銅器文化は青銅器を道具としてより祭器として利用したのだろう。ヨーロッパの様にブリテン島のコーンウォールから海路で運べるならともかく、雲南は内陸にある水運はメコン川に流れる河川が使えるが、それでは東南アジアに出てしまうために人力で運んでいた可能性が高い。つまり大陸では青銅器を入手するのは東に行くほど難しくなる。そのため強力な王権を持っている国が交易で手に入れるしか入手する方法はない。そこに権威が発生する。鉄器時代に入っても錫の雲南依存は以後も続いており、三国時代に入ると通貨がまともに作られなくなり物物交換の状態まで経済が逆戻りしていたが、蜀は雲南を支配していたため新たな通貨を発行することが出来たが、魏はボロボロな通貨と物々交換の経済を続けるしかなかった。いちおう錫鉱床は湖南や広東などにもあるらしく、この錫を使って呉は貨幣を発行していたのかも知れない、しかし、これらの鉱床は雲南に比べると規模が小さかったらしい。鉛は同位体から産地が絞り込めるが既存の研究から弥生時代の青銅器と朝鮮の青銅器は初期をのぞき鉛の産地が異なると言う結果が出ている。そうなると日本で鋳造された青銅器は燕から原料を輸入していた可能性が考えられる。半島における交易の対価としてうけとった燕の明刀銭を原料にしていた可能性もある。

 また、縄文人晩期や弥生時代早期の定義が混乱する。弥生時代を紀元前8, 9世紀とするか紀元前3世紀とするかでどの時代を指しているのか分からなくなるのだ。これは既存の論文や書籍を読むときに混乱を引き起こす。今ですら粟のこと米と記述している文献や東夷(殷周時代の東夷は淮水あたりに住んでいた民族を指し、満州あたりに住んでいたのは北狄。満州が東夷になるのは、従来の東夷が中原に飲み込まれて消滅してから500年以上後)を勝手に読み違えて間違えているというのに。

 また、紀元前3世紀だと春秋時代の呉・越が滅んだ時、水田稲作をもって日本にやってきたと言うストーリーが成立するのだが、紀元前10世紀だと成立しない。弥生時代が殷周革命時まで遡ってしまった関係で、その土地に住んでいたのは九夷で、呉も越も滅んでいるどころか存在しないから成立しないのだ(筆者のかんがえたさいきょうのれきしを返せ)

 また弥生時代の期間が二倍に伸びたことにより様々な要件が緩和される。日本列島に移住した弥生人の数は更に少数で良くなったのだ。

 朝鮮半島に粟黍をもたらしたのは満州南部遼寧省の夏家店下層文化の可能性が高い。筆者は粟黍が朝鮮半島からもたらされた事は否定しない。なぜなら山東半島で既に育成不可能だった稲と違い、これらは北朝鮮でも育成可能だからである。そもそも朝鮮半島は粟文化圏である。しかし稲はない。

 この夏家店下層文化は黄河文明(の中の竜山文化)の影響を受けており、中核は殷人ではないかと考えられる。粟黍栽培をもたらした夏家店下層文化人は寒冷化に伴い15世紀頃に朝鮮半島南部まで移住していたようで、実際、朝鮮半島南部の遺跡から当時の中国北部人の遺伝子が発見されている。同時期の西遼河人や縄文人の遺伝子も発見されている。しかし、科学的に証明されている縄文人が朝鮮半島南部に住んでいることや海洋交易を行っていた事実を認めることは政治的には駄目らしく、縄文人と祖先を同じくする集団などと書かないといけないらしい。

 これら原弥生人が紀元前10世紀頃に日本に移住したのは寒冷化が関係して居ると考えられる。なお弥生人は、核ゲノム的には中国北部人と西遼河人と縄文人が混血していないと説明できないらしい。縄文時代前期まで朝鮮半島南部に人が住んでいた痕跡がないからしかたない。この矛盾のため、日本人の二重構造説は破綻したとか。

 しかし紀元前11世紀は殷(商)が滅び、商王族の箕子が朝鮮に封じられた時代なので新たな筆者のさいきょうのれきしが作れる。

《殷は青銅に関して高度な技術を有していた。その一部が温暖化とともに遼寧に北上し夏家店下層文化を築きあげる。夏家店下層文化の住民(殷人)は寒冷化ともに南下して15世紀頃に遼寧から消えている。この集団の、一部が朝鮮半島に住み着いて雑穀農業をもたらしたのだろう。しかし当然のことだが、そこに稲は存在しない。この集団の長が箕子の正体だろう。そして箕子が青銅器を朝鮮にもたらしたのだろう。箕子は半島の諸部族に対し青銅器をあたえて権威を集めていたと考えられる。しかし日本とは通交していなかった。それゆえ日本に朝鮮の青銅器は、ほとんど入ってこなかった。日本に青銅器の祭具が入ってくるのは遼東方面に勢力を拡大した燕からになる。寒冷化した遼寧から農耕民は消え代わりに半遊牧民が住み着くことになる。これは夏家店上層文化と呼ばれる。なお夏家店上層文化は5世紀頃に燕に吸収されている。そして燕が満州南部から朝鮮半島北部を経済圏に組み込み倭人との交易が開始されたと考えられる。倭人は交易により燕の明刀銭を手に入れ青銅器の材料と使ったと考えられる。朝鮮半島ルートで稲作伝来した可能性は著しく低く。恐らく日本に水田稲作をもたらしたのは、殷王朝末期の紂王の領土拡大期か殷周交代期の混乱から逃げたした淮水に住んでいた稲作民なのだろう。その痕跡は下戸遺伝子にある。下戸遺伝子は水田近傍感染症(マラリア、日本住血吸虫病)に耐性があるらしい。この遺伝子は江南に集中しており華北では少ない。しかしアルコールによる耐性の低さは生存率を下げる。それ以上の優位性が無いと行けない。そのため水田稲作が継続的に行われている地域以外では減少・消滅しただろう》

 穀物栽培の受容は粟黍の方が早く、水田稲作の方が後になる。これは難易度の関係で当たり前の話だ。水田稲作には潅漑が必要になる一方、粟黍は焼畑で行える。そのため弥生時代に入って先に広がったのは粟黍栽培で水田稲作は最大700年以上遅れて広がって居る。実際、朝鮮半島では粟黍が紀元前15世紀なのに対し、稲作は紀元前11世紀までしか遡れない。この2つは全く別のルートで伝わっているのだ。しかし政治的には朝鮮半島から同時に伝来しないといけないらしい。しかし、百済は稲作の導入にチャレンジしたと史書に書き残したぐらいに稲作導入が遅い。最初の稲作から1500年経っても朝鮮半島南部の任那と言われていた地域以外ではではまともに稲作出来なかったのだ。

 それでも稲作信仰と弥生時代を絡める唯物史観ストーリーを諦めない研究者には恐れ入る。


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