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【テュルク系か】北宋及び五代に於けるおかしな相続【ウイグル系か、ソグド人か】

 中国に於ける相続は祭祀の相続なので異姓不養と言って同宗族以外の養子を受け付けない。これは祖霊信仰に基づくもので祖霊を祀る事を子孫に求められているからになる。祭祀においては血の繋がらない養子は赤の他人になる。

 例外は稼業の相続で、これは異姓でも構わない。

 皇帝の継承も同じで、皇帝の第一の仕事は祖霊を祀る事になるため後継者は血の繋がった子であり、子が無いときのみ親族が継承することに成る。別の血統のものが後を継ぐ事は易姓革命という。つまり王朝が変わるのだ。

 しかし、五代十国と宋初期に於ける沙陀軍閥系皇帝の継承はこのルールが無視されている。これは唐の節度使にも見られるのだが節度使はそもそも世襲職ではないから優秀な部下を義子にして影響力を残すやり方は有効だ。しかし皇帝は違う話だ。そうすると五代・宋初期の皇帝は祭祀より軍権を優先していたことになる。しかし、後継者が優秀だったかと言うとそうでもない。単に条件を満たしていれば良かったように見える。

 唐末から宋にかけて存在した沙陀軍閥は、西突厥の沙陀族朱邪氏をルーツにしている。五代のうち朱全忠の後梁以外はすべてこの沙陀軍閥を中核にした国になる。宋の趙匡胤も当然ながら沙陀軍閥の出身になる。突厥(テュルク)と言ってもソグド人などと混血している感じ。また義子相続が多い特徴があり沙陀軍閥は同一文化をもつ集合体であり、血でつながっている集団ではない。

 この沙陀軍閥に限っては皇帝の相続が宗族で行われる事が少なく、義子(血の繋がらない養子)が多い。通常で有れば易姓革命なのだが五代では易姓革命とは限らない。漢族出身と言われる郭威の後継は女婿の柴栄だ。外戚が皇位に立っており易姓革命なので王朝が変わらないといけないが(王莽の新の先例がある)王朝が変わっていない。養子として腐れ儒者どもが強引に処理している。沙陀軍閥は軍事政権であるため実力重視で成人後継人が次の後継者になるルールが存在していたと思われる。次代が成人していない場合、子ではなく弟が継いだり、義子が継いだり、そもそも皇統が変わる事がある。摂政や仲父のような代理人を置くことすら嫌っており実に中国的ではない。後周と北漢は実際には郭威と劉崇の派閥争いにすぎないと思われるが宋を正統化するところから北漢は五代から外されている。

 この軍閥に於いて出自は余り重要ではなく沙陀族か漢族かよく分からない登場人物がゴロゴロしている。趙匡胤の父親趙弘殷はウイグル(回紇)人王鎔に仕えていた。趙匡胤自身も北方系らしいが。

王鎔,其先回鶻阿布思之遺種,曰沒諾干,為鎮州王武俊騎將,武俊錄以為子,遂冒姓王氏

新五代史巻三十九 王鎔伝

 これを踏まえると五代十国宋で起きた中国的におかしな出来事が綺麗に説明できる。趙匡胤の次が趙匡胤の子供ではなく弟の趙光義なのは、沙陀軍閥政権では当たり前なのである。趙匡胤が崩御したとき成人した子供がいなかったため趙光義が後継者になった。そうすると後周の恭帝は即位したかすら怪しい。恭帝は当時7歳であり沙陀軍閥の後継者になる資格がない。初めから後継者は趙匡胤だった。それゆえ恭帝を排除する理由もない、聖人に見えるのは儒教のバイアスと後周と北漢の殺し合いが畜生すぎたのがあるのだろう。契丹皇帝は捕らえた皇族を丁重にもてなすことをごく普通にやっていて契丹に降伏した後晋の少帝石重貴は宋の統一後になくなっている。要するに漢族が畜生なだけだった。しかし儒者的には禅定という儀式を行わないと正統性が主張できない。この辺りの胡族と漢族の二面性は、鮮卑系の隋唐でも見られるのでとりわけおかしくはない。

 宋が唐の内乱の反省を踏まえて儒教を中心据えた文治政権というバイアスをかけて見るからおかしく見えるだけで、この政権が異民族政権で漢族と異なるルールで運営されていたとすれば何の矛盾もおきない。そもそも高宗の時代も内戦の火種たる節度使がまだ健在だった点と契丹(遼)が燕雲十六州を支配し喉元に刃を突きつけていた状態だった点は注視すべきだ。さらに沙陀軍閥系の北漢がまだ滅びていなかった。情勢は幼帝を建てられる状況になっていない。

 宋史に千載不決の議は一切書かれていない。そもそも「千載不決の議」は日本人の創作用語。確かに宋初期の相続は儒者が読むとおかしな相続しているからそのような噂話が出回っているが、中国では「燭影斧聲」と作り、「千載不決」と言う中国語はない。「千載不決の議」と「燭影斧聲」では全然意味が違う(千古之謎と言う単語はあるけど、千古は永遠と同義)、しかもソースになっている續湘山野錄の信憑性は朝日新聞レベルで引用している書物も「疑惑は深まった」って書いているだけ。

 もっとも正史もうさんくさいけど。

太祖啟運立極英武睿文神德聖功至明大孝皇帝諱匡胤,幼名香孩儿,姓趙氏,涿郡人也
太祖宣祖仲子也,母杜氏。後唐天成二年,生於洛陽夾馬營,赤光繞室,異香經宿不散。體有金色,三日不變。既長,容貌雄偉,器度豁如,識者知其非常人

宋史太祖本紀一(趙匡胤)

 赤光繞室ってファンタジーだろ。「俺やっちゃいました」かよ。容貌雄偉はつおいぐらいの意味しかない。

太宗神功聖德文武皇帝諱,初名匡乂,改賜光義,即位之二年改今諱,宣祖第三子也,母曰昭憲皇后杜氏。初,後夢神人捧日以授,已而有娠,遂生帝於浚儀官舍。是夜,赤光上騰如火,閭巷聞有異香,時天福四年十月七日甲辰也。帝幼不群,與他兒戲,皆畏服。及長,隆準龍顏,望之知為大人,儼如也。性嗜學,宣祖總兵淮南,破州縣,財物悉不取,第求古書遺帝,恆飭厲之,帝由是工文業,多藝能

宋史太宗本紀一(趙光義)

 趙光義に出てくる隆準龍顏だが、直訳すると「鼻が高く龍の顔」だが、実は容姿を書いていない。これは皇帝になるべくして生まれたと読む。史記の高祖本紀(漢の劉邦)の「高祖為人,隆準而龍顏,美須髯,左股有七十二黑子」から来ている言い回しだからである。なお三国志に出てくる劉備を形容する手が長いとか耳がでかい「垂手下膝,顧自見其耳」も容姿を意味しない、生まれながらにして貴人という意味しか無い。だから孔子も異形。中華では異形ほど偉いとされているから、因果が逆になり偉いから異形だったと捏造してくるわけだ。逆に言うとそこから評価も分かる。宋史においては趙匡胤より趙光義の方が格上に設定されている。それは趙雲レベルを差す容貌雄偉より、皇帝を形容する隆準龍顏の方が格上だから。ぶっちゃけ宋史は趙匡胤は皇帝の器じゃないけど弟を皇帝にする為に皇帝になったと書いている。趙光義の正統性のためだと考えられるが。

絵に於ける趙匡胤の顔は黒いが、

趙匡胤(太祖)


これは紙の所為かも知れない。同じ時代の絵でも日本に比べて紙の質の悪く色がくすんで真っ黒になることがある。しかしアル中で肝臓やられていそうな顔だな。50まで生きていた方が不思議なぐらい。

 弟の方は真っ黒じゃないけど。

趙光義(太宗)

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