因幡民談記

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(11) 第4章 4.1~4.2 文献調査-江戸時代前期

# 第4章 史料文献調査
――防衛策としての街路屈曲説が現れるのは江戸時代中期から


## 4.1. 文献調査の必要性について

仮に、
「大名は防衛のため城下を迷路化させた」
というのが真実で、全国的にどの大名も実践した定番の手法であるならば、その証拠は当然に当時の文献に見いだせなければなりません。

「いや、それは軍事上の秘伝だから、おいそれと文書に記されるわけはない」
と、あなたは反論するでしょうか?

しかし、都市計画より重要度の高い秘伝だったであろう、虎口の作り方、陣城の布陣などが、江戸時代に入って50年もしないうちに、兵法家によって講義されていたのです。

兵法の秘伝奥義のたぐいですら、この有様ならば、大勢の作業者の関わる都市設計の根拠が隠蔽(いんぺい)され、文献に現れないと考えるのは不合理です。

つまりは、築城ラッシュが沈静化する寛永の終わる頃までに
「大名が防衛のため城下を迷路化させた」
と断定しうる文献史料が見つからなければなりません。

各都市の基本設計が終わったと見なせる1650年以降に
「防衛のために城下の道を屈曲させよ」
というノウハウが現れたとしても、それは誰かの想像した空論の可能性を考えてしかるべきなのです。

そして、個人の話になりますが、私はこの調査を始めるまで
「大名は防衛のため城下を迷路化させた」
という説の出典や根拠となった史料を知りませんでした。

多く、現在のビギナー向けお城入門書は、この街路複雑化による防衛説を解説しているわりに出典を示していません。

いま、私はその説の出どころを把握(はあく)しています。が、まずは順を追って戦国末期から関連する史料に当たっていきましょう。

どうしてこうなった? の因果を解き明かすには順序を追わねばなりませんから。

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## 4.2. 戦国時代~江戸時代前期(~1689年)戦争を知る世代がこだわった「見通しのよさ」

### 4.2.1. 『築城記』(伝1565年書写)

出典: 築城記-- 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879792/503
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

越前朝倉家に伝わっていたものを1565年に室町幕府の家臣・河村誓真が書写したという兵法書。なので成立はおそらく16世紀前半。築城術の(当時としての)秘伝・奥義の書として有名です。

まだ安土城下すら建設されていない時代のためか、城下の街区や街路がどうあるべきかの言及は見当たりません。

しかし、敵の見透(みすかし/みとおし)を妨害せよ、という指南はすでに現れていました。

> 一 木戸は内へ入りてかまへ候也。土居にても石ぐらにても塀にても。透のなきように立る也。
>
> 一 城の戸口をば。内の見えぬように。右かまへにひつゝめて。外より内の見えざるやうに拵也。又城のとより内の少広かなるやうに心えべき也。

ただし、これらは言うまでもなく、城(城地)についての指南です。城下をそのようにすべきだと説いているわけではありません。

また、「外より内の見えざるやうに」は、必ず守るべきノウハウじゃなかったのかもしれません。なぜなら

> 一 城の内も見えず、また土居も高く家も見えざるを黒構と云也。
>
> 一 城の口より家もみえ。又土居もさくを振。内の見ゆるをば。透がまえと云也。

と、あるからです。説明不足が激しく、意味がよくわかりません(正直な筆者)。

筆者は

: 「(敵が)主郭の内側を見ることができず、また土居が高いので(城の中から、城の外にある自分たちの)屋敷が見えないのを『黒構』という」

: 「虎口から(城郭の外にある自分たちの)屋敷が見える。また土居も(高くせず、かわりに)柵を設置した。(だから自分たちも土居の外の様子がわかるかわりに、敵も外から)主郭の内側を見ることができるのを『透がまえ』という」

と解釈しました。

ともかく、外から中が見えない城と見える城があったわけです。

おもしろいのは、『透がまえ』が悪いとは述べてないところです。もしかすると『黒構』も『透がまえ』も、16世紀前半には適材適所があったのかもしれません。

> 一 追手の口は土橋可然也。自然板ばしなどは火を付事ある也。切て出てよき方を。土橋にする也。

: 「追手(出撃兵)が出撃する出入り口は土橋であるべきだ、板の橋などは燃やされることがある。切って出る(打って出る)のに適した方を土橋にしなさい」

と言っています。

防衛一辺倒ではなく出撃や追撃も考えなくてはいけないと書いています。この主張は記憶にとどめておきましょう。

> 一 城の外に木を植えまじき也。土ゐの内の方に木を植え可然也。

くわしい理由を述べていませんが、後世の江戸軍学を参考にするに、城の外に敵が利用できるものがあるべきではない、という考え方のようです。

> 一 平城は城のうしろに勢たまり有様に可拵也

平城の場合、城のうしろに軍勢を溜める(待機させる)場所があるように設計せよ

の意。です。

山城ではない平地の城は、背後の防衛が弱点だったようです。

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### 4.2.2. 上杉家文書:馬場信房伝授軍法并城取法覚 他(1582年頃)

出典: 大日本古文書. 家わけ十二ノ二 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908806/188
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

上杉家に伝わる文書です。成立年は不明ですが、武田四天王の一人、馬場信房(1575年没)からの伝授というからには、馬場信房没後に上杉家にとらばーゆした元部下が伝えたのではないでしょうか。ひとまず武田勝頼が自刃した1582年頃を文書の成立年と考えます。

この馬場信房伝授と記されたものも含めて、大日本古文書.家わけ十二ノ二の941~944に、筆者が目当てとした16世紀後半の城取や攻城・守城を伝える文書がありました。

まだまだ城下の設計については記述なしですが、『築城記』より内容は充実しています。

> 馬場信房伝授軍法并城取法覚
>   城取の事
> 一 城とり之第一ハ馬出之取様肝要ニ候、たとへ三ノ丸二ノ丸へおしこみ候共、其くるわ(廓)の内ニても持かへすやうニ致ス物也

: 「城取の第一は、馬出の取り様こそ肝要だと理解することである。たとえ(敵が)三の丸や二の丸へ押し込んで来ても、(馬出を使って)その曲輪の内ででも(敵を撃退し形勢を)持ち返せるようにいたすべきものだ(だから馬出の取り様が重要なのだ)」

と訳してみましたが、

: 「たとえ(敵に)三の丸や二の丸まで押し込まれても、(馬出があれば)その曲輪の内ででも(敵を撃退し形勢が)持ち返せるようにいたるものである(だから馬出は曲輪に必要なのだ)」

かもしれません。

しかし、続く944の文書が出馬出と内馬出にこだわっていたので、前者の訳としました。馬出が必要なのは言うまでもないことで、重要なのは作り方と使い方だと説いているのではないかという推定です。

内馬出は、形状的にはのちの甲州流軍学のいうところの真の馬出しになります。

> 一 橋之義ハ、一方ニハ土橋可致候、引橋ハ本丸ニ可致候、是も面ニ不可致候、うら方ノ方ニ

「橋について。(少なくとも)一方向には土橋を用意いたすべきである。引橋は本丸に用いるべきである。それも、本丸の正面に架けるべきではなく、裏手の方がよい」

築城記に続いて、土橋の必要性を述べています。ただし、本丸は引橋がよいとのこと。本丸の引橋を引き込むほどに攻め込まれたなら、もう形勢逆転→出撃の連携は考えるような場合ではないということでしょう。

> 城取法覚
>   覚
> 一 出馬出口明様
> (いつれ之馬出も、面が城之内見籠不申様ニ入ちかい、右前に口明申候、但、横矢之ため

: 「出馬出口の開け方。どのような馬出であれ、城の中が見えないように食い違いを作り、右前に出入り口が開くようにする。ただし横矢をかけるため」

こっちの文書は馬場信房伝授と書いてないためか、最後がやや自信なさげです(笑)

「但し」の意味が
「ただし、(出入口を曲げる理由は)横矢をかけるため(でもある)」
なのか
「ただし、(出入口を曲げる理由は、敵の見透を防ぐためではなく)横矢をかけるため(かもしれない。もしそうだったら、ごめんね!)」
なのか、どちらにも解釈できるので困ります。and なのか or なのか。

もし後者なら、戦国後期の段階で、虎口を屈曲させる理由を当事者たちがちゃんと理解していなかったことになってしまいます。おそらく前者でしょう。

「但」以降はともかく、見透を嫌う指南であります。

あと、引用は略しましたが、二の丸・三の丸の虎口の数や開け方についても
「ケースバイケースに決まってるだろ! ケースバイケース! 城の! 大小で! 変わる! あたりまえ!」
みたいな感じで、馬場信房伝授と書かれてないやつは、全体的にざっくり指南でした。

> 一 四方取廻不成所
> (せつしよをかゝへ、本丸を取申時ハ、二三ノ丸一方計ニもくるしからす候

: 「四方を(曲輪で)取りまわすことができない場所。(そういう場所では)せつしょ(節所または切所。幅広い意味をとる語ですが、ここでは土塁・堀・切岸・崖面などの防衛設備を指していると思われます)で本丸を防衛しているのなら、二の丸や三の丸が一方向に続く連廓式縄張であっても悪くはない」

江戸時代に成立する甲州流軍学の系譜では、小さく丸い縄張こそ大正義、みたいなノリで説かれています。が、この時代の甲州流において小さく丸くは絶対じゃなかったようです。

実戦から離れた江戸時代より現実に即していたということでしょう。

> 一 土居ノ植木
> (内の方ニハ何程御座候ともくるしからさる由、外方ニハ無之様ニと申候

『築城記』と同様の教え。

というわけで、まだまだまだまだ、街路の屈曲について、そんな概念は影も形もあらわれません。

それどころか、虎口の屈曲についても、見透を防ぐためだよ、ただし、横矢のためかもしれないけど……という迷いがあるとも読めました。

もし、戦国の当事者でさえ、なんでそうなってるのか、答えに自信がなくなっていたのだとしたら、後世の平和な時代の人間がどんな誤解をしても、何の不思議もありません。

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### 4.2.3. 甲州流:『甲陽軍艦』(1586年),『甲陽軍鑑末書 下』(1584年)

出典: 甲斐志料集成. 9 甲陽軍鑑 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240963/215
※以下、この項で引用する『甲陽軍鑑』の引用元は上記

出典: 甲斐叢書. 第5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209127/103
※以下、この項で引用する『甲陽軍鑑末書 下』の引用元は上記

はじめは武田勝頼を諫(いさ)めるため、信玄公はこう言ったという口伝・雑談の記録から始まったと伝わります。

『ツァラトゥストラかく語りき』みたいなもんです(違う)。

武田四天王の一角、高坂昌信により口述筆記されました。

彼の死後は甥の春日惣次郎が執筆を引きつぎ、彼は
「足りない所を高坂昌信が存命であるかのように模倣して補った」
と記しています。

完成した原著は武田家の足軽大将・小幡光盛に預けられました。遺臣の間でひっそり回覧されたのでしょう。この原著が1621年までに光盛の甥である小幡景憲の入手する所となります。

賢明なる小幡景憲はこれを元手に兵法指南というコーチ業を始め、江戸軍学の興隆へとつながっていったのです。

しかし、江戸時代から『甲陽軍鑑』の史実的間違いの多さは指摘されており、小幡景憲が信玄の名を借りて自分の主張を入れた綴輯(てっしゅう)(※編纂(へんさん)と同じ意味)だと断じた田中義成氏の小論文『甲陽軍鑑考』(史学会雑誌第十四号/1891年)が決定打となり、長らく偽書同然に扱われてきました。

この偽書疑惑は現在では否定されています。

『甲陽軍鑑』には「すりきれて読めず」と記された割註が190以上存在します。兵法研究家の有馬成甫氏は
「景憲の著作であるとすれば、絶対にこのような割注を入れたりしない」
と指摘しています(『日本兵法全集1 甲州流兵法』1967年)。

むろん有馬氏の反論の論拠はこれだけではありませんが、この一文は誰にでもわかる明快で力強い論理であり、筆者はこの一点だけで田中氏の『甲陽軍鑑考』に疑義を抱くに十分だと思いました。

さらに国語学者の酒井憲二氏の研究(『甲陽軍鑑大成 研究篇』1995年)による、小幡景憲が真似するには難しい16世紀の信濃の言い回しが多用されているという指摘、偽書説の最大の根拠であった長閑斎宛て勝頼書状が、長坂釣閑斎宛てとは考えられないことを示した黒田日出夫氏の研究と、今福長閑斎なる人物の存在を明らかにした平山優氏の研究により、小幡景憲による綴輯(てっしゅう)説は否定できるようになりました。

田中論文以降の『甲陽軍鑑』論をつぶさに再検証した黒田日出夫氏の『甲陽軍鑑の史料論』(2015)によって、偽書説は完全に否定されたと言えるでしょう。

小幡景憲の写本は原典に忠実でありました。史実の誤認は個人の記憶や伝聞を収集したものであるので避けえず、『甲陽軍鑑』はおおむね16世紀後半の、高坂昌信・春日惣次郎の著作で間違いないのです。

参考:甲陽軍鑑 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/甲陽軍鑑#酒井憲二の研究による見直しと再評価

本論もこの見解に立ち、ひとまず『甲陽軍鑑』の成立を春日惣次郎の死没時としました。

さて、そんな『甲陽軍艦』ですが、遠見遮断や城下がどうあるべきかについての指南は少ないです。

城取については、くわしい説明のない簡素な言葉が並ぶばかり。

そのうえ、『甲陽軍鑑の史料論』によれば、この軍法が記された品第四十二は、後世の改竄(かいざん)が混入した可能性が否定できない部分だそうです。えー。そんなー。

……まあ、気にせず、いくつか抜き出してみましょう(※註 以下の4項目は筆者による抜粋)。

> 品第四十二 城取の事
>  一 ちいさく、まろく 
>  一 見ゆる見へざる事 
>  △竹木見やすきこと
>  一 家をひきくす  

城の縄張は、小さく・丸くするべきだと言っています。

これは興味深い指南です。平山城が主流の時代になっても、丘陵の形状により細長い連郭式を選んだ城はそれなりにあったのですから。

ともあれ、主郭の形やサイズは近世以後、城下の都市設計に影響したことでしょう。

次に「見ゆる見へざる」「△竹木見やすきこと」は、見出しだけなので何を言わんとしているのか、断定はできませんが、見透についての指南であろうと推測できます。ひとまず、それがわかれば十分とします。

「家をひきくす」は、家を低くしなさいということですね。自分たちの侍屋敷のことなのか、城下の一般市民の家屋のことなのか、判然としません。後者なら、防衛のために城下の建物について行政介入が行われていた証拠になりますが、前者だと城地の話になってきます。城地なら、建造物を防衛のために特化するのは、当然のことです。

『甲陽軍鑑』本編から見つかった城下設計に関連しそうな項目は、この程度です。す、少ない……。そもそも五十九品もの章があって、築城に関することが書かれてるのが、第四十二品だけなのですから。

この問題は高坂昌信も把握していたのでしょうか。高坂昌信と春日惣次郎は『甲陽軍鑑』の不足を補うため『甲陽軍鑑 末書』という本も書きました。

後世の甲州流軍学者によれば『末書』とは

> 「軍鑑を書き上げたあと、甲州が四境を敵に囲まれながら勝ち続けられた心得を記して末書上下とした。上巻は一冊で軍艦数冊分の出来事をまとめたに匹敵する別集。下巻は五つの大綱を少しづつ分けて、一冊につき九品ずつの上中下三冊とした」

だそうです(有沢永貞『甲陽軍鑑末書通解』)。

小幡景憲はどうも、この『末書』を『軍鑑』よりも重要な秘伝扱いした節があります。小幡景憲が大名に「秘伝」を納めた際に添えた書状に次のように書かれています。

> 甲陽軍鑑の秘伝御執心のこと感嘆余りある者なり。因りて玆に予懐を開き、此の兵法の奥儀たる五の曲尺まで悉く伝附し了んぬ。是れ全く武将城を構うるの大要にして初学の先務なり。

: 「(あなたが)甲陽軍鑑の秘伝にご執心のことに、感心している者です。ですから、ここに私の懐を開き、この兵法の奥義である五の曲尺までことごとく伝付いたします。これはまったく武将が城を構えるための大要にして、最初に学ぶべきことです」

とあるのですから、すでに『甲陽軍鑑』本編は納めた上でなお、秘伝を求める大名に対し、感心したから肌身離さず大事にしまっているものを、懐(ふところ)から出してあげますよ、ともったいぶっているわけですね。いやらしい。

その内容とは兵法の奥義たる五の曲尺というのですから、懐から出した秘伝とは『甲陽軍鑑末書 下』の三冊だったと考えられます。

書状の最後には、「竜韜・虎略・豹業」の三品もオマケしますと、さらに恩着せがましいことを記してます。いやらしい。お前はTVショッピングのセールスマンか。

そして、その奥義は武将が城を構える際の大要にして、最初に学ぶべきものというのですから、下巻の下こそ秘伝中の秘伝、奥義中の奥義と小幡景憲は考えていたのでしょう(竜虎豹三冊における築城に関する記述は少ないため、城を構うる大要の奥義とは、竜虎豹の三冊ではなく『末書 下巻 下』だと考えます)。

……と、ここまで期待をもたしておいてなんですが、『甲陽軍鑑末書 下』にも、実は遠見遮断や城下計画についての指南は、あまりありません。

虎口の種類とか、城地の地物については充実しているんですが。

それに説明不足は軍鑑本編の「品第四十二 城取の事」と同レベルです。

> 九品之一 第三
>  一 うしろ沼、或は池遠く有取様 

: 「(城の)背後が沼あるいは池で(対岸から)遠いときは、(城の)取様があるよ」

と、言葉を補ってみても、その取様の内容を書けっつーの役立たず! とグチをこぼさずにいられません。

甲州流を学んだ北条氏長の北条流によれば、池や海などで馬が近づけない場合、本丸内部の様子が外から見える取様(設計)でもダメというわけじゃない……という指南だったようです。

つまり、敵の遠見について述べたものです。

くわしいことは、後述する北条流にお鉢を回しましょう。ここでは
「敵の遠見遮断について軽く言及されていた」
という認識にとどめ、次へ進みます。

> 九品之一 〇かさし三ツの事
>  一曲輪 二屋敷 三土居塀の事
>  右の外材木、石、捨土、堀のきはに一切置へからす。城のいとひものなり。

「かさし」は「かざし」であり、隠すものを意味します。敵の見透を避けるために「かざしの曲輪」「かざしの屋敷」「かざしの土居・塀」があったと解釈できます。後半は『築城記』にあった、土居の外に木を植えるなの発展形ですね。

屋敷を使って敵の見透を妨害するのは、のちの街路屈曲の概念のハシリと言えます。

が、まさか武士でない階層の民家を「屋敷」とは書かないでしょうから、これは城地における上級家臣の屋敷を使っての見透の遮断です。城下の話ではありません。

> 九品之九 〇日本国をのこらす治取て、国々能仕置御備十七ヶ条の事 
> 第六右天下の儀
>  帝王様ゑのおそれに候あひた、都の中に城を、すべからず、上洛の時の城は、都の絵図を見るに、あきの山、しかるへき地也。又用心あしき所に居て、逆臣のやからに利をさすれは、信玄かその跡の名を取たる誉、みな偽になり、(後略)

九品之九は「日本国を残らず治め取ったら十七ヶ条」という、宝くじ当たったらどうする? みたいな妄想トークが延々続きます。

: 「天皇陛下におそれおおいので、京都洛中に城を築いてはならない。上洛の際の城は、地図を見るに、あきの山という場所が適切と思われ。また、防衛に適さない不用心な場所に居て、逆臣に下克上でもされたら、信玄公もしくは信玄公の跡を継いだ者の名誉が台無しになる」

だそうです。

「京都の洛中に城を築いてはならない、なぜなら天皇陛下に失礼だからだ」
と建前を述べたあとで、
「洛中のような場所は不用心だ」
と、わりとハッキリ京都をディスってます。

応仁の乱以降の室町幕府のいたぶられっぷりを見たら、そういう風に見えてしまうのも無理からぬことだったのでしょう。

> 九品之九 第十一
>  右信玄公、常の御座城は、相州星谷にめい地有、此所に、馬場美濃守、縄張を以て、御普請大になされ新鎌倉と名付、可有御座と御定有、甲府はご隠居所也付リ新鎌倉へ、日本国の大身・小身の屋布をわり、しかも、京・境の町人あつめ就中、天台宗の寺五ヶ所(後略)

妄想トークは続きます。

: 「(右に書いたような、天下を治めるようになった)信玄公が常駐する城について。相州(今の神奈川県)の星谷に名地があったので、そこに馬場美濃守に縄張させ、土木工事を行い、新鎌倉と名付け、本拠地とする。甲府は隠居地とする。付記:新鎌倉には日本中の大身・小身の大名を集め、屋敷割をし、さらに京都と境の商人も集めて住まわせ、天台宗の寺も五ヶ所……」

ここに、やっと少しだけ都市計画っぽいことが見られます。まず、日本中の大名を集めて、屋敷割をして集住させると。

城は小さくまろくと言っている人達です。日本中の大名の屋敷を、すべて丸の内(主郭内)におさめるつもりではありますまい。

江戸における大名屋敷のように、外濠よりは外、惣構よりは内側に大名用の屋敷地をあてがうつもりだったのではないでしょうか。つまり、上級家臣の屋敷とはいえ、これは城下の話と考えられます。

そして有力商人を集め居住させる。寺もそれなりに用意する。おおむね、我々の知る近世城下町の姿と重なります。地図調査で見た広島城下の姿が思い出されます。

しかしながら、街路の形状についての言及はありませんでした。

街道に関して、信玄は棒の道と呼ばれるまっすぐな軍用道路を整備させました。しかし、城下の道路をどうすべきかは、高坂昌信の記憶するものではなかったようです。

むしろ、鎌倉は鎌倉時代の首都でありながら、京都のような碁盤の目街路が用いられなかった都市です。

新鎌倉と名付けるほど、信玄は鎌倉LOVE! な人だったのだでしょうか。

だとしたら、信玄は京都的な方格設計を目指していなかったのかもしれません(とはいえ、躑躅(つつじ)ヶ崎城館の南には、三本の平行する南北道があって、まずまずの方格設計があったように思えますけど……)。

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### 4.2.4. 『只野利右衛門勤功井先祖由来書上写』(1590~1615年頃)

 仙台の町割に関する文書です。

>  二代目只野小右衛門天正十八年貞山様岩出山江御引移之節御供仕、於岩出山ニ茂大町肝入役奉勤仕罷在、御当地開発之節慶長年中御供仕罷越、当御城下町割被仰出、御城之御見通を以大町通始而御町割相済、……

出典: 『仙台市史(1975年版)第9巻 資料編2 六三三 只野利右衛門勤功井先祖由來書上寫』

天正十八年(1590年)から慶長年間 (1596年~1615年)にかけての仙台の町割を仰せつかった御用商人の二代目只野小右衛門の業績を記しています。

書写された年代は不明だそうですが、内容的に疑わしい点はなく、事実を伝えているものと考えます。

「御城之御見通を……」に注目しましょう。意味は「お城のお見通しをもって、大町通りから町割を始め、しかして町割が相済んだ(完了した)のである」といったところでしょうか。

つまり、伊達政宗が青葉城の城下を都市設計させたときは、大通りの屈曲など考えず、むしろ大通りからお城が見えることを重視したことになります。

これは方格設計がハッキリと表れていた正保城絵図にも矛盾しません。

それどころか、城下の町割を商人にまかせているくらいです。仙台藩は(城地ではない)城下について、防衛のために何かするエリアだと考えてなかったのではないか? という疑念すら湧いてきます。

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### 4.2.5. 『梅津政景日記』(1633年)

秋田藩の家老、梅津政景の日記には、元和6年(1620年)の久保田城下の町割の様子が記されています。

文献の成立年は、日記が最後に書かれた梅津政景の没年にしました。

>  田町・根小屋町、御城より御覧候へハ、まかり候由、御意被候、御町わり御直し候ハンと、見とをしを立、御出御覧被成候

出典: 『大日本古記録 第4(梅津政景日記 第4)』 元和六年四月廿一日

田町というのがどのへんかわからなかったのですが、根小屋町は現在の秋田市中通(なかどおり)のあたり。本丸から見て南のエリアですね。

: 元和六年四月二十三日のこと。佐竹義宣公が田町と根小屋町をお城から見て
: 「道が曲がってんじゃねーかっ!」
: と御意をぶちまけあそばれた。

: 「町割をやり直せ! 見通しが立つように!」
: と仰せられ、義宣公は自ら現場に出かけられたほどだった。

……と。そして後日……

>  当下町御城よりひつミ候由、御意被候、長野ノドより堀川土手手際まで、五町共に立直り由候、今日見とをし立

出典: 『大日本古記録 第4(梅津政景日記 第4)』 元和六年四月廿三日

「ひつみ(歪)があるじゃねーかっ!」
と御意を喰らった件。

長野ノド(ノドの意味がよくわかりませんが、ともかく旧町名の長野町のどこか)から、堀川の土手際までの範囲の町割やり直しが完了し、今日、見通しが立った……と記されています。

御意を怒鳴られてから町割が直るまで、たった二日。まだ建物はなくて縄を打っただけの、計画段階での話でしょう。

商人に城下の町割を丸投げした仙台とちがって、久保田では武士たちが自分たちで城下の町割をやっています。十城十色、それぞれ事情があったわけです。

興味深いのは、お城から見たら道が曲がってて、それは佐竹義宣公の意にそぐわないものだったという点です。なぜそんなことになったのか。

* (A)見通しを立てるという方針が藩主と家臣のあいだで合意形成されてなかった
* (B)見通しを立てるという方針で合意はあったが、実現レベルについて意識の差があった
* (C)未熟な家臣による測量ミス

 これはもう、今となっては知りようがありませんけど、義宣公が自ら実況見分に出かけてる点を見ると、(C)の可能性もありえると思います。

加藤清正、田中吉政など、この時代の大名に優秀な土木技術者(技術官僚)が多いのは知られた事実です。

佐竹義宣が父祖たちから築城に関する英才教育を受けており、未熟な部下に技術指導することがあったとしても不思議はありません。

 大事な点をもう一度再確認しましょう。ここ久保田でも、大手方向は遠見遮断と逆の、見通しが立つ街路で設計されていました。

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### 4.2.6. 『武家諸法度』(1615年~)

ここで、あの堂々たる有名法令『武家諸法度』を眺めておきたいと思います。というのも、後述しますが大正期の城郭解説本に
「一国一城令により大名は自由に城を築けなくなった。しかし、防衛のための備えはしたい。そこで、城下の街路を屈曲させるようになったのである」
という主張が現れるからです。

これが本当なら、幕府だって対策を講じたのではないでしょうか?

武家諸法度は、たびたびアップグレードされているのですから、それを盛り込むチャンスはあったはずです。

というわけで、まず、最初の元和令を見てみます。

出典: 武家諸法度 - Wikipedia
 https://ja.wikipedia.org/wiki/武家諸法度

■ 元和令(1615年)

> 諸国の居城、修補をなすと雖、必ず言上すべし。況んや新儀の構営堅く停止せしむる事

「(一国一城令ついては別に、すでに各々の大名に伝えてある前提で)居城のちょっとした修理であっても必ず報告して許可を得てから修理しなさいよ。言うまでもなく新しい城を作るなんてもってのほかですよ」

という内容。城好きの皆さんがご存知のやつです。

その20年後に、次のような追加項目が現れます。

■ 寛永令(1635年)

> 道路・駅馬・舟梁等断絶無く、往還の停滞を致さしむべからざる事。

……なるほど。これは、この20年のあいだに、法令の穴を突いて城下を複雑化させる大名がいたように読めます。

しかし、駅馬・舟梁・往還という単語を見るに、これは都市間の街道の整備を命じたものです。城下の複雑化を禁止する法令ではないと考えなくてはなりません。

こうした街道整備命令は信長も秀吉も出していましたから。

つまり、少なくとも幕府としては、防衛策としての街路屈曲を全国法では禁止してはいなかったと思われます。

なぜでしょうか。迷路化に気づかなかったのでしょうか。

全国的にどの大名もそれをやるのが当たり前だったするならば、いくら各大名がこっそりそれをやったとしても、幕府が気づかなかったと考えるのは無理があります。

それとも、迷路化などたいした効果がないと思って黙認したのでしょうか。

あるいは――そもそも、大名たちは防衛のために居住区の迷路化なんてしなかったから。市街地が複雑化するのは別の理由によるものだったから――です。

仮に、寛永令が街路屈曲化を禁止する法案だったとしましょう。公式に禁止されたのなら、それは守られて当然ということになります。守らないのは、公然と幕府に反旗をひるがえすも同然。ですから、寛永令ののちは街路が整然となっていなければならないことになります。

――そう、なっていたでしょうか?

迷路化というほど複雑でもなければ、京都そっくりとは言い難い程度に道が曲がっているのが、地図調査で見た平均的な城下の姿ではなかったでしょうか?

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### 4.2.7. 北条流:『師鑑抄 (兵法師鑑 / 兵法雌鑑)』(1635年頃)

※この項で引用したテキストの引用元(底本)は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第3 (北条流兵法)』
です。

甲州流兵法のコーチ業を始めたばかりの小幡景憲に入門した13歳の少年がいました。その名は北条氏長。

彼が1635年に小幡景憲の講義をまとめた聞書が『兵法私鑑』です。

私の鑑……私的複製という意味ですね。これを見せられた小幡景憲が出来栄えに感心して「師の鑑(かがみ)」であると褒めちぎり、『兵法師鑑』と改めさせたと伝わります。ダジャレかーい!

のちに氏長が軍学者として肩で風を切っていた頃、将軍・家光から軍学書を求められ、氏長が自身の研究成果を加えてリライトしたのが『兵法雄鑑』です。

この際に『兵法師鑑』は『兵法雌鑑』と改称されたと伝わります。ダジャレかーい!(なので、兵法私鑑=兵法師鑑=兵法雌鑑≒師鑑抄、です)。

今述べたように、北条流兵法は基本的に甲州流兵法のリライトでした。

ですから内容も似通っています。「後北条氏の兵法」というよりは「北条氏長が独自研究で発展させた甲州流兵法」というのが実態に近いでしょう。

とはいえ、氏長自身は後北条氏の末裔ですし、北条流兵法の確立に多大な協力のあった福島国隆も、氏長の近縁でした。

北条兵法には後北条氏的な合理主義にもとづく実戦向き兵法というテイストが感じられます。ガチ勢だ、このひと! てな感じの兵法です。

なお、この時代に氏長はオランダ砲手ユリアンにインタビューして星型要塞を図面に書き記すなどもしています。江戸時代初期にこれはすごい。まだ鎖国が徹底されてなくてよかった! 学者とはそういう生き物とはいえ、ガチ勢だ、このひと!

本項では引用元として『師鑑抄』を使用しました。

> 師鑑抄 中 地理の巻 第一
> 繁昌の地形を撰事
>  夫れ城を可取立事、長久繁昌の地きょうを専可撰。(中略)大将の居城には、けんご(堅固)はんしやう(繁昌)の地をえらぶべきなり。 しかるに、はんしやうの地形と云は、北たかくして南低(く)。北南へ長。東西南に流水あり(但海も同意なり)。是を繁昌の地形と云。

大将の城の選地は「もっぱら長久繁昌の地きょうを選ぶべき」と述べています。「地きょう」とは、「地形(ちぎょう)」でしょう。地形(ちけい)とか地勢の意味です。

長久で、かつ繁昌する地形、なかなか注文のうるさい師匠さんです。南北に長く北に山、東南西に流水――いわゆる京都的な地形を理想としたのでしょうが、名指しで京都を指定するのは避けたようです。

まだ、街路がどうあるべきかについての指南はありません。

> 師鑑抄 中 地理の巻 第二
> 城縄ばり、心持のこと
>  城を可取ようは小さく丸くとるべし。その故は、大成城は、小勢にては、こもりがたく、ながく方なるは、城内せばく外広く、丸きは外せばく内広く、横矢を用にとくをゝし、いずれも口伝。

甲州流を踏襲して城の縄張は小さく丸くが良いと述べています。細長いと城内が狭く外が広くなるからだと。丸いと外がせまくなるという教えに筆者は
「ごめん、それは納得できない」
と思いましたが、丸ければ内部が広くなり横矢を用いるのに利があるという点には納得です。

> 小口、五つの習のこと
>  三、丸馬出、三間のかき
>   草の丸馬出しの時、虎口より内見ゆる故に、三間のかきと云うことあり。口伝。
>  五、大陰 口伝。図云
>   如此なるを嫌なり。内より備をいたし、或は引とるに、付入のおそれあり。又は門をひらくことならず。此故に、馬出を、虎口の向にとる。又馬出なしの虎口は、よこ虎口にとる。または内ますがたなどをもちゆ。このところ、馬出は城取の秘伝なり。必(ず)これをとるべし。条々口伝。

五つの習いのうち、一・二・四は省略しました。まずは三から。「草の丸馬出」と「三間のかき」の正確な定義が、口伝ともあり、はっきりしません。

ともかく「草の丸馬出」では虎口より城郭の内側が見えてしまうぜ! と、敵の見透の問題に触れているのは、わかりました。

五番目の大陰にある「図云」は、屈曲も食い違いも馬出しもない、単に土居を切り欠いただけの虎口の前の濠に、木橋がかかっている図を指しています。

このような虎口は非常によろしくないと。

なぜなら、内側から備(そなえ。部隊の意味)を「いたし(出だし)」、または退却させるときに、敵につけいられるからだと。

あるいは門を開くことができなくなるからだと。

だからこそ、虎口の向こうに馬出しを作るのだ、馬出しが無い虎口なら、虎口を曲輪の正面に作らず側面に作るか、内枡形を用いるかしなければならないのだ……と言っています。

「秘伝」「必(ず)」「口伝」……と、これでもかというほどに、ここ重要だぞテストに出すぞモード全開です。

「内より備をいたし」、「又は門をひらくことならず」
が『築城記』の
「切て出てよき方を。土橋にする也」
という教えの延長にあることは明らかでしょう。初期北条流兵法もまた、城は出撃のことも考慮しなければならないと言っているのです。

> 師鑑抄 中 地理の巻 第六
> しとみかざし、十ヶ条の事
>  一、しとみの矢倉の事 一、小口しとみの事 一、しとみの土居の事 一、しとみのへいの事 一、どばししとみの事 一、しとみうへ物の事 一、かざしの矢倉の事 一、かざしのへいの事 一、かざしの曲輪の事 一、かざしうへ物の事
>  いずれも口伝。付、堀のきわに材木捨土不可置事。

敵の見透を防ぐ手段について十ヶ条、述べています。付記は『甲陽軍鑑 末書』にもあった通り。まだ、理由については述べられていません。言うまでもなく誰でもわかるようなことだったのでしょうか。

> 師鑑抄 中 地理の巻 第八
> 一、城の後堅固の事
>  城の後ふけ池、或は海ある城、取やうの事
> 一、城の後に、ふけ池、或(は)海など、とほくありて、敵の馬よせなき処の城は、本城の見ゆるやうにとりても、くるしからざるなり。又ふけ池には、堀にほりやうあり。口伝。

「城の背後に、ふけ池あるいは海などがあって、(対岸が)遠くて馬が近寄れない場合は、本丸が見えるように設計しても、ダメとはしない。また、ふけ池の場合は堀の掘り方に口伝がある」

……ふむ! およよ。んんん? これか? これかな?

のちの、城下の街路屈曲という説の出発点は、このあたりに帰せられるんじゃないか?

……すみません興奮してしまいました。

この項は『甲陽軍鑑 末書』にあった「うしろ沼、或は池遠く有取様」の、より詳しい説明です。

『築城記』でも平城は後ろに勢だまりをと書いてあったように、平城や平山城で城の背後を堅固にするのは当時のセオリーだったのでしょう。

後堅固の城といえば犬山城が有名ですが、ああいう風に大きな川や池・海が後ろにある場所に城を築くのは、手っ取り早い後堅固の城の築き方だったと思われます。

さて、そういう、ふけ池(深池と思われます。例としては名古屋城の御深井池(おふけいけ)。単に深いのではなく、面積も広い池を指しているのは明白です)や海がある場合について。

: 「(対岸から主郭まで)遠くて、馬で近寄れないならば、本城(本丸)が敵から見えるように築城しても、絶対ダメってわけじゃないですよ」
と、ここで説いているのです。

ここでは、城下の街路を屈曲させろとは、一言も述べていません。しかし、これを読んだ人の少なくない数が、次のように考えたはずです。

「ふーん。つまり逆説的に、池や海がないなら、馬が近寄れなくするべきなのだな」
と。

そして、論理的に次の考えに至ったはずです。
「ならば、そもそも、ふけ池や海があろうとなかろうと、城の背後だろうと大手だろうと、(偵察の)騎馬武者が近寄れず、外から城郭内部が見えない工夫があるべきなのだ」
と。

小幡景憲が、そのような意図をこめて口伝し、北条氏長がそれを書き留めたのか、いまとなってはわかりません。

が、ともかく北条氏長のこの書き方では、そういう風に受け取られても、しかたありません。

防衛のための城下迷路化説の「タネ」は、甲州流から北条流への伝授過程で撒かれたのです。

> 師鑑抄 中 地理の巻 第十
> 城地見るに、三ヶ条の事  三、繁昌の地、可見知ことは、此抄の第一の巻に委書なり。右何も口伝。

「繁昌の地を見知るべきィイッ! この巻の最初にも書いたァアッ! 口伝もあるでよーっ!」
だそうです。んもー、現代よりは紙が貴重な江戸時代ですよ?「大事なことだから二回」は、やめなさいよ。

これほど繁昌の地を重視する兵法が、物流を妨げる街路屈曲案に賛成するとは、筆者には思えません。

しかし、いずれにせよ、1635年頃の北条流では、見透かしの防止の指南はあっても、城下がどうあるかについての言及はなかったのです。

城下の街路を屈曲させるか否か以前の段階でした。ただ、おおざっぱに「繁昌の地」を求めるのみだったのです。

次に、攻め込んだ側が城下に対してどうしたかを見ましょう。

> 師鑑抄 下 人事の巻 第十
> 他国へ働入(り)、弓矢取(り)よう拾五ヶ条の事
>  五、敵国ふかく働入(り)、即時に其国をとりしかんとするは、大成(る)あやまりなり。先(ず)其国をつからかして、自手に入(る)様にするは良勝の作法なり。其敵国をつからしむると云は、春は早苗をこなし、夏は植田或は麦作をあらし、秋は刈田をらんぼうし、又は民家を放火し、其後山手よりとりよせ、味方粮の運送よき所を見定め、とり手或は付城を築(き)、番勢を指置、軽く出、かるく退(き)て、少(し)宛(はみ)入(る)べきなり。
>
> 師鑑抄 下 人事の巻 第十一
> 城責るに大将可知存知武略十一ヶ条の事
>  七、其の近隣の取出、民家令放火に一つをのこしをく事

前者の大意は、
: 「急いで攻めるのダメ、絶対。まず相手の国を飢えさせる。田畑を荒らして、民家は焼く。それから補給路を確保できる場所に陣取って、少しづつ、はみ入るように侵略するべき」
ですね。後者は
: 「敵地の民家や砦を焼くときは一棟だけ残しなさい」
ということです。

一棟残す理由はわかりませんが、ともかく前者も後者も「民家は焼け!」という点で共通してます。部隊を進軍させるのはそれからだと。

こういう攻め方、すなわち放火が当時の定石だとしたら、木と紙でできた民家による街路屈曲など、たいして意味のない防衛策だったのではないでしょうか。

いやいやいやいや。そんな悠長なことをしない、騎馬武者を驀進(ばくしん)させる
「即時に其国をとりしかんとする」
武将が多かったからこそ、こうして注意しているのだ。街路屈曲は有効だったにちがいない!……という可能性もゼロとは言い切れません。

ともかく、城下に対しては焼くという手段が基本戦術だったことだけは踏まえておきましょう。

師鑑抄からは以上です。

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### 4.2.8. 北条流:『兵法雄鑑』(1635頃),『士鑑用法』(1646年)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第3 (北条流兵法)』
です。

引き続き、北条流兵法から。北条氏長が師匠である小幡景憲の教えを整理したのが『兵法師鑑(≒兵法私鑑/兵法雌鑑/師鑑抄)』(1635年頃)。これを元に、将軍家光に献上するため書かれたのが『兵法雄鑑』です。

そして『兵法雄鑑』を一般向けに要約したのが『士鑑用法』(1646年)です。見ると、『兵法雄鑑』にまでは大量にあった「口伝」が減っていることに気づかざるをえません。

弟子が数千名になり、口伝なんて無理じゃ! となったのでしょう(勝手な決めつけ)。

1646年とは正保三年。正保城絵図が製作された時期と重なります。つまり、各地の城下の基本的な都市設計が終わった頃です。

>     撰地形事
> 防戦堅固
>  外へ人数を出し、敵を防に便ある地形を防戦堅固の地形と云(ひ)、人数出入自由なる城を防戦堅固の城と云(ふ)。
> 守成堅固
>  攻入に便なき地形を守成堅固の地と云(ひ)、出入不自由なる城を守成堅固の城と云(ふ)。

ここで北条氏長は「防」と「守」を使い分けています。


「防」は兵士が戦って敵を撃退すること
「守」は地形の有利を生かして撃退すること

北条流兵法が全編、この定義で書かれているかというと、そうでもなさそうなのですが、狭義ではそうだ、ということかと思われます。 そして氏長は、城は「防戦堅固」か「守成堅固」のどちらかに分類されるという前提で、

* 防戦堅固なら出撃と退却に適した、出入り自由な虎口
* 守成堅固なら入られにくく出にくい、出入り不自由な虎口

を適切に選ぶべきだと述べているのです。

これは城地の話であって、城下を出入自由にするか、あるいは不自由にするべきかについて、言及ではありません。

>     攻城
> 敵を迷

「攻城」の項にごちゃごちゃと書いてある中に「敵を迷」とありました。三文字。さすがにここまで簡略化されると、意味がわかりません。要約にもほどがあります。

これは、城下の迷路化の話でしょうか?

しかし、「攻城」の項なので敵とは籠城側を指しているのでしょう。城下の迷路化のことではなさそうです。

籠城側の降伏を誘うべく、あの手この手で敵の心を迷わせろということかと思います。

>     守城用法
> 民家を放火し自焼を用 但時により敵による
>
> 郊外近隣の雑具これをとる 城内へとりいること 不叶物はこれを焼く
>
> 敵より放火の便あるところはこれを塗(る)

これらの指南は『師鑑抄』では見られません。『師鑑抄』で攻め入った時に放火せよと書いたために、守城側の対策はどうするべきか、弟子に説明する必要が生じたのではないでしょうか。

その対策とは、城下を「焼いてしまえ」という焦土作戦。ただしづけで「時により敵によるかもしらん(=必ず自焼せよというわけではない)」と言っていますが。

そして、城下の雑具(食料や生活道具など、籠城戦に役立ちそうなもの)は、城内にとりこむべきであり、とりこめないなら「焼いてしまえ」なのでした。

つまりは
「敵が来たら焼かれるし利用されるんだから、むしろ先に自分たちで焼いてしまい、敵が利用できなくするのだ」
という作戦。

領民の財産をなんだと思っているのか。

軍人の存在意義は国民および国民の財産を守ることにあるんじゃないのか。

国民に対してその態度はなんだ!

歯をくいしばれ!(人生で一度は言ってみたいセリフ)

しかし、焦土作戦が前提なら
「敵より放火の便あるところはこれを塗(る)」
は理解が難しくなります。近世日本の城下なんて、いたるところが「放火の便あり」ですから、これを全部、泥や漆喰で塗っていては必要経費が大変なことにになるからです。

これは、『士鑑用法』の要約前バージョンである『兵法雄鑑』だと、もうちょっと詳しく書かれています。

> 兵法雄鑑 巻丗五 守城
> 籠城の作法四十三ヶ条の事
>  十、門屋ぐら家いづ方にても、敵方より放火に便ある所をば、どろを以ぬるべき事

「門」「矢倉」「家」の、放火されやすそうなところに泥を塗りなさいという指南でした。ここに「家」とあるので、やっぱり城下の民家を燃えないようにしたのでしょうか?

いえいえ。「門」「矢倉」に並記されているのですから、この「家」は城下の民家ではなく、城地の上級家臣屋敷と読むのが当然でしょう。

さらに「民家を放火し自焼を用」と、『士鑑用法』の中で「民家」と「家」の使い分けがある点も、ここの「家」が上級家臣屋敷を指していると見なせる根拠です。

放火されやすそうな場所に泥を塗って防ぐというのも、城地に限った話ならば現実的な策であり、理解できます。

いずれにせよ、籠城戦における城下とは「攻めるに燃やす、守るに燃やす」が前提だったとわかりました。その用法については次のように書いています。

>     放火自焼
>  私云、他国を焼を放火と云(ひ)、自国を焼を自焼と云なり。
> 爰に軍ありと余所の味方に告るとき焼 後攻めの時合力の火 陰敵の左右後を焼 籠城の時城下を焼 威勢を発して敵の気を奪ために焼 敵国の民をなやまし居に苦めんために焼 一方をやき敵を集め其虚をうつ手段に焼 敵味方約あるとき相図に焼 各放火自焼の法なり

要約版である『士鑑用法』でもこの分量! まず、他国を焼くのが「放火」!自国を焼くのが「自焼」! 定義にこだわるオタクの悪いクセが大発露!(←ひとのことを笑えない筆者)からの~……

* 味方に自分の位置を教えるためにファイアー!
* 後援で力を合わして前衛を助けるときにファイアー!
* 陰れた敵の左右後ろをファイアー!
* 籠城の時は城下をファイアー!
* こっちの元気を見せて敵を失望させるためにファイアー!
* 敵国市民を悩まして生活を苦しめるためにファイアー!
* 一方を焼いて敵を追い立て、火に気をとられてる虚を突いてぶっ殺すためにファイアー!
* 約束の合図にファイアー!

……以上が、放火または自焼の使い道だそうで。おまえら放火魔か。

これが当時の戦場の常識だったのです。放火・自焼があたりまえ。

繰り返しますが、そういう世界で 「街路を屈曲させておく」という防衛法が、はたして役に立つでしょうか。

また、当時の人々が街路屈曲で防衛という発想をするでしょうか?

ところで、すこしあとに、このような言及があります。

>     用意
> 火を看るときは家を焼べからざるを思べし
>  私云、火に焼亡の失あることを云なり

おおっと、
「家を焼くべからざる」
!?!?……しかし、ここで言う「家」は、やはり城下の民家ではなく、城地の自分たちの屋敷でしょう。

ひろく見積もっても主郭内の兵士宿舎まで。

民衆ひとりひとりの
「火を看る(管理する)」
ことはできませんから、単に身内の将や兵に向けて
「火を使う時は火事で城を燃やしてしまわないよう火の取扱いに注意しましょう」
と言っているにすぎません。上級家臣の屋敷は城のすぐ近くに建てられましたから。

北条流はいったんここまで。まだまだ、都市設計について軍事的な方策は、あまり出現していません。

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### 4.2.9. 越後流加治派:『武門要鑑抄』(1646~1652年頃)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第2 (越後流兵法)』
です。

越後流。この兵法の源流は神代の時代にまでさかのぼるとか、飛鳥時代~平安時代に日本が教わったり留学生に学ばせた中国兵法を伝えているとかいわれます。ていうか、自称してます。正直に個人の感想ぶっちゃけると、箔(はく)付けがんばってんなァー、です。

でも、日本の兵法のほぼすべてが、何らかの形で『孫子の兵法』と『武経七書』の影響を受けてるので、わざわざ自称せんでもよくない? という気が。

そういうわけで(どういうわけで?)、越後流の成立をいつとするかは難しい問題です。ひとまず、越後流加治派については、その教科書である『武門要鑑抄』が書かれた頃を成立時期として、ここらでご登場ねがいました。

この学派の大成者、澤崎景実が加治派龍爪斎景明に教えを伝授されたのが1646年。そして塾を開いたのが1652年なので、この間に教科書としての体裁が整ったと考えます。

> 巻十二 城取伝 品二十三 地形撰定段
>    地撰
> 五ヶ国十ヶ国乃天下を知召す将軍の居城には必ず五徳相生の地を撰んで城府を定むべし 是則繁栄の地なり

この、孫引きを重ねるほど言い回しが大仰になっていく現象に名前が欲しい。五徳相生とか言い出しましたぜ、ダンナ。えへへ、なんだかわからねえや。

ようするに五行思想にのっとり「五徳(仁 礼 信 義 智)」が相生(たがいに相関しながら育生)していくってことなんでしょうか……で、そういう土地って、どういう土地?

ともかく、大国を統べる将は繁栄の地を選ぶべきであると言いたいのは北条流と同じでしょう。

> 巻十二 城取伝 品二十四  城郭縄張段
>    城郭惣体
> 城郭の矩畳本丸・ニ三の丸・惣郭・外郭、是を要害五重の典輪とす

惣郭=惣構のつもりで読むと、順番通りなら、惣構の外に外郭があることになり、ちょっと「???」となりました。

後述する『因幡民談記』でも惣郭と惣搆(ママ)の使い分けがあり、これらの例から察すると、主郭の防衛線(江戸城で言えば内堀)が『惣郭』、市区の防衛線(江戸城で言えば外濠)が『惣構』だったのかもしれません。

サンプルが少なすぎて、断言はできませんけど。さらに言えば、言葉は時代と地域で変化するのが当然ですから、現代で普及している城郭用語との差異は当然にあるでしょう。

さて。甲州流もそうでしたが、「五」という数字に良い意味をこめています。

前後左右に中心を加えた状態を「五」とし、転じて完全無欠なものを表現するマジックナンバーと考えていたようです。

> 巻十八 夜軍伝 品三十五 
>    時造
> 忍を入れて敵陣の案内を知り、道筋を見定め地形を積つて根小屋・繋小屋を懸くべし

行軍の際に忍者に探らせて道筋・地形を見定めた上で、敵の根小屋や繋ぎの砦を目指すべきだ、という、あたりまえのことのように思える教え。

寄せ手が忍者に道を探らせるのなら、籠城側が対策として道の迷路化を考えても不思議ではありません。

が、この項は「夜軍伝」の一節。月明りとたいまつしかなく、近代的な地図もない時代に夜の行軍をするのなら、誰かが先に行って道を調べるのは普通かな、と思います。

だとすれば、防衛側のとるべき対策は、偵察に来た忍びを見逃さない、でしょう。そのためには、忍びが隠れられるような場所――屈曲――は、少ない方が都合がよかったはずです。

遠見の遮断による「見えない化」は、防御側にも等しくふりかかります。

> 巻十九 地戦伝 品三十九 籠城守禦段
>    蓓際
> 籠城に極る時は、敵寄詰ざる以前に根小屋を自焼して堅固にたてこもるべし。

蓓は「つぼみ」と読みます。いくさを花に見立てて、籠城戦の直前を花のつぼみに例えるとは、なかなか風流ですなぁ……と思ったら、これが筆者の大誤解。

古語の「つぼむ」であって、意味は「小さく集まること/すぼめること」なのでした。つまり、籠城戦の前段階という解釈は合ってたんですが、籠城することが「城につぼむ(すぼまる)」ことであり、いよいよ籠城する直前にやるべきことが「蓓際(つぼみぎわ)の働き」だったのです。

籠城戦の直前、敵が来る前に根小屋(平時の居館)を焼き払い堅固にたてこもれと申しております。

出ました、自焼。根小屋は焼くとありますが、城下をどうするかの言及はありません。

言うまでもなく城下も自焼だったのか、城下に都市がない時代の教えを改訂せずに使い続けていたのか。

いずれにせよ、城下に敵が利用できる建物が存在するのは守城側にとって不利であると考えているのがわかります。迷路化して防衛しようという考え方は、まだ見られません。

> 巻二十 軍旅伝 品四十二 城郭攻権段
>    邑落
> 敵城を取巻くには、二十里を隔て勢を揃へ、攻口の手合いを定め、敵がつぼみぎわの働をなさん事を心得て、市郭をたゝみ、払暁に勢を差し向け、変陪(遍唄)を行て飛道具をつるへ、その時間に小屋取りして人数を入るべし。

 敵城の包囲の仕方を述べています。

: 1. 約80kmほど離れた場所で軍勢を勢揃いさせる
:   ↓
: 2. 攻撃の計画を定める
:   ↓
: 3. 敵が行うつぼみぎわの働き(籠城直前の自焼活動)に注意しつつ、市郭(商業地の郭。すなわち城下)を破壊する
:   ↓
: 4. 明け方に軍勢を差し向ける
:   ↓
: 5. 変陪(遍唄)を行い、飛び道具を連射する
:   ↓
: 6. その時間に(明け方のうちに、もしくは、飛び道具を連射し敵を釘付けにしているうちに)根小屋を制圧し兵士を在留させる

5.の変陪(遍唄)は反閉(へんばい。邪気を払う陰陽道の秘術)のことかと思いますが、はっきりしません。

注目は3.と4.です。まず、商業地を破壊して、それから翌日の明け方に本格的な包囲を開始せよと書いてあるからです。

こういう手順を踏んでくるのであっては、街路を屈曲させていようがいまいが関係ありません。

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### 4.2.10. 山鹿流:『兵法奥義』(1650年)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第5 (山鹿流兵法)』
です。

『兵法奥義』!!!ド直球タイトル!

この本を著した山鹿素行は、北条流を学び、甲州流も学んだハイブリッド軍学者です。

例えるなら槍もナギナタも使えます、程度の話だと思いますが。

そのように山鹿素行は貪欲に知識を求めました。師の北条氏長から多識多聞が過ぎるとアドバイスを受けたほどです。

氏長だって相当に多識を求める人で
「お前が言うな」
って素行は思ったんじゃないでしょうか。

頭角を現した素行が20代後半になって書いたのが『兵法奥義』。山鹿流兵法の教科書となる『武教全書』が執筆されるのは、この6年後です。

> 巻第三 草創武功  
> 十一、不安于地事(地に安んぜざること)
> 一方一所安之而燕居、則草業不斉、故捨一方取一方、用捨可依時。(注、一方一所之に安んじて燕居するときは、則ち草業斉はず、故に一方を捨て一方を取り、用捨時に依るべし。)ここを以つて、防戦堅固の山険阻沢の地は、草業の地に適せず。

: 「一所につき一方の利のみアルヨ。安心したくて引きこもって無職だと、すなわち収入ゼロになるアルネ。安全をとるか、収入をとるか、どっちかを捨ててどっちかを取るしかないヨ。ケースバイケース、わかたアルか?」 「これをもって、防戦堅固である険しい山地やおびただしい湿地は、武家の本拠地に適さないとする」

……と筆者は訳しました。合ってるでしょうか?(聞くなよ)。

最初の漢文は、別に中国古典からの引用というわけじゃなく、素行の創作漢文のようです。だとしたら、「ここを以つて」とか、どんな自給自足だよ! と思ったり思わなかったり。

「燕居」は、家に居て安んずる(くつろぐ)の意味で、遠回しに「働いていない」を含みます。つまり、安全をとって防戦堅固の地にこもると平時に仕事にならないと言っているんですね。

武家の仕事の半分は行政というサービス業ですから、サービスの提供先である農地・商業地・住宅地が周囲になければなりません。

つまりは他の北条流・越後流と同じく「繁昌の地」を本拠地にしなさいと言っているだけなのですが、素行君にかかるとこういう表現になってしまったようです。

なんなんでしょうね。横文字の単語をやたらと駆使して顧客を煙に巻くビジネスコンサルタントみたいなもんでしょうか。

……さて、1650年まで見てきました。まだ、街路を屈曲させよとした文献は見つかりません。むしろ、交通の便をよくするべしという指南や、曲がった道をまっすぐに直させたとかばかり。

しかし、正保城絵図が描かれたのは当然に正保年間(1645~1648)ですから、ほとんどの城下はこの頃までに基本的な都市設計が終わっているのです。

このことを頭に留めつつ、文献調査は続きます。

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### 4.2.11. 越後流宇佐美派:『武経要略』(1652年以前)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第2 (越後流兵法)』
です。

越後流の別の系統。上杉謙信の軍師だった宇佐美良勝を流祖とする宇佐美流です。

兵法書として成立させたのは孫の宇佐美良賢。成立年をいつにするか難しいため、すくなくともこの時点では現在の形になっていただろうという年にしました。

隅田是勝が書いた軍学者としての宇佐美良賢を紹介する文書に記されている承応元年(1652年)です。

この『武経要略』も都市計画についてはそれほど述べていません。

> 巻の七 勇戦守城篇
> 堀の外側には、樹木を栽ゑ土木を置くこと勿れ。何となれば敵の寄せ来るに便ありて堀を埋め易し。

『築城記』を踏襲し、堀の外に植樹したり土石を置くべきではないと述べています。

なぜなら敵が堀を埋めるのに便利になってしまうからだと。

ほかの兵法では理由をくわしく解説していなかったので、宇佐美派の親切心に涙がちょちょぎれる思いです。

> 三に曰く、縦ひ農工商といへども、長たる者に於いては、人質を捕りて上下をして相親しむべきなり。
> 四に曰く、無用の工商多く籠置くときは、則ち兵粮早く減じ、城中雑絶説ありて災を生ず。
> 五に曰く、敵来りて陣する所の地あらば、則ち竹木を伐取し、民屋を焼失せしめ彼の便を空しうすべきなり。

: 「三、たとえ(身分の低い)農工商であっても、それらの長たる者には「人質を出させて」、「身分の上の者と下の者、おたがいに親しむ」べきなり」

ですって。ヤクザかよ。親しむって意味深だな、かわいがりか? ええおい?

: 「四、籠城の際、役に立たない職人・商人を多く保護したら、兵粮が早く減るし、デマや噂がとびかって人災あるよ(だから保護せず見殺しにするべきだよね←言外に含めた意味)」

ですって。てめぇら人間じゃねえ。

五は既出の焦土作戦なので拙訳は省略。住民の意見や戦後の生活など歯牙にもかけない、ひっでえ話。哀しいけどこれ戦争なのよねラララ。

越後流に限らず、どの軍学書もマクロな政治の話や国家論になると、民あっての国家、民心が離れればすなわち破れるだのなんのと説いているのですが、いざミクロな戦術論になるとこれだよ!

城下の一般人なんざ、人だと思ってねえ。

自分たちが生き残ることしか考えてやがらねえ。

サムライなんてそんなもんだ。二本差しが怖くて田楽見てもションベンちびっちまわァ。

さて、繰り返しになりますが、この
「敵が来る前に、利用されそうな居住区は焼き払ってしまえ」
という考え方は
「城下を複雑化させて敵を迷わせる防衛術」
と完全に相反します。

そして、越後流宇佐美派もまた、民屋については、守るに自焼、攻めるに破壊を用いるのです。

> 巻第四 営陣篇
> 村里に臨むときは則ち民屋を毀ち取り、其地を離れて陣すべきなり。民屋に陣すれば則ち甚しく凶災あり。
> 一に曰く火難の煩あり。二に曰く伏兵隠れ易くして擒へ難し。三に曰く、民家の大小に依りて衆の争いあり。四に曰く士卒身安くして懈怠を生ず。五に曰く人衆分散して速に相応せざるなり。

これは城下の話ではなく、その経路上の村里に攻め込んだときの話ですが、

: 「村里に攻め込むときは集落の民屋を破壊し、その場所から離れるべきである。民屋に陣するのはデメリットが多すぎるのだ。第一に火災の恐れがある。第二に敵のゲリラ兵が隠れやすいし、捕まえにくい。第三に、民屋には大小があるので、誰がどこに泊まるのかでケンカが起きやすい。第四に、野営じゃないので居心地が良くてホームシックになりやすい。第五に固まって宿泊せず分散して宿泊するので、急な事態に対応が難しい」

と言っています。

建物があると敵の伏兵が隠れやすく、捕らえにくい!!!!

いやはや、考えさせられる指南が出てきました。

守る側も、敵が利用できそうな建物は敵が来る前に焼き払ってしまうのがセオリー。攻める側も、建物があったら破壊して、利用しないのがセオリー。

建物は利用しない・させない・残さないの3ない運動が越後流宇佐美派には存在していたのです。他の軍学だと一軒は残すべきだという指南もあり、このへん、見解が分かれていたようですが。

さらに『武教要略』はこうも述べます。

> 巻之六 勇戦難歴篇
> 凡そ村里の中に軍するときは則ち各下馬して先ず飛具を列して街路を支へ、その余の飛具を主る者は左右の屋陰に因り、先を取りて宜しく之を放つべし

これは、こういうことでしょう。

: 「村や里の中に進軍するときは、まず全員、馬から降りろ。そして、射撃兵が(自分たちのいる)街路を征圧しろ。その上で、余った射撃兵が左右の建物の陰に飛び込み、敵よりさきにぶっぱなせ」

後半は誤訳してるかもしれませんが、まあ、馬から降りろのところまでは合ってるでしょう。そこが合ってれば十分です。なぜなら、問題としている
「大名は防衛のため街路を屈曲させた」
という説には現代において
「騎馬武者の突進をふせぐため」
という理由が添えられることが多いからです。

ですが、少なくとも17世紀の越後流宇佐美派のセオリーは「集落では下馬して危険を避けるべし」だったのでした。

よく考えてみれば、いや、雑に考えても、籠城戦というものは攻め手がジワジワと安全を確保しながら包囲網をせばめていくものです。

敵が潜んでいるかもしれない城下にしゃにむに攻め込むような猛烈な攻城戦がなかったわけではありませんが(第一次上田合戦や、小田原の役の山中城戦・八王子城戦など)、圧倒的な戦力差がある場合の、例外と言っていいでしょう。

防衛側は敵に建物を利用させないため自焼する。攻城側も建物があるのは危険だから破壊する。破壊しないときは、慎重に進む。

こういう考え方が主流だったのだとしたら、
「街路を屈曲させて遠見や馬の突進を防ぐ」
という目論見は、妄想の域を出ない防衛策と言わざるをえません。

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#### 4.2.12. 長沼流:『兵要録』(1652年頃)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第4 (長沼流兵法)』
です。

長沼澹斎が創始した「長沼流兵法」の教科書が『兵要録』です。

ここまで江戸軍学のメジャーな四派閥を見てきましたが、甲州流→北条流→山鹿流は同じグループに属していました。

越後流も地域的に甲州に近いせいか、軍法や戦法において甲州流と越後流は、内容が似通っています。

そして、甲州流も越後流も『孫子の兵法』や『六韜・三略』(太公望に名を借りて東周の兵法・政治論を伝えていると考えられる)などの武経七書がベースになっています。

つまるところ、甲州流・越後流・北条流・山鹿流は似たりよったりのグループなのです。

これにくらべると、長沼流は明代の(当時の日本から見たら最新の)大陸兵法を取り入れており、他のメジャーな四つの兵法とは毛色が異なった軍学でした。

長沼流兵法は会津藩に採用されたことで有名です。

> 巻之十 練兵 四下
> 賊城を覘ひ望む。或は竹牌の表に於いてし或は間隙に於いてし其の危からざる知る者は安く其の安きを需む者は危し

見透についての心構えを説いています。

> 巻之十九 攻険 
> 隊探伏姦の地に遭へば、則ち金を打ち馬を駐めて列を成す。照旗一面を挙ぐ。本部は旗を見れば、則ち軍を駐む。候長は銃頭をして伏姦を探索せしむ。若し伏に遭へば、則ち銃頭は号砲一声を挙げて小白旗を点ず。候長は銃頭の伝報を受けて吹角一通す。本部は角音を聴けば、則ち列を整えて進む。伏無ければ則ち銃頭は銃手を引いて馬を回らす。(後略)

: 「(先行する)斥候部隊は伏敵がひそんでいそうな場所に出たら、
: 鐘を鳴らして斥候部隊の馬を止めて整列する。
:  ↓
: 合図の旗を挙げる。
:  ↓
: 本隊は旗を見たら、進軍を止める。
:  ↓
: 斥候隊長は銃兵班長に伏敵がいないか探索させる。
:  ↓
: もし伏敵がいたら、銃兵班長は号砲を慣らし小白旗を挙げる。
:  ↓
: 斥候隊長は銃兵班長の合図を受けたら角笛を吹く。
:  ↓
: 本隊は角笛の音を聴いたら、隊列を整えて(伏兵に備えながら)進軍する。
:  ↓
: 伏敵がいなかったら、銃兵班長は部下を撤収させ(斥候隊長は)馬を動かす」

……とまあ、こまごまこまごま、敵がひそんでいそうな場所に遭遇した時の手順を書いています。本質的には越後流宇佐美派と同じですが、よりマニュアル化が進んでますね。

引用したのは伏敵がいそうな場所、つまり草地などでの手順ですが、左右に疑うべき建物、前方に暗がりのある場所でも、原則は同じ。いったん馬を止めて、探索してから進むの手順です。敵がいるかもしれない場所への突進は、普通はしないのです。

> 巻之二十一 戦格 
>     攻城
> 一、城小にして兵多きは、累りに火器を発し、其の窩舗屋舎を焼毀し、乱に乗じて之を攻擣す。

: 「敵の城が、小さいわりに兵が多いときは、大砲などの火器を連発して蔵・店舗・家屋・館舎を焼き毀し、混乱に乗じて敵城を攻撃する」

甲州流・越後流・北条流・山鹿流はきれいごとをぬかしつつも、いざ戦闘になると
「焼! 焼! 焼!」
だったのですが、長沼澹斎は
「敵国といえ民衆を苦しめてはいかん。こちらが立派な態度でいれば、自ずから帰順するものだ(そのほうが益がある)」
と説いています。

つまり、一般市民の住居や田畑を放火するという戦術が、あまり見られません。

引用した部分も、籠城兵が城の規模より多すぎるときは混乱させるチャンスなので、火器で城下を破壊して混乱させよという指南であって、城下を焼き尽くせというものではないと考えられます。

長沼流らしく「攻城」の項もこまごまと大量に書いてあるのですが、城下の道が入り組んでいるときはどうすればいいか?というFAQはありませんでした。濠が多いとき、道がぬかるんでるときへの指南はあるのに。

おもしろいのは『兵要録』には「守城」「築城」というテーマが存在していない点です。

甲州流の小幡景憲などは、築城術こそ(信玄公のような天才ではない)自分たち凡人が学ぶべきことと、重要テーマにしているくらいなのですが。

あるいは、長沼澹斎は先行する他の兵法との差別化を考えていたのかもしれません。

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### 4.2.13. 山鹿流:『武教全書』(1656年頃)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第5 (山鹿流兵法)』
です。

ふたたび山鹿流に戻ります。

いよいよ、山鹿流の基本教科書である『武教全書』を見ていきましょう。 甲州流と北条流を学んだ山鹿素行が30代のころに完成させたと伝わる兵法書です。そのうえ入門書なのでわかりやすい。

山鹿流は実戦的な兵法でありつつも武士としての道徳・倫理を守ることを前提とした軍学で、後世の吉田松陰に影響を与えました。

> 巻之一下 地形 
>     地形品〃之事
> 一、隘形 兵法曰、左右高山有平谷也。(注、『孫子集註』張預の語。左右高山にして中に平かなる谷有るなり。)いふ心は其地形道有といへども、せはしくて利あらざるの地なり。
> 一、険形 兵法曰、渓澗坑坎困車阻馬不便馳突、険阻難行の地也。(注、『七書直解』の語。渓澗坑坎ありて車を困らしめ馬を阻み、馳突に便ならず、険阻難行の地なり。)いう心は地形堅固にして、戦自由ならざるの地なり。隘険ともに守成に便ある地形を云うなり。

: 「隘形とは、兵法の言う、左右の山が高くて谷底が平らな地形。道があるといっても、苦しくて利のない場所である。
: 険形とは兵法の言う、峡谷で穴や窪があり、車を困らせ馬を阻む、突撃に不便な険阻難行な地形。堅固な地形であり、戦うのに不自由する場所である。
: 隘形・険形とも守るのに利便性がある地形をいう」

のちの街路屈曲防衛術につながる、重要な記述が見つかりました。
「車を困らしめ馬を阻み、馳突に便ならず」
です。おお! ついに出たか!? 騎馬の突撃を防ぐの術!

もちろん、ここで話されているのは山間部などの峡谷で、あまり整備されてない道のことですから、城下の話ではありません。

車や馬を阻む要因は屈曲ではなく路面の凸凹です。

馳突とはいっせいに突撃するの意味で、馬偏の漢字が入っていますが、かならずしも「馬で突進」とは限りません。

しかしそれでもなお、「道で敵の突進を防ぐ」という概念が、ここで教示されたことに意味があります。

初出は中国古典ですが、ここで山鹿素行により、ひろく世に知られることになったわけです。

この概念が街路屈曲と組み合わさるのはまだ先のようですが
「材料がそろってきた」
ことは重要です。

そしてもちろん、そういう防衛術が考案されることと、大名が実際にそれを採用したかどうかは別の話です。

> 巻之三 城築
>     地形を撰事
> 繁昌の勝地を知る事 繁昌の地形と云は、北高く南低く南北へ長く、東南西に水あるを用いる事。

山鹿素行は実にシンプルに書きました。
「一方一所安之而燕居、則草業不斉? わかるかよバーカwwwここは日本だぞ! 日本語で説明しろ!」
とでも罵倒されたんでしょう(勝手な決めつけ)

結果的に、五徳相生だの言いだしてたどっかの流派に爪の垢を煎じて飲ませたいほどわかりやすくなりました。

> 巻之三 城築
>     平地に可見立武功の事
> 一、四方きらきらにて見切所遠を可用事。

さあ、これがわからない。あまりにも意味がわからないので、文字起こしを疑って崩し字で書かれた文献までガン見してしまったほど。でも、おそらく文字起こしは合っています。ていうか筆者、崩し字が読めないくせにガン見したって、どうにもなるまいて。

: 「四方に威容を示して(きらきらし=立派な様子)、見切の所遠を用いるべきこと」
でしょうか。

「見切所遠」が「見切の所遠を」なのか「見切所の遠を」なのかわかりません。

「見切る」のか「見切れる」のか。

内から外を見ているのか、外から内を見ているのか。

悩むポイントは多いのですが、いずれにせよ「見切」は外郭部の門や虎口、番所でしょうから、どちらの読みでも大差ないとして、悩むのをやめました(ぉぃ

ともかく、屈曲や門によって、「見」が「切れる」場所だから「見切」です。これが城から遠くにあるべきだと山鹿素行は説いているわけです。なぜなら四方に威容を示すために。

と、いうことは、城から四方に見切がある所まで、見が切れずに見通しが立っているのが理想的城下であると、解釈できます。

仙台城下や久保田城下はお見通しにこだわっていました。それらの事例を考慮すると、
「四方に威容を示すため、見切をなるだけ遠くに作りなさい(そうすれば市域内ではお城の見通しが立って城下の人民に権威を示せる。敵軍にも外郭に見切があることで武威を示せるから)」
と解釈するのが、妥当かと思います。

主郭と外郭とのあいだ――すなわち城下――は道を屈曲させないのが原則だったのではないでしょうか。

> 巻之三 城築
>     平地に可見立武功の事
> 一、侍屋敷町屋をわるとも、所広を用る事。

城下を町割して侍屋敷や町屋を区分けするときは、なるだけ広くゆとりを確保してやりなさいよと言っています。

それができりゃア苦労はせんわい、という大名のぼやきが聞こえてきそうです。

> しとみかざしの事
> しとみの屏 しとみの土居櫓 しとみの屋敷 しとみの植物 かざしの屏 かざしの土居櫓 かざしの屋敷 かざしの植物 かざししとみ陰陽の事

甲州流・北条流を踏襲した遠見遮断術です。

> 城内家作武功の事
> 屏うらめぐり道をあくる事

屏(塀)の裏に道をあけておくのだぞ、と。

またもや道路の迷路化とは逆のアドバイスです。

城内家作ということは丸の内の上級武士屋敷における指南と思われます(単に城郭の兵に武者走りを設けよと言ってるだけ、という可能性もあると思いますが)

いずれにせよ侍長屋・足軽長屋エリアの話ではありません。そのうえ往来ではなく敷地内部の話。

ですからこれも城下ではなく城地についての指南となります。

> 巻之四上 攻城
>     城責武功の事
> 一、近隣の民をしたしむべき事、付敵により地下を放火し、或は一を残すこと

: 「近隣の住民と仲良くなるべき。付記:敵によっては城下を放火する。あるいは一部を残して焼き払う」

さあ! よし! きた! 甲州流から連綿と続く放火戦術の本領発揮です。盛り上がってまいりました(筆者が)。「風林火山」ってそういう意味だったのか(違う)。

ところで、山鹿流も一部を残す理由を書いてなくて、なかなか好奇心がそそられます。

> 一、火箭をもつて敵の気をうばひ、家をやく事
> 一、大筒石火矢をもつて矢倉を落し利をなす事

: 「一、火縄銃(もしくは火矢)を使って敵の注意を反らし、その隙に侍屋敷に放火する事
: 一、大砲を使って矢倉を破壊し、利を成す事」

この2条はともに、城中の敵方に心変わり(降伏)をうながすための戦術だそうです。

2条がセットになってるってことは、「家を焼くこと」の「家」は城下の民家ではなく、矢倉などとともに城地にある、上級侍屋敷のことと思われます。敵の気を反らさないと簡単に焼けないことからも、要所に泥が塗られた、厚く防衛されている城地の話であることは明白です。

戦争のために城下の町民町を自焼するのは平気でも、自分の屋敷が焼かれたら降伏を考える。

サムライなんてサムライなんてラララ。

>   山城攻様の事
> 根小屋を焼く事
>
>   城責落して後心得の事
> 城中に火の手早くあぐべき事

根小屋を焼くのは普通です。でも、城を攻め落としたあと
「城中を燃やせ! 早く!」
ってなんなんですか? ただ、焼きたいだけですか? 炎の七日間ですか?
「ヒャッハーッ! 遮蔽物は焼却だーッ」
ですか? 山鹿素行さん、ちょっと答えて!

さて、このように攻めてくる寄せ手に対して、攻められた側の打つべき手は何だと山鹿素行は説いているのでしょう?「守城」の段にはこうあります。

>   守城
> 籠城の大将不存武功の事
> 一、地焼の事 付城内火事の時の考の事

地焼は自焼のことです。ああ、やっぱり。そら、そうよ。そりゃそりゃそーじゃんそりゃそーじゃん。

付記の部分は説明不足で解釈に悩みますが、城に火が回る可能性も考えて、そうならないよう気をつけて自焼しなさいよってことでしょう。

> 城外に有之米塩噌むしろこもまで城内へとり可入事。取入不叶時は、やきすつべき事

もう、驚きませんよ。北条流も同じこと言ってましたし。

> 一、城をかざる事。用捨あるべき事

これは興味深い指南です。城を隠すにも要・不要があるのだぞと。

お、一周して築城記と同じ視点に戻りましたか?

しかし、口伝を重視した山鹿素行はそれ以上の説明を書いておりません。

見透を防がない方がよい場合もありえる、というのは、どういうことなのでしょう?

詳しいことを記していないので、これ以上のことはわかりません。しかし、仮に「見透の妨害をした方がいい場合」と、「しない方がいい場合」が存在するとしましょう。

そして、「しない方がいい場合」になったとき、かざしの屏 かざしの土居櫓 かざしの屋敷 かざしの植物を、どうしろというのでしょうか?

もし「かざし」を街路屈曲でやっていたら、どうすればいいのでしょう?

焼き捨つるのでしょうか?

> 一、橋なき所に橋を懸、道なき所に道をあくる事

うわあああああ! 逆だああああ! 城下の迷路化とは完全に逆のこと言ってるぅうううう!

いや待て! まだあわてる時間じゃない! この文章が城下の事を言ってるとは限らない! 郭内(城地)の話かもしれんのだ! だからセーフ!(何が?)

ここで、いったん「巻之三 城築」に戻りましょう。

> 巻之三 城築
>     平地に可見立武功の事
> 一、船入ちかく物のうん送自由なるを見立る事。

戻った理由は単純で
「結局、山鹿流も城下の都市計画についてはそんなに言及していなかった」
からです。

ここでは水運の要である港(この時代は湊と書くのが一般的)の周辺が、運搬に不自由ないかちゃんと見立てなさいよってことですね。

「城築」で城下の交通について言及しているのは、これくらいしかないのです。

では再度、「守城」の「城持不断心入の事」に戻って。

>     城持不断心入の事
> 一、城下にかぢ・ばん匠・ぬし(塗師)類を可置事

城下に鍛冶職人や番匠(いわゆる大工)、漆塗職人を置くべきですよ、ということですね。つまり城下に彼らの居住区を作りなさいと。

ここでも、平時に心掛ける都市計画の具体的な施策と読めるのはこれくらいしかありません。そりゃあ
「商売繁盛の場所を本拠地としなさい」
という、ざっくりした指南よりは進んでいますけれども。

まだまだ、防衛のために城下の街路はどうあるべきなのかには至りません。

いま引用した項が「城持不断心入の事(城主が日頃から心がけておくべきこと)」の下に置かれている項目のいくつかです。つまり、城下のありよう、都市設計についての指南なら、ここに置かれるのが筋です。

だとすれば、「城持不断心入の事」に置かれず、「城築」に置かれている
「橋なき所に橋を懸、道なき所に道をあくる」
は、築城時における主郭内(城地)の橋や道の設計のことでしょう。

平常時の城下街路について言ってるのではないと考えられます。

つまり、甲州流と北条流のハイブリッドである、力と技の風車が回る山鹿流の基本教科書においてさえ、都市計画についての言及は、あまりなかったのです。

言っていたのはこんなことでした。

> 一、国をもつて城とし、城をもつて国とする事

ああっ! またもやざっくりした指南っ!


とはいえ、山鹿素行は基本的に通行便利であることを重視していました。

「四方きらきらにて見切所遠を可用事」
「船入ちかく物のうん送自由なるを見立る事」
「侍屋敷町屋をわるとも、所広を用る事 」
「屏うらめぐり道をあくる事」
「橋なき所に橋を懸、道なき所に道をあくる」

からも、それはあきらかです。

その線で考えるなら、遠見遮断のために街路を屈曲させるなど、お前は何を言っているんだ? というものでしょう。

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### 4.2.15. 楠木流「南木武経」(1681年)

※この項で引用するテキストの引用元は
石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第6 (諸流兵法・上)』
です。

楠木流と言ったら当然、楠木正成の兵法。ということは最初に挙げた『築城記』よりずっと古い教えってことになりますが、子孫を称する者によって、軍学の一派として成立したのが17世紀後半なので、ここでとりあげます。

> 百騎は家の上にあげよ。是れ三百を九百に用いる利あり。予京都の合戦に度々此謀にて利を得たり。町戦のときは、楯の裏に横ざんを打べし。二枚つき合いて上りばしごとなる如くすべし。

: 「(街区での戦いでは)百騎は家の上にあげなさい。これは家の下で戦わせるより三倍くらい利点がある。私は京都で戦った時、この戦術で勝利したものだ。町で戦う時には楯の裏に横桟をとりつけておくのだ。このように改造した楯二枚をつき合わせて、登り梯子のかわりにするといい」

……という話ですね。

そう、江戸中期くらいまでの日本には、二階建ての民家は少なく、基本的に平屋でした。二階建て以上の建築は、お寺に城、商店街くらいだったのです。住宅街は平屋ばかりでした。

だとすれば、街路の迷路化なんて、屋根に登ればほとんど無効化できたのではないでしょうか?

鈴木理生氏の『江戸のみちはアーケード』によれば、戦前の時代劇映画では、捕り物のシーンで捕方が持っていく道具に、必ずハシゴがあったといいます。逃げる側が屋根の上や庇(ひさし)の上を通路としていたことは、歌舞伎の捕り物の場面の多くが屋根の上を舞台としていることからもわかる、と。

当時の道幅は幹線道路の標準が四間幅(7.3m)です。幹線じゃない道は一間幅~二間幅(1.8m~3.6m)も少なくない。とすると、身軽な足軽なら屋根から屋根へ飛び移りながら移動できそうです。

戦国以降の数千もの兵が戦う攻城戦ともなれば、攻め手も雲梯(うんてい。攻城用の長いハシゴ)のひとつやふたつ持ってたことでしょう。

攻め手が屋根の上にあがってしまえば、街路屈曲による遠見遮断や迷路化など、ものの役に立ちそうもありません。

そりゃまあ、騎馬武者が乗馬したまま屋根の上にあがるのは難しいでしょうが。

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### 4.2.16. 『因幡民談記』(1688)

出典: 因幡民談記. 巻二 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239423/74

1688年に完成した鳥取藩の地誌です。作者の小泉友賢は1622年生まれ。のちに鳥取藩の藩医を務めていますので、戦国を知る世代から直接に話を聞く機会に恵まれていたと考えられます。

さて、1616年(元和二年)のこと。池田家姫路藩では二代藩主・池田利隆が死去し、その子・光政が家督を継ぎました。しかし三歳と幼少では要衝・姫路はまかせられぬ余所に移そう…と、姫路から鳥取へと国替えを命じられます。

家臣たちはこの国替えで、おおいに悩むことになりました。もともと五十二万石の姫路藩を治めていた家臣団です。いろいろあって光政が相続した時点で約四十万石。それが鳥取三十二万国への減封だったからです。よくあることですが、だからといって大規模なリストラが断行されたりはしませんでした。

生活が苦しいのは重税でのりきるとして(のりきるな)、物理的に住む場所が足りないのは大弱りでした。というのも、前藩主・池田長吉公の石高は六万石で、このときの鳥取城下は、六万石に応じた規模でしかありませんでしたから。

あーだこーだ話し合った結果、鳥取藩池田家家臣団はいまから新しい都市を作るのも大変だから、鳥取を拡張してなんとかしよう……という結論に至ったのでした。

『因幡民談記』には、このときの市区大改造の過程がこまかに記されています。ちょっと長めに引用してみましょう。拡張工事は正月に始められました。

> 鳥取城下普請之事
> (前略)備中守殿御代には。柳土手を以て惣構とし。袋川より内に町屋を立つ。今の柳倉の前に橋を掛け大橋と号し。此處を鳥取の大手とし。是より外は田畑也。橋より城の堀の涯迄三筋の町を立て。東の方をば鰻町と云ひ。中筋をば中町と云。西の方を與次右衛門町と云ふ。侍屋敷は山下の堀より内にあり。或は宮内湯所口にもあり。少々町屋にも交りあり。

: (池田光正の前任者である)池田長吉公のときの城下は、柳土手をもって惣構とし、(旧)袋川より内側に町人町があった。
:
: 今の柳倉の前に橋をかけて大橋と呼び、ここを鳥取城下の大手とした。此の橋より外側は田畑であった。
:
: 橋から城の内堀まで三本の筋(南北道)に基づく町人町を作り、東筋を鰻町と言い、中筋を中町と言い、西筋を與次右衛門町といった。
:
: 侍屋敷は山下の堀より内側にあった。または、宮内湯所口にもあった。少々、町屋と侍屋敷の混在があった。


「三筋の町を立て」には着目したいところです。六万石クラスの藩ならば平行道を三本通し、簡素な碁盤目状の城下を形成していたことがわかります。

> 如是規模小なりければ。城下を廣めんとすれとも。川筋町中を通りける故。成し難ければ。新川をほり河水を通し鳥取の惣郭とし。本の川筋をば塞ぎける。本の川の邊より四丁計西南の田土へ出し。上は下吉方稲平の在野の下。松ヶ崎と云ふ邊より。平田の邊り今の出合橋の本迄十四五町か間。河巾七間底三間半に堀りにける。

: すでに述べたように、もともとの城下が狭かった。城下を広げようと考えたが、計画通りに城下を拡張すると旧袋川が町中を通り抜けることになるので、そのままでは城下の拡張は難しかった。
:
: そこで、新川を掘って、元の川筋を塞いだ。新しい城下は旧袋川の外側に四町(約436メートル)ほど拡張した。
:
: (新川の開削区間は)上流側は下吉方稲平の在野の下から。下流側は松ヶ崎と呼ばれるあたり、今の出合橋のたもとまで。距離約1.5km~約1.6km、幅約13m、深さ6.5mで掘ったのだった。

訳註:袋川はその名前の通り、袋の形のように曲がりくねった箇所がたくさんある、蛇行の激しい川だったと思われます。

> 三月以降は農に妨けありとて。正月二月の兩月を限り。因幡伯耆兩国の百姓にかけほらせけれは。在々所々一軒も此棟役を遁るゝ者なく。一民も此力課を勤めさる百姓なし。夥しき經営也。

: 三月になったら農作業に影響があるので、1月と2月の農閑期だけのアルバイトを因幡と伯耆の人民に命令した。
:
こうした気配りのかいあって、アルバイトを拒否した人民は一人もなく、仕事をさぼる人民は一人もおらず、新川の開削が進んだのだった。
:
: すごい経営力である。池田家家臣団のおびただしくすごい経営力だったのである。

> 偖て川を堀り土をば川の邊りに積み。土手を築上げ是を惣搆の要害に用い。上には竹を植へられたり。偖て元の川をば堤をつきて埋め塞ぎ。新川へ水を流し掛け。堤の内に町小路を割れり。新川へは五所に橋をかけ。方々への海道とせり。前代柳堤より内の町小路をば破られ。内山下の侍屋敷は町となる。柳堤の外新川の中を以て町屋とし。端々には侍屋敷を割る。本の川筋は山下の中を通りける故。小路をわる妨となれば。皆侍屋敷の裏〳(注:底本ママ。繰り返し記号の「くの字点」の上半分と判断した、カタカナの「ノ」の可能性もある)行へ様に地割をせり。去れとも彼方此方河筋廻くれば。或いは往還の道へ出て。或いは屋敷の家下となる。されば是を埋んとして多くの人が費る所限りなし。河の底深くして。沼などの處をば土石にてしめ入れ。埋上る事叶わねば材木を以て打入けるとかや。往還の處をば河の通する所をば埋きりて土橋とす。

: さて。
:
: * 新川を掘って出た土は、新川に沿って積んだ
: * その土で土手を築き、(新たな)城の惣構とした
: * 土手の上には竹を植えた
: * 旧袋川には堤を築いて川をせきとめた
: * それまで旧袋川に注がれていた水を新川の方に回した
: * (こうして出来た新しい)堤内に町人町を町割した
: * 新川へは五ヶ所に橋をかけ、鳥取からあちこちへ向かう街道とした
: * 柳堤より内側にあった、それまでの町人町の小路は破却された
: * (逆に)内山下にあった侍屋敷は町人町となった
: * 柳堤より外側、新川の土手より内側を新しい町人町とした。ただし、そのエリアの端っこの方には侍屋敷を配置した
:
: (流入地点はふさいだとはいえ)旧袋川の川筋は残っており、新しい町人町を通り抜けるので街路の妨げになる。そこで、旧川筋が侍屋敷の裏へ裏へとなるように、屋敷割りをした。
:
: とはいえ、旧袋川はあっちへこっちへと曲がりくねった川だったので、往還道と交差することもあれば、屋敷の真下に来ることもあった。そういうわけで、
:
: * たくさんのひとが、これを埋めようとかかりっきり限りなしだった
: * 旧川筋の川底は深く、いまや沼と化した部分を土や石で埋めようとして、埋めきれず、最後には木材まで打ち入れたほどだった
: * 往還道と旧川筋が交差した場所は埋めきって土橋とした


"前代柳堤より内の町小路をば破られ。"は解釈の難しい所です。

のちの城下図を見ると、ここが中級~下級武士用の宅地にあてがわれたことがわかります。

商業地でないなら、人通りの少ない閑静な住宅街ということになります。小路は必要ないので、それを潰して少しでも宅地を広くした、と解釈しました。

> 又町屋にわりし處は。郊外の田土ふけ田とも多けれは。柳土手の外を堀り。町中の地に引ければ。今に其跡大きな堀となる。侍町も町方も。屋敷割をして渡しければ。我先にと地を引き材木を集め。其營みおびたゞし。

: 新たに町人町になったエリアは、もともと郊外で深田だった場所が多かった。
:
: いま、そこが新しく市街地に入ったとはいえ(なにもしなければ)その深田だった場所が大きな堀(堀池)になることは容易に想像できた。
:
: で、あるから、侍町の小身たちも町方も、地割を終えて割り当てを渡すと、大急ぎで材木をかきあつめ、堀跡に悩まされない造営を始めた。すごい造営力である。侍町の小身たちも町方も、おびただしくすごい造営力だったのである。

> 侍町は其數限りある故。漸くにして建塞きけれとも。町屋は小路を割りけれとも。俄に住する人もなく。みな明地のみにして。爰彼まはらに家をぞ建てにける。侍方町方とも人々皆新造作の事なれば。二三年が間は唯土木の業のみにて。其道々の細工人城下に集り。毎日作業を爲すこと夥し。

: 侍町の場合、(士分の数はおおむね決まっていて、それに合わせて適切に)限られた数が屋敷割されているのだから、次第に宅地は埋まっていった。
:
: しかし町人町は、小路を割った(ので商工業に便利になった)とはいっても、すぐさま移住する人がたくさんいたわけでもないので、だいたい空き地のままで、ここ、次はあそこ……という風にまばらに家が建っていくという状況だった。
:
: 侍方も町方も、みんな新築だったので、町割して2~3年の間は、ひたすら土木業務ばかり。なので、その道の職人が城下に集まった。
:
: その道の職人たちときたら、毎日すごい作業量である。その道の職人は毎日おびただしくすごい作業量だったのである。

> 日置豊前一人か計らい。己が智謀を以て此の如く爲し出せり。かゝる大業にあぐむ事もなく。少こし失錯もなく成就せし智慮気量の廣き事人皆感し合へり。

: (この市区拡張計画は)日置忠俊がひとりで計画したのであった。この大仕事を持てあぐむこともなく、すこしの失敗もせず成功させた智慮器量の大きさに、一同みな感心したのだった。

※日置豊前……日置(豊前守)忠俊。池田家家老。

> 又此京町侍町共に。小路を割るに。本丸山上より見下ろせば。何れの小路々々も町陰なく。人通りの見ゆる様に割りけるとぞ聞ゑし。是れ亂世に於て敵城下へ寄せ。籠城に及ふ時見下さんが爲め也ける。又城の堀の前備中守殿仕置玉ひしは。其搆狭かりける故。此度三間つゝ廣められ。櫻の馬場と号す。豊前自らも是をば自慢しけるとかや。

: また、京町(町人町)と侍町で、小路を割った際の話。
:
: 山上の本丸から見下ろした際に、いずこの小路であろうとも、陰になってる場所はなく、人通りの見えるように(日置忠俊が)町割したと伝わっている。
:
: これは乱世において敵が城下へ押し寄せ籠城戦になったとき、城から敵を見下ろすための設計であるという話だ。
:
: また、城の堀の前は、前任者の池田長吉公の設計では狭すぎたので、約5.4mづつ拡張され、この場所は「桜の馬場」と名付けられた。 日置忠俊も自らこのグッジョブを自慢していたとかいないとか。

はい、ここが城下設計論でよく引用される部分です。

鳥取では、山頂の本丸から、小路に死角が生じないよう町割がなされたという話です。

それはそれで、たいへん結構なのですが、筆者はここで、先達によってあまり指摘されていない部分を強調したいと思います。

すなわち、ここまで断定口調で事実として書き連ねてきた『因幡民談記』の【鳥取城下普請之事】ですが、この「小路を人通りの見ゆる様に割りける」と「堀の前を三間つゝ廣め」の話は「~とぞ聞ゑし」「~とかや」と、伝聞であり事実かどうかは定かではないことをほのめかしているのです。

鳥取城の本丸が山上にあるからといって、真上から見るわけではないのですから「何れの小路々々も町陰なく」というのは難しいと思います。

町割から40年後くらいに登城していた作者の小泉友賢も実際に本丸から城下を眺め、
「いくら日置忠俊が優秀だったからって、それはさすがに、尾ひれを盛りすぎ」
と思ったのではないでしょうか?

> 芳賀内藏允。鈴木左馬。此兩人も惣奉行として豊前と共に下知を爲せり。角て端々にも家とも立ち続き。城下夥しきといふ程にもなく。新營の事なれは。(後略)

: 芳賀くらのすけ。鈴木左馬。この両名とも惣奉行として日置忠俊とともに、見事な指揮をした。
:
: かくして、拡張した城下に端から端まで、すごい数の家々が立ち続いたのである。端から端までおびただしくすごい数の家々が立ち続いたのである……ナーンチャッテ、それほどじゃなかった。だって出来立てのニュータウンだもん……

ちょっとユーモア交えてきた小泉友賢さんwwww

ていうか「夥し(おびただし)」の出現数が、おびただしい!

引用はここまでです。長いあいだのお付き合いありがとうございました。

後略した部分では、そののち鳥取が順調に繁昌の地になっていった様子が記されています。

引用が長くなったので、要点をまとめて終わりとしましょう。

* 6万石の時代にも三本の筋(タテの道)を作り、町小路(ヨコの道)を割り、小規模な方格設計を実現している
* 町人町エリアを侍屋敷エリアに変更する際、町小路を破却している
* 鳥取藩に置いて町人町の町割は藩の仕事で、知能に優れた人間が地形による問題を低減させるために知恵を絞っている
* 旧河川だった部分は交通の邪魔であり、これが交通の妨げにならないような工夫に官民一体となって取り組んでいる
* 鳥取において新興町人町は、町割直後に立った民家はまばらだった。遠見遮断はなかったと考えられる
* 鳥取において新興町人町に住むか住まないかは民間人の任意であり、藩の思惑通りになる保証はなかった
* 防衛のために城下の見通しがよくなるように設計されたという説は伝聞である。確証は見つからなかったと考えられる

やはり注目すべきは、城下の見透・見通しに関する逸話が証拠のない伝聞である点でしょう。

『因幡民談記』の成立は、1688。江戸軍学第一世代の興隆が1630~1660くらいとすれば、1688年とは江戸軍学の知識が弟子から孫弟子へと拡散しだした頃ではないでしょうか。

もちろん、『只野利右衛門勤功井先祖由来書上写』(仙台城下町割)と『梅津政景日記』(久保田城下町割)で見通しが立つことを優先させたという記録は信頼できる一級史料であり、近い時期に町割された鳥取城下も同じノウハウが用いられたことは不自然ではありません。

が、江戸軍学がひととおり普及した1660年以降。ある逸話が江戸軍学を中途半端に学んだ人々の「想像」である可能性を考慮しなくてはならない時代に突入していたのです。

『因幡民談記』を記した小泉友賢は、この問題について一流の歴史家らしくふるまいました。すなわち、確証の得られなかった噂話は、きちんと伝聞であることを示したのです。

### 4.2.17. 戦国時代~江戸時代前期のまとめ

さて、江戸時代前期(1600年~1689年)まで見終わりました。ここまでにおける文献の、遠見遮断や街路屈曲に関係してそうなところをまとめると、次のようになります。

* 城地にしとみやかざしなど敵の見透を防ぐ何らかの対策は必要
    * 城郭の背後に大きな湖沼や海があって馬で近づけない場所なら見透阻止が無くても可
* 城を構える本拠地は繁昌の地でなくてはならない
* 仙台と秋田では城下に見通しが立つよう設計された
* 鳥取でも城下に見通しが立つよう設計されたという逸話は見られるが伝承であり断定はできない
* 1630年から1660年にかけて江戸軍学がブームになり、築城において見透の阻止や見通しの設置に要・不要があるという教義が広く世間に知られることになった
    * 初期の江戸軍学が見透について論じたのは城地(主郭)について
    * 江戸軍学における城下の見通しについての指南は、わずかに山鹿流に見られる程度。それも見切を主郭から遠くに置いて四方に威容を示せという程度のもの
* 都市戦は兵士を屋根の上に上げるべし、という指南が存在(楠木流)

そして、街路を屈曲させて敵の見透や突進を防ぐべき、という概念は、江戸時代前期までには見つかりませんでした。

都市戦とは放火されるものでした。江戸初期までに成立したメジャーな江戸軍学(甲州流・北条流・越後流・山鹿流・長沼流)のすべてで、そう、教えていました。城下の敵に焼かれる前に自焼させておくというのが当時の兵法書のスタンダード・プランだったのです。

都市戦における城下が攻めるにおいて放火し、守るにおいて自焼するものならば、そして、焼かれていない家屋の上に簡単に登ることができるなら、街路を屈曲させて防衛という戦術は、さして役に立たなかったことでしょう。

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※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。

https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/416834

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