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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(2)蒲生氏郷は町割下手ではなかった

## 4.3. 汚名返上!蒲生氏郷は町割下手ではなかった


### 4.3.1. 蒲生氏郷は町割下手だった?


さて。江戸時代中期に行く前に、宿題をひとつ片づけたいと思います。蒲生氏郷です。

天才武将にも弱点があった。それは町割が下手ということ――そんな巷説がすっかり定着してしまった蒲生氏郷の町割を検証します。

彼は、本当に町割が下手だったのでしょうか。

いま、ネットに広く流布している氏郷伝説は、こうです。


592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/05(木) 18:52:03 ID:GjQEsFYc氏郷さんの町作り♪
蒲生再生工場の名を戴くなど、人作りに関しては高く評価される蒲生氏郷。が、
この人、町作りが大変に下手だった。
1588年、氏郷は伊勢松坂に転封、城下町を作るが、これが大変に評判が悪い。
「伊勢の松坂毎着てみても、ひだの取様でまちわるし」
当時このように揶揄されたとか。
「ひだ」は、着物の襞と、氏郷の官名「飛騨守」をかけたもの。
氏郷の町割の悪さのせいで、松阪はひどい町になった、と皮肉った歌である。
さて、その2年後、1590年には今度は会津に転封される。
そしてここに会津若松の町を建設するが
「黒かはを袴にたちてきてみれば まちのつまるは ひだの狭さに」
当然のように評判が悪く、またもこんな落書が出回った。
とにかく初期の会津若松というのは、町としての機能がどうにもならないほど混乱していたようだ。
この頃になると流石に氏郷も、都市計画における自分の才能の無さに気がつき、旧武田家臣、曽根昌世らに命じ、甲州流縄張術をもって町割をやり直し、やっと整然とした町となり、都市としての機能が回復した。
何事も完璧だと言われた氏郷にも、こんな欠点があった、というお話。

引用元:氏郷さんの町作り♪・悪い話 – 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1535.html

上手にまとめられていますが、巷説は巷説。これがどの程度、信じていい話なのか調べてみなくてはなりません。

### 4.2.2. 会津落書逸話に松阪は出てこない

まずは基本に忠実に一次史料を当たりましょう。さいわい、手元にある本に「黒かはを~」の狂歌の出典は『氏郷記』だと書いてありました。

そりゃそうよ、っていうタイトルの本ですね。なお、群書類従には『蒲生氏郷記』という本が収録されていますが、タイトルが似ている別の本です。注意してください。

  日本歴史文庫. 〔11〕 氏郷記 巻下 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450

『氏郷記』の著者や正確な成立年は不明です。

一説には、著者は蒲生家の家臣とおぼしき感翁子で、成立は寛永年間(1624年~1645年)と言われています。

内容は氏郷の死没までを記した軍記です。上中下三冊のうち下巻が会津拝領以降の話ですね。


さあ、どうでしょう?あなたは中身を確認しましたか?


そう!そんな落首でからかわれた話、どこにも載っておりません!!


あわわわわ、そんな馬鹿な……


いやいや、私の勘違いかしら?と、群書類従に収められているまぎらわしい『蒲生氏郷記』も確認しましたが、やっぱりそんな逸話は見つかりません。 考えられる3パターン

* 『氏郷記』に異本がいくつかあり、国会図書館デジタル化資料は会津町割の話が入ってないバージョン
* (筆者が参考にした資料の)著者が勘違いした。ソースは実は別の文献
* 逸話のソースは『氏郷記』という所から、すでに誰かの捏造
* 筆者の見落とし

ネットの匿名情報なら3.を真っ先に疑いますが、この場合、その可能性を疑うのは最後です。

調べたところ異本は多いようなので1.の可能性は捨てきれません。しかし、もっとも可能性が高いのは2.であろうと、あきらめずに探していくうちに、なんとか本当の一次史料を見つけることができました。その名も『会津四家合考』。

  国史叢書. 会津四家合考. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948840/182

『会津四家合考』は会津藩家臣の向井吉重が記した歴史書で、蘆名・蒲生・上杉・伊達 の四家による会津支配の変遷を記しています。

成立年は1662年。内容も『氏郷記』と被る部分が多く、信頼できる一級史料です

では、さっそく例の逸話を読んでみましょう。


黒川を若松と號する事附落書の事
(前略)十月一三日に、會津へ帰られければ、両年が間、正しくも一日、心の安き間もなかりけるが、今歳は四海静謐にして、一人も横行する凶徒もなければ、扨《さて》は無為の化に乗じて、市街を改め、四民を安居せさせんと、内々思はれけるに、折節何者の業にか、一首の狂歌を、落書にぞしたりける。
黒かはを袴にたちて着てみれば
町のつまるはひだの狭さに
氏郷、此歌の様を聞召して、実に飛騨守が名にし負いたる理かな。扨は弥黒川中の小路々々を、改め分くべしとて、先ず郭内の第一街は、東西三里南北二里餘に、十字の街を通じ、此より條々に小路々々を分けて、其外、四方に塁を高くし、堀を深く堀廻して、便宜に従って城戸を建て、警固の武士を置きて、常に非常を戒め、商売諸工は一同に、棟を連ね戸を並べて街々を別ち、或いは宿を連ねて遊女を置き(後略)

「(前略)氏郷公は十月一三日に会津に戻られた。
この二年間、心の休まる暇は一日もなかった。
しかし、今年の年末は一人のテロリストも現れていない。氏郷公は、このチャンスに市街を区画整理しなおして、士農工商みんなを安心させたいものだと内心、考えていた。
その、まさに
『いまやろうとしてたのに!』
というときに、何者かが次のような狂歌を落書きしたのだった。

  黒かわを袴にたちて来てみれば
  町のつまるはひだの狭さに

氏郷公は、この歌を聞いて
『実にまったく、飛騨守という名に負わねばならぬ理《ことわり》であることよ。さては全黒川中の小路地にいたるまで町割を改めなくてはな』
と言って、まず郭内の第一町は東西8km南北5kmほどにし、幹線を十字に通し、幹線から小路地を伸ばして街区を分けた。

そのほか、四方の土塁を高くし堀は深く掘りまわし、適切な場所に城門を作り、警固の武士を置き、非常事態が起きないようにし、商人や職人は家々が列になるよう集めて町を分かち、あるいは宿を並べて遊女を置き(後略)」

……という感じですね。ああ、わかりやすい文章で助かる。


それでは、要点を順番に整理しましょう。

#### 内容はおおむね事実と考えられる
著者は歴史家で会津藩士。父祖は蒲生時代からの家臣。 書かれたのもたった半世紀後。内容は父祖や古老から聞いた伝聞でしょうが、その古老とは氏郷と同世代でそばにいた人々にちがいありません。創作の入り込む余地は少なかったと思われます。

#### 伊勢松坂の話はどこにも出てこない
伊勢松坂で町割をからかわれた話は『会津四家合考』のどこにも出てきません。

後述しますが、伊勢松坂での古謡は18世紀の文献までしかたどれませんでした。したがって、この会津町割の話は、伊勢松坂での揶揄《やゆ》を踏まえた話ではありません。

それは後世の誰かによる合成だったのです。

#### 氏郷は会津転封から二年間、町割が出来なかった
奥州仕置の戦後処理で九戸氏と戦ったりなんやかんやで氏郷は出ずっぱりでした。会津でゆっくり町割なんか、やってる暇がなかったのです。まさに「心の休まる日は一日もなかった」の通りで、史実と合致します。

#### 会津の町割を改めたのは蘆名時代のままだったから
つまり、会津転封から二年間、蘆名時代の城下町の町割のままだったことになります。伊達政宗が会津を支配していた1年のあいだに町割を変えた可能性もゼロではないでしょう。

東北では最大級の都市だったはずですが、それでも畿内からの数万規模の軍団が城の周りに集住できるインフラは整ってなかったのでしょう。蘆名氏の時代の東北では、家臣が城下に集住というシステムが、畿内ほどには徹底されていなかったでしょうから。

なので、転封から二年後の時点で会津の町割を直す必要があったのは、氏郷のやった町割が下手だったからではありません。

会津転封から二年間、氏郷はなにもしていなかったから、です。

#### 旧武田家臣、曽根昌世は出てこない
彼はこの逸話には出てきていません。

『氏郷記』『会津四家合考』ともに、武田家家臣で浪人していた曽根内匠助(曽根昌世)と真田隠岐守(真田信尹)を召し抱えたとあります。「九戸謀反の事」のくだりです。

が、氏郷が曽根昌世らに命じたのは「信玄流の押太鼓」の指南であり築城ではないのです。

曽根昌世に町割や縄張をさせたという記述は『日本歴史文庫.〔11〕 氏郷記 巻下』、『国史叢書. 会津四家合考一 巻六 氏鄕、九戸城を攻めらるヽ事~氏鄕逝去幷秀行家督相續の事』『国史叢書. 会津四家合考二 南部根元記 巻下』の範囲には見つけられませんでした。
自分の見落としでないことを祈るぜ、と内心ビクビクしながら断言します。


また、人口密集地域の畿内をよく知る家臣が、山間部である信州・甲州の武士に都市計画の能力で遅れをとるとは思えません。

曽根昌世がやったのが城の縄張というならともかく、町割であったと考えるのは、筆者には難しく思えました。

#### 氏郷は落首を聞いて町割下手を認めたわけじゃない
まだ、一度も会津の町割をしていないので、下手を認める理由がありません。

落首を聞いて
「実に飛騨守が名にし負いたる理かな」
と思ったから、やろうと思っていた町割を命じたわけです。

では、「名にし負いたる理」とは、どういう意味なのでしょうか?


飛騨守である限り、地名の飛騨と着物のヒダのダジャレでからかわれるのは、名に負わねばならぬ有名税という愚痴でしょうか?

まさか。そんなぼやきを言ってる文脈じゃないですよ、ここ。

このシーンはニヤリと笑って決めゼリフっぽいこと言ってる、そんな雰囲気じゃないですか(一方的な思い込み)。


これは、あれなんですよ。飛騨といったら、飛騨の匠。

それを踏まえて
「なるほど、飛騨の名を背負うからには、匠の町割でなければ文句が出るのは当然の理だ」
と言ってるわけです。

ダジャレ落首でからかわれたのを、すかさずダジャレで返す。

余裕あんじゃん、さすが天才・氏郷さん!かっこええーってなるじゃないですか。


しかし残念、飛騨守を飛騨の匠にかけるダジャレは、氏郷のオリジナルではありませんでした。

会津へ転封になる前年の1589年(天正十七年)のことです。

秀吉は奈良の大仏に匹敵する大仏殿を京都に作ろうと計画しました。 そこで、そのお寺(方広寺)の石垣に使う巨石の運搬を氏郷らに命じたのです。

はりきって巨石を山から切りだし道路まで運んだ氏郷でしたが、これを見て秀吉は氏郷に注意しました。
「巨石すぎて運ぶ人夫も大変でかんわ、この石は運ばんでもええでよ」

そこで、この巨石は残念石として放置されたのですが、これを見た京童が落首でからかったのです。

  大石を道の蒲生に引き捨て
  飛騨の匠も成らぬものかな

道の蒲生とは、蒲《がま》の生えるような場所、つまり道端の意味でしょう。

飛騨はもちろん飛騨守にかけてて、散らかしっぱなしじゃ飛騨の匠もあったもんじゃないなゲラゲラ……と笑っているんですね。


これを受けて氏郷は
「くやしい!ならば運んじゃう!引くん引くん」
と巨石を京都まで運んだと記されてます。

なお、落首への返礼として、京都に入ってから方広寺までの経路上の京童たちの家々は踏み破られた模様。

この逸話の一次ソースは安心の『氏郷記』です。

  日本歴史文庫. 〔11〕- 氏郷記 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771450/73

ここで、飛騨守(蒲生氏郷)と飛騨の匠をかけるのを学習済みだったので、ふたたび狂歌でからかわれても、
「飛騨守が名にし負いたる理かな」
と、やんわり応じることができたのでしょう。

かつては怒って意地になって京童に仕返ししたものの、経費その他、代償は高くついたのではないでしょうか。

大名が狂歌にいちいち怒っていたら身が持ちません。


ていうか、内々に黒川(会津若松)の町割をやり直そうと思ってたくらいです。「黒かわを」の落首事件は、町割を改める口実が欲しい氏郷による自作自演の可能性が……(ぼそ)


『会津四家合考』には、そのあとこまごまと氏郷の町割の内容が書いてありますが、これはやや疑われます。

というのも、この落首事件が転封から二年後の1591年末~1592年始のことだとすると、その1592年に文禄の役で氏郷は会津を離れ、体調を崩し、1593年に急死してしまうからです。

氏郷は町割を陣頭指揮することができなかった可能性が高いのです。


おそらくは国家老に
「町割を直しといてね。碁盤の目街路にして、交通の便を良くしてね」
程度の指示を出したに過ぎず、その結果もろくに見ず亡くなったと思われます。


### 4.3.3. 松坂古謡は氏郷治世時の歌ではない


さあ!『会津四家合考』に書かれた逸話では会津転封後の二年間、氏郷は町割をしてなかったし、松阪のことを踏まえた話でもありませんでした。一気に氏郷町割ヘタ説が疑わしくなってきましたね!

ここでは、その松坂(※当時の表記に合わせて以降は松阪ではなく松坂と記します)で、からかわれた俗謡について、検証してみます。

その出典は『松坂権輿雑集』だそうです。どんな本?いつの本?

  校本松坂権輿雑集. 地 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240836/4

『校本松坂権輿雑集.天』の解題によれば、著者は久世兼由で刊行年は宝暦二年(1752年)。

ジャンルは地誌です。ええ~?『会津四家合考』(1662年)から90年も後なのかい、カツオくん。

で、久世兼由がどういう人かというと、松坂で同心を務めていた人とのこと。 同心というと、足軽と同じく士分ではありません。

うーん……あ、いや、頭脳と血筋に関係はないと思いますけどね、ただ、上級武士の子孫にツテがある人ではなさそうだと思いまして。


いや、そもそもの話ですよ。俗謡ひとつふたつで蒲生氏郷は町割下手だったと断言するのがどうなの?って話じゃないですか。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギスという戯れ歌があるから、信長は短気だったとかブラック上司であるとか動物愛護精神に欠けるとか主張する論があったら、お前はアホか!って言われて終了でしょう?


それがなんで土木史になったら、いつの時代に作られたかも誰が作ったかもわからない、しかも収録された文献は事後160年くらいあとっていうレベルの俗謡が根拠としてまかり通ってしまうのか。悲しい。どこ?実証主義はどこへ消えたの?


……と、私はじゅうぶんに愚痴ったので満足しました。さあ、『松坂権輿雑集』で、どのように書かれているか見ていきましょう。


肘折橋之事
(前略)此橋肘折の取初メなれバかく名に顯せり、古俗の踊歌、袴に寄
  伊勢の松坂毎着て見ても
  衤取の取様で襠悪し
着ては来る也、衤取は飛騨也、襠は町也、松坂町割の時道路を歪斜に附て二丁先をかくす兵伏の備成よしニ語傳ふ、

なお、「ひだ」は「衤取」と書きました。衣偏に「取」という漢字で、UnicodeでいうとU+276A5です。

  Unihan data for U+276A5
  http://www.unicode.org/cgi-bin/GetUnihanData.pl?codepoint=276a5

環境によっては表示が難しい漢字なので、以降はかなで書きます。

ともかく、内容はアッサリしたもんです。

肘折橋《ひじりばし》の由来について、いわゆる松坂の肘折という、ひだ(プリーツ)みたいな形の通りの起点だから、その名が橋についたのだと。


「むかし流行った踊り歌に、肘折を袴のひだに見立て「伊勢の松坂毎着てみても ひだの取様で襠悪し」というのがある。着ては来てであり、ひだは飛騨守のこと、襠は町のこと。(蒲生氏郷は)松坂を町割した時、道路にひずみをつけた。これは二丁先を見えなくして伏兵を配備するためである。肘折の語はそのことを伝えている」
と、淡々と述べています。ではまた、ポイントを整理しましょう。

#### 氏郷が松坂を治世してた時の歌だとは言ってない
そうなのです。古俗の踊り歌とあるだけなのです。

刊行年である 1752年から見たら、氏郷の死後百年以上が過ぎた1700年に流行った踊り歌であっても「古俗の踊り歌」でしょう。


いや、「古俗の踊歌」という言葉が「懐メロ」程度の意味なら久世兼由にとって十年前の流行歌だったかもしれないのです。

七七七五の都々逸形式である点も、これが氏郷が治世していた当時に生まれたものではなく、江戸時代中期の作品を疑うに足る要素です。

この歌をもってして、蒲生氏郷が当時、町割下手を揶揄されたとすることはできません。

#### 街路屈曲での防衛術が周知の事実扱いになっている
江戸時代前期までの軍学書では、兵を隠すため街路を屈曲させよという指南は見当たりませんでした。

ところが、1752年の久世兼由は、まるで 「賢明なる読者諸君はご存知の通り」
みたいなノリで、くどくど説明せず
「兵を隠すために道を曲げたのだと伝わっている」
と述べています。

どうやら、街路屈曲による防衛術説は、江戸時代中期に生まれ、急激に広まったようです。

#### 『伊勢の松坂~』は『黒かはを~』より後に生まれた
つまりはそういうことです。4.3.1.で示した、氏郷町割ヘタ巷説では時系列順に松坂→会津に編集されていますが、それぞれの歌を収録しているソースの執筆順は『会津四家合考』→『松坂権輿雑集』です。

そして「伊勢の松坂~」がいつの俗謡かは不明ながら、「黒かはを~」の方は1592年に実際にあった史実である可能性がきわめて高い。


とすると、「黒かはを~」のひだと飛騨守、着物のマチと町をかけるネタをパクって本歌取りして「伊勢の松坂~」が詠まれたと考えるのが自然です。


その可能性を裏付ける証左もひとつあります。『会津四家合考二 南部根元記』には、九戸の反乱が解決した後の逸話として、こういうくだりがあるのです。

  会津四家合考. 2 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/985957/216


斯くて氏郷、南部領をば打過ぎ給ひ、膽澤郡に着き給ふ。白鳥村・木賊・長根・瀬原の宿を打過ぎて、来藻川に着き給ふ。糠部より召連れける千人夫の中に、婀娜げなる男、此川に鮭の上るを見て、
  昨日たち今日きて見れば衣川
  裾の綻さけ上るかな
と詠じけるを、氏郷聞伝へられ、甚だ之を感じ給ひ、則ち人夫を赦して、返し給ひけり。

「九戸の乱を平定した氏郷は帰路の途中、来藻川(衣川)に到着した。ところで糠部から連れてきた千人の奴隷の中に色っぽい男がいた。

かの男、この川(衣川)を鮭が遡ってるのをみて、おもわず歌が出ちゃったい。

  昨日たち今日きて見れば衣川
  裾《すそ》の綻《ほころび》さけ上るかな

これを氏郷は伝え聞き、やだステキ!イカス!グッときちゃったわ……と、この奴隷をゆるして故郷に返してあげた」


てな話。

「発ち」と「裁ち」、「来て」と「着て」、「裂け」と「鮭」をかけて、一日で着物が避けるほどの重労働もしくは長距離移動を嘆いた歌ですかね。

この逸話は『氏郷記』にもあるため、江戸時代中期には広く人口に膾炙していたと考えられます。

九戸の乱平定後に会津の町割なので、「昨日たち~」の歌と「黒かはを~」の歌は、セットになってるも同然です。

この歌の「今日来て見れば」が松坂古謡の「毎着て見ても」と類似しているのは言うまでもありません。

「来て」と「着て」の掛詞は古来より珍しくありません。しかし、 「ひだ」と「飛騨」、「まち(襠)」と「町」、「来て見て」と「着て見れ」の3ヒットコンボは偶然ではすませられません。


このとき松坂古謡が存在していたとしても、糠部から連れて来られた奴隷が伊勢松坂で流行った踊り歌を知っていたと考えるのは無理があります。「昨日たち~」「黒かわを~」「大石を道の蒲生に~」の歌を『氏郷記』や『南部根元記』で読んだ江戸時代中期の誰かが、それをヒントに「伊勢松坂毎着て見ても~」の戯れ歌を作った――これが妥当な解釈です。


したがってこの俗謡は、蒲生氏郷が松坂を治世していた時代に町割ヘタをからかわれた証拠として、採用できません。

氏郷は自分に町割下手というレッテルが貼られてるなど、露ほどにも思ってなかったでしょう。


4.3.4. 松坂が町悪しになったのは伊勢参り流行後

しかし、気になる点があります。『松坂権輿雑集』では肘折橋の由来として、この古謡を紹介していました。

つまり松坂には肘折と呼ばれるヒダのように折れ曲がった通りが存在するわけです。

第3章の地図調査における正保城絵図の松坂を覚えてますでしょうか。 あの絵図では、決して強い方格設計とは言えないものの、クランクが他の城下町とくらべて極端に多いとまでは言えないものでした。

松坂の十字路の割合は城下町の平均を上回るほどだったのです。

図 4.2.1: 正保年間(1645~1648)の松坂城下

あのとき
「その町割は正保絵図の書かれた1645年~1648年において、決して道が悪いものではありません」
と、その後の変化を匂わせる書き方をしたのに気づいてもらえたでしょうか。

では、いよいよ江戸中期の松坂の道の様子を見てみましょう。

図 4.2.2: 宝暦2年(1752)の松坂城下

  引用元:校本松坂権輿雑集. 松坂圖 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240837/7

うはは。これはひどい(笑)。100年のあいだに何があったんだ?(図 4.2.1 , 図 4.2.2)

この変化を見るだけでも
「伊勢の松坂毎着て見ても~」
の歌は、蒲生氏郷治世時に歌われたものではなさそうです。江戸中期に松坂の街路がヒダヒダに変化したあと生まれた俗謡と思われます。


正保城絵図調査のときは触れませんでしたが、実は松坂の道の悪さについては、本居宣長も随筆集『玉かつま』の巻十四で「此里町すぢゆがみ正しからず 家なみわろく一つごとに一尺二尺つつ出入てひとしからず いとしどけなし」と評しています。

しどけなし(だらしない)とは手厳しい。

面白いことに、『玉かつま』は1795年から1812年にかけて書かれ、『松坂権輿雑集』よりも後になるわけですが、松坂の道が悪い理由について軍防的な理由だとは述べていません。

当時の一流の文献学者である本居宣長は、久世兼由が主張した兵伏のためという説を無視しているのです。

正保城絵図でも小さなクランクはちゃんと書かれていますから、正保城絵図の作画者が描くのを面倒くさがったわけではないでしょう。

そもそも、幕府が保安上の理由で作成・提出させたのが正保城絵図ですから、ちゃんとしたものを出さないと藩がお取り潰しになりかねません。そこで手抜きをしたはずはないのです。


となると、太平の世の江戸中期に、なぜか松坂の道は屈曲してしまったことになります。防衛のためでしょうか?

新たな築城が禁止されているから、街路を曲げることで防衛力を高めたのでしょうか?


しかし、松坂城は古田氏の石見転封後、大名の居城ではありませんでした。南伊勢は紀州藩の藩領となり、松坂は陣屋が置かれた程度で、防衛する必要があるような拠点ではなかったのです。


そのうえ、視線も射線もそれほど遮断できていない場所がチラホラあるののですよ。

図 4.2.3: 完全な遮断になっていない「隅違い」

これではたいした遠見遮断になりません。かなり見えてる。ちゃんと遮断できてない。役立たない。

はたして松阪のヒダヒダ街路は兵伏のためだったのでしょうか?これについて、松本勝邦・古川和典両氏による次のような論文がありました。

  「松阪市、参宮街道沿いの町並構成と境界構造」
  松本 勝邦 , 古川 和典
  明治大学科学技術研究所紀要 39(13), 115-127, 2000

いとしどけなし」と表された、本町から中町へかけての「隅違い」に関しては、軍事目的だけでは理解しにくい要素がみられる。第一に「隅違い」を構成しているのは、店蔵と店舗の建物外壁線であるが、本町から中町への街路横断線に対する外壁線の振れ角度を実測図から求めると、南側は道に対して10〜11度、北側6〜7度となる。これは、大手筋に対して、攻撃に好都合、防禦に不利となる出入りの具合なのである。第二に、伊勢商人発祥の地とされる、櫛田川沿いの射和集落の中程に位置する国分家でも、軍事的必要性が極めて少ないにも拘わらず、街道沿いに黒板張り の築地塀を同様な隅違いに連続させている。
以上から、松阪に於ける「隅違いは、軍防的目的と言うよりも「本町伊豆倉・小野田・何イ合わせ八棟造」とある豪奢な商家群と、「中町本陣の近辺…甚見込よろし」と記された本陣・旅籠の相異なる景観を持つ家並を、個々の建物を連続させながら建物側面線を強調させ、動線を屈折し、あるいは空間を細分化して絶えず視線を遮断させ、進むにつれて新しい景観を展開させる様にアクティヴに連続させ結合させるという意匠的効果を強く意識したものと考えられるのである。具体的には、八棟造りに示される大店の独自性、「おかげまいり」の施行の大部分を受けもつ富裕な商家のファサードの効果的演出として理解され得る。

乱暴にまとめると
「おかげまいりで儲かった富豪商家たちが、自分たちの美意識の発露とコマーシャル効果狙いで店舗の建物を見せびらかす街づくりをした結果、松阪は街路に隅違いが増えた」
ということになりましょうか。いやはや、1ミリも異論を挟む余地がありません。


一流の文献学者で地元出身の本居宣長が兵伏のためという説を無視している所からも、松坂の肘折は軍事目的ではないということは明らかです。


4.3.5. 近江日野は弧状に曲がっていない

さて、蒲生氏郷町割3点セットに入れられがちな近江日野についても調べてみましょう。ここも

町の非常に長き場合は、一直線の長き街を避け曲折して遠見を遮断せり。近江日野に於いては弦線状に迂回せるを見るべし

  引用元:土木学会 編『明治以前日本土木史』(1936)

と、遠見遮断の目的で道が曲げられた城下町だというのが太平洋戦争前から定説とされています。

この言説の初出がいつか調べてみました。

日野の町画は弦線状に迂廻して遠見を遮らしめしが松坂の町区は所々直角的に屈曲して遠見を自由ならしめる設計なり何れも軍備上築城者苦心の存する所なり、されど(中略)飛騨守の町割悪しと寓意せりと。

  引用元:近江蒲生郡志. 巻3 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965732/80

なんと、あまり初出をさかのぼることはできませんでした。『近江蒲生郡志』の刊行は1922年です。『明治以前日本土木史』(1936)の著者たちにとって、最新の論説だったことでしょう。


『松坂権輿雑集』は、近江日野の街路が弧状であるとは述べていませんでしたから、ひとまず「近江日野の街路が弧状になっているのは、防衛上の遠見遮断のためである」という説は1922年の『近江蒲生郡志』に始まるとしておきます。


さてまず、蒲生氏郷が町割ヘタかどうかを調べるためには、前提となることを確認しなくてはなりません。

#### 近江日野城下の町割は基本的に蒲生定秀による
確認すべき前提とは「蒲生氏郷は近江日野の町割を行ったのか?」です。

というのも、近江日野城(中野城)を居城として、近江日野城下の基本的な町割を行ったのは、氏郷の祖父である蒲生定秀なのですから。


蒲生定秀は、近江日野城(中野城)の築城とともに、商人や鍛冶・塗師など職人を城下に集めました。

孫である氏郷も同様に商人を京や堺から招いていますが、これは父祖の代からの政策を引き続き行ったにすぎません。

そして定秀は1579年まで存命していました。その子・賢秀(氏郷の父)が氏郷に家督を譲ったのが1582年で、亡くなったのが1584年。


つまり蒲生氏郷が日野城主として手腕を振るったのは松坂に転封されるまでの1582年~1588年の6年間です。親の生きてるうちは好き勝手できなかったと考えると、存分に手腕をふるえたのは4年間にすぎません。

はたして、氏郷は4年のあいだに町割を大幅に変えるような区画整理ができたのか。そんなことがあったのか。


『蒲生旧址考』には天文三年(1534年)の町割なる図が載っています(図 4.2.4)。

図 4.2.4: 近江日野 天文三年町割

  引用元:近江蒲生郡志. 巻3 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965732/51

この図を見ると天文三年から現在まで、近江日野の町割の大幅な変更はなかったように見えます。

しかし、小野晃嗣氏は『近世城下町の研究』(1928年)で、この図は吟味を要すると批判しました。


すなわち鉄砲伝来は天文十二年であるから、この時点で鉄砲町があるのはおかしい。そこはまあ、後世に差し替えられたのだと譲歩してもいいが、百年後の巨大城下町・延宝五年の広島でさえ66町なのに、たかだか蒲生郡を支配していたにすぎない蒲生定秀の城下が1534年時点で79町に及ぶはずがないと。


鉄砲伝来は複数ルートあったと考えるのが現代の定説ですが、それを差し引いても、この天文三年町割図が疑わしいのは小野氏の指摘の通りです。


しかし、この図が怪しくとも、日野町が天文三年に79町ではなかったとしても、基本的な町割が蒲生定秀によるものである点は揺らぎません。


近江日野城の築城が始まった1533年です。蒲生氏郷に家督が譲られる1582年までの51年間、城下の基本的な町割がなされなかったわけが、ないのです。1570年の小倉の乱に蒲生が勝利したときの小唄に、次のようなものがあります。

日野の蒲生殿百廿八里
小倉与力は伊勢斗り

  引用元:西生懐忠『蒲生旧址考』


乱に勝利した蒲生氏の支配は百二十八村におよび、逆に小倉氏は伊勢ばかりになってしまったという小唄。百二十八村といえば、郡で言えばふたつほど。

山陽・山陰の全土を支配した毛利氏には及びませんが、強豪ひしめく近江国で128村を支配というのは、なかなかのものです。

だとすれば、近江日野の城下はその繁栄の維持に必要な町割が当然に整備されていたはずです。その町割を行ったのは、時期的に定秀か賢秀でしかありえず、氏郷ではありません。


小野晃嗣氏は、氏郷が近江日野城下へ出した12条の掟(1582年)を根拠に、城下の大拡張が行われ、遠見遮断のため道路が弧状になったのではないかと推測しています。しかし、これは証拠不十分というべきでしょう。

このとき出された掟は基本的に織田政権の意向に沿うもので、織田政権下の、ほかの都市で出されたものと大きく変わりません。

内容は座の解体と楽市楽座の宣言です。氏郷が町割をやりなおす根拠としては弱いでしょう。


近江日野は蒲生定秀の時代から、京や堺の商人や職人をスカウトして定住させていました。スカウトされるような、それなりに実力も財力もある人々だったと思われます。

頭を下げて招いた人々がすでに定住してるのに、家督を継いだばかりのボンボン氏郷が、
「町割やりなおすわ。いま住んでる家は壊すよ。引っ越し費用?ちょっとは負担してもいいよ。じゃ、ヨロシク!」
なんて、言えるでしょうか。

よっぽど、定秀・賢秀時代の町割がクソでない限り、そんな無茶はできません。家臣がやらせません。


さらに言えば、この12条の掟は都市の商業的発展を目指したものであるのに、それを根拠にして、(商業的には不便になる)防衛のための遠見遮断を設けたと考えるのは理屈にあいません。


ここまで文献を見てきた通り、遠見遮断のために(城地ではなく)城下の道を屈曲するという発想自体が、氏郷の時代には存在していませんでした。


以上を踏まえると、蒲生氏郷が近江日野の町割について、大ナタをふるったと考えることはできません。あったとしても、城下の領域を多少、延伸させた程度で、基本的な都市設計を変えることはなかったでしょう。


これにて蒲生氏郷の町割下手疑惑はヌレギヌだと立証されました。パチパチパチ。

* 近江日野 ← 町割したのは祖父・定秀。氏郷は無関係
* 伊勢松坂 ← 道の隅違いが増えたのは江戸中期以降。氏郷は無関係
* 会津若松 ← 転封から二年間、忙しくて町割できず。町の詰まるは氏郷転封前の町割りのままだったから。氏郷は無関係

やっぱり氏郷さんは完全無欠の天才武将だったんだ!よかったよかった。

#### 近江日野城下に弧状街路が見当たらない 
ヌレギヌは晴れましたが、せっかくなので近江日野がなぜ弧状の街路になったか考えましょう。地図を見てみます(図 4.2.5)。当時の城下町の範囲は図 4.2.4 近江日野 天文三年町割および図 4.2.7『近江日野三町絵図』(1827年)からの推定によります。

図 4.2.5: 日野城城下町の範囲(1)

  地図引用元:地理院地図

ん……?あれ……?街路が弧状になってない……なってないように……見えるんだけど……

国道は馬見岡綿向神社の所で弧状に曲がっています。仮に弧状説が指しているのがこの地点だとしたら、カーブの理由は
「そこに鎮守の杜があって、宗教上の理由で移動させるわけにはいかなかった」
でしょう。このあたりが会津若松の「若松」という名前の由来と言われています。

あるいは、馬見岡という名前が示す通り、今でこそ微高地にすぎなくても、16世紀には立派な残丘だったのかもしれません。

いずれにせよ、綿向神社のあたりは、疑わしいとされた天文三年町割の図においてさえ、城下の外になります。

図 4.2.6: 日野城城下町の範囲(2)

  引用元:地理院地図

もっと広域で見たらどうでしょうか(図 4.2.6)。国道は日野駅から上野田のあたりで大きくカーブしています。

しかし、『近江蒲生郡志』(1922)の執筆者は地元民です。城下の範囲を間違えるとは、まず考えられません。

郊外である馬見丘綿向神社のあたりや、上野田あるいは内池あたりの街路を「城下町」に含めるはずがないのです。

いやいや。明治以降の近代化で街路が大幅に変わったのかもしれない。現代の地図で見たってしょうがない。もっともだァ、もっともだァ。

さいわい、『近江蒲生郡志』には江戸時代末期の日野町の地図が収録されています(図 4.2.7)。よいしょ!

図 4.2.7: 『近江日野三町絵図』(1827年)

  画像引用元:近江蒲生郡志. 巻3 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965732/51

なんということでしょう。街路はあまりカーブしておりません。直線というわけでもありませんが、この程度のゆがみ・ひづみなら、多くの城下で見られるレベルです。弧状街路の代表例にふさわしいようなものではありません。

この範囲が往時の城下だとして、先の地図に当てはめると、こうなります(図 4.2.8)。

図 4.2.8: 日野城城下町の範囲(3)

ありゃまあ。敵は日野城を攻めるために、わざわざ城下町を通過せずともよさそうです。迂回の余地はいくらでもあります。


しかもしかもですよ。町割した頃の蒲生氏の仮想敵が伊勢の小倉氏だったとしましょう。

だとすると、この城下は伊勢から来る敵を防ぐことはできません。伊勢は近江日野の東にあるのです。


地元の人間が城下の範囲を取り違えたりはしないだろう……という観点で考えると、城下の中心である大窪通りあたり(赤い円の部分)の歪みがやや目立っています(図 4.2.9)。弧状かどうかはさておき。

図 4.2.9: 日野城下で歪みと言えそうな部分

びっくりするほどのゆがみ・ひづみではありませんが、商業地区の中心にあるというのは興味深く思えます。

長い町の防衛のために、故意にひずみを作り見透を阻止したのでしょうか?

しかし、こんなゆるいカーブでは、あまり見透の遮断にはなりえません。松坂と同様です。

図 4.2.10: 近江日野城下町の大通り

思わず実際に日野町まで行ってしまいましたが、やはり見通しはそう、わるくありませんでした(図 4.2.10)。

大通りで二町先(218m先)が見通せないのは、(大字)松尾のあたりだけ。平均すると、当時の大通りは約260m先まで見通せる街路だったのです。

これでは、弧状の街路で二町先の見通せぬ町割だったとは言えません。


さらに、城下町の町割が蒲生定秀の時代だったとすると、測量技術的にも人員的にも施行期間的にも
「道をまっすぐ引くのが難しかった」
という可能性を考慮しなくてはなりません。

秋田・久保田城下の町割でお見通しが立ってないと佐竹義宣が家臣を叱り、やり直させたことを思い出してください。17世紀に入ってそうだったのなら、16世紀中盤ではなおのことでしょう。


先ほども触れましたが、日野城下の北側は丘陵になっているわけではなく、敵は簡単に城下を迂回できます(図 4.2.11)。

図 4.2.11: 近江日野城下の北側に広がる田畑

したがって西からくる軍勢は無理に城下を通過しなくてもよいことになります。都市戦を挑む必要がないのです。


家督を継いだ蒲生氏郷は、出した掟の中に
「商人・旅人は必ず日野でいったん荷物を下ろすこと。南北の山や川は通行禁止にします。もしもこういう所を直行して城下へ寄らない商人や旅人がいたら、通報してね」
という趣旨のことを盛り込んでるくらいです。

近江日野城下は簡単に迂回できたのです。そして、近江日野城(中野城)は都市の中ではなく、迂回したその先にありました。


これでは街路に屈曲を設けても防衛的なリターンは期待できません。 防衛のために歪ませる理由が薄いとなれば、街路が大窪通りのあたりで歪んでいる理由は何でしょうか?

筆者にはふたつの推測があります。

ひとつは、おなじみの地形由来です。地図調査で非城下町の道路をウネウネグネグネさせていた理由は、たいがい地形でした。

そこでまずは地形を疑って、大窪通りあたりの高低を見てみましょう(図 4.2.12)。

図 4.2.12: 日野城下 大窪の街路のゆがみ

標高175m~205mを5mピッチで色分けしました。

図 4.2.12のAとBは日野川の支流、野田川の渡河地点です。堀抜き井戸が使えない住民は、毎日ここまで水くみに坂を上り下りしたことでしょう。また、行商人もこの両地点のために坂を上り下りしなければなりません。

とすると、Cの住民には悩みがあります。Bの方が近いのですが、Bに行くには、いったん上って、また降りなければならないからです。しかもE~B間は通称『這い上り』と呼ばれるほどの急坂でした。

だとすると、Cの住民は遠くなってもラクなAの方を選びます。中世の人間が一日に必要とする水を3リットルと仮定しても、4人家族で12リットル(=12キログラム)もの水を、毎日運ばねばならないのです。

Cの住民は、自分の家が、ほんの50センチいや10センチでも、自宅がAに近くあってほしいと思ったはずです。

建て替えや建て増しの際に、隙を見てジワジワと道路や隣家の敷地に自宅をはみ出させていったのではないでしょうか。

急坂に面するEの住民は当然にB地点に向かいますが、こちらもなるだけ往還距離をせばめるため、ジワジワとBににじりよったと思われます。なにせ「這い上り」ですから。

かくしてAとBに吸引されて、点線で囲んだエリアの格子街路がゆがんでしまった……というのが、ひとつの可能性として挙げられます。


もうひとつの可能性は、Dです。ここには現在、近江日野商人館として活用されている、大商人・山中兵右衛門の邸宅がありました。

初代山中兵右衛門が一介の行商人として人生をスタートさせたのは1704年です。

だとすると、1704年時点でのD周辺は、貧しい行商人の住む、町の中心から外れた場所だったのかもしれません。

しかし、山中兵右衛門は行商で大成功し、大邸宅を構えました。使用人や御用職人が大勢、Cのあたりに集住し始めます。

急な人口増加に町は対応が間に合いません。蒲生定秀時代の町割は無視され、新しい家々は野放図に建てられます。

結果として方格設計は守られず、碁盤目がふくらんでしまった……と。

いずれにせよ、大窪付近の道の歪みが防衛目的とは考えられないため、理由はどうだっていいんですが(ここまで長々と語っておいて、それかい!)。

図 4.2.13: 『近江日野三町絵図』(中央部分。推定1827年作図)

客観的に言って、近江日野は弧状どころか方格設計のある四方に便のある町割です。


個人的な邪推を述べれば、
「城下町には、遠見遮断のために道の屈曲が存在する!どの城下町でも必ずに!」
と思い込んだ『近江蒲生郡志』の著者が、
「松坂の肘折のような防衛施設が近江日野にもあるにちがいない!なぜなら郷土の偉人・蒲生氏郷の出身地にして最初の城下町なのだから!というか、あってほしい!あるべきだ!」
と決めつけ、存在しないものを見出してしまったのが「近江日野は弧状の街路をしている」説だと思います。

日野の町書は弦線状に迂回して遠見を遮らしめしが松坂の町區は所々直角的に屈曲して遠見を自由ならしめざる設計なり何れも軍備上築城者苦心の存ずる所なり、されども心なき商人等は
伊勢の松坂いつきて見ても襞禎《ひだ》の取り様で襠《まち》悪し。
といふ俚歌を作りて袴に寄せ飛騨守の町割悪しと寓意せりと。

『近江蒲生郡志』の著者は、松坂古謡をふまえ、松坂の直線状の屈曲と同様に日野の弦状の街路も遠見を遮断するためのものだ、と書きました。

1922年には、それはもう言うまでもないほど当然の考え方となっていたのです。

松坂古謡の出典を示していないところを見ると、『松坂権輿雑集』の松坂古謡のくだりは、これまた言うまでもないほど知られた話になっていたのかもしれません。

一点だけ、気になること。実は、『近江蒲生郡志』の著者は「弧状」ではなく

「日野の町画は弦線状に迂廻して」

と、「弦線状」と書いているのですね。

これを後世の我々は「弧線状」の意味で――つまりカーブのつもりで――間違えたのだろうな、と解釈しているわけです。

なぜなら厳密に言えば、「弦」とは曲線上の二点を結んだ「直線」のことなのですから。


しかし、日野町の町割りに弧状の街路が見いだせないことを発見した私は、少しだけ嫌な予感がしないでもないのです。

つまり、『近江蒲生郡志』の著者はあえて弦と書き
「……俺は嘘は言ってないぞ」
という引っかけを仕込んだ可能性があるのではないか?と……

ガクガクブルブル。

4.3.6. 会津若松の食い違い路は利水のため

蒲生氏郷の町割ヘタ疑惑はすでに晴れていますが、「黒かわを~」の落首の検証から始まったこの章(4.2)は、ふたたび会津若松に戻って終わることにしましょう。


氏郷は会津若松を近世城下町として整備するよう命じたのだろうと思われますが、慌ただしく文禄の役で肥前名護屋へ出発するも、体調を崩してそのまま亡くなりました。

おそらくは、整備を命じた会津若松の晴れ姿もろくに見られなかったことでしょう。


さて、そんな会津若松の商業地の中心である「大町」に、「大町四ツ角」と呼ばれる交差点があります。

図 4.2.14: 大町四ツ角

ごらんの通り、いかにもなクランク交差点です(図 4.2.14)。かつては当然のように、防衛のための食い違いと説明されていました。


いま「かつては」と書きました。では、いまは……?


旅行というものは知見が増えるので、なるだけ各地に実際に行っておくものですね。

私は2018年の夏、単に戊辰戦争の史跡めぐりがしたくて会津若松に行ったのですが、ここで城下の街路が屈曲する理由の、大きなてがかりを一つ得ることができました。

大町四ツ角にあった説明板には、次のように書かれていたのです。

図 4.2.15: 大町四ツ角説明板

地形を利用して東から西に流れる用水を南北に分水するための見事な仕掛け


!!!!!!


まさに青天のヘキレキ、名店のビフテキ。エライこっちゃエライこっちゃよいよいよいよいドンブリばっちゃ浮いた浮いたステテコしゃんしゃん。


生活用水を町のすみずみまで行き渡らせるために、分水したいという欲求は当然に、どこの城下町でもあったと思われます。

水を分流するのにいちばん手っ取り早くて予算も少なくて済むやり方は、水路を丁字路にすることだったでしょう。

当時の水路は、どちら側からも平等に使えるように道路の中心にあることが多かったようです。

いや、むしろ多くの城下町で、水路を中心にして道路が建設されました。


で、あれば、水路が分流のために丁字路になるに従い、道路もそれに引きずられて丁字路になったりクランク十字路になって当然です。

これは、会津若松に限らず、どの城下町でも起きたことでしょう。人間は水が無くては行きていけませんから。


この、大町四ツ角の食い違いはかつての水路の影響……という説、非常に興味深かったので、筆者はさっそくネットで詳細を教えていただけそうな機関を検索し、会津若松市歴史資料センター「まなべこ」に大町四ツ角説明板の出典がわからないかメールで質問しました。

素晴らしいことに回答はすみやかに頂けました。タダで。ビバ!インターネット時代!


さて、教えていただいた情報によると、これは比較的新しい学説で、郷土史家の宮崎十三八氏によるものでした。

『歴史春秋 第19号』所収の「蒲生氏郷の築城と城下町の形成」(宮崎十三八 1984)が、この説の現れたもっとも古い資料となるようです。

では、さっそく引用してみましょう。こらこら、そこの若者よ、
「1984年が比較的新しい……?」
などと言ってはいけない。その言葉は昭和世代の前では飲み込みなさい。

 またこの郊外の城下町では、この大町札ノ辻をはじめ、大町竪は二~四丁目角、一段上の馬場竪は一~五之町角の都合九ヶ所に、普通の十字路ではなく、カギ型の食い違いがこの時代に作られた。
 これは軍略上の見地から市街戦に備えて見通しのきかないものにしたといわれている。しかしこれらのカギ型辻は、郭外の町人街ではこんなに多く見られているのに、郭内の侍屋敷街には全くないのはどうしたことであろう。今までの解釈では、城下町の軍事的機能のみが強調されてきた。
 私はこのカギ型辻の工夫は兵法上のこともあろうが、もっと都市的な民政上の必要性からであって、上手な水路の流し方のためではないかと思っている。若松の町並みは、東西路は高低差が相当にあるが、南北路は平坦である。往時は道路の中央に水路が一本通っていて、飲用水は別としても種々の生活用水に使用されていた。その大切な水を東西路から南北路に流す工夫の一つが、このカギ型十字路となったのではあるまいか。
 大町四ツ角がもし普通の十字路であれば、一之町の水路の水は、横の大町水路には入らず、高低差の大きい七日町水路を真直ぐに流れ下ってしまう。これを平坦な大町の水路に入るようにするには、逆T字型の水路にして小さい堰をつくればよい。このカギ型十字路のあった所はすべて大町三四之竪、馬場二之竪のように〈竪〉といっているが、この竪は、〈南北の方向〉という意味のほかに、〈堰〉のやくめをして水利をよくしていたにちがいないと思う。

郭外の町人街にばかりクランク十字路があり、郭内の侍屋敷町には無いのは不自然という指摘は、まさに筆者の地図調査の結果と一致していました。

図 4.2.16: 会津若松の町人町に連続するクランク

町人町に、北から来る敵をまったく妨げていないクランクの連続がある(図 4.2.16)のも、それが軍事的理由というよりも利水的理由からそうなったのだすれば、不思議ではなくなります。

水路が南北方向に流れず、まっすぐ阿賀川に注ぎ込むままだったころ、畿内から来た数千名の入植者たちの住居は短い水路沿いに密集したことでしょう。まさに「町のつまる」状態だったのです。

図 4.2.17: 会津若松の断面(東西方向)

  引用元:地理院地図

町割ヘタどころか、さても飛騨守の名に恥じぬ匠の町づくり哉といった会津若松の姿が浮かび上がりました。 頑張ったのは家臣でしょうけどね!

蒲生氏郷の町割ヘタ説が本当かどうかを調べた結果、そのヌレギヌが晴れたばかりか、いずれの町も防衛以外の理由で街路が屈曲した可能性が高いことがわかりました。


近江日野 ← そもそも弧状の街路ではない。城下を迂回して城に近づくことが容易な立地であるため、城下街路の複雑化にメリットがない

伊勢松坂 ← 街路が屈曲したのはおかげまいりの流行のあと。富豪商人が自宅を誇示するために生まれたのが隅違いの多い電光型街路

会津若松 ← 東西方向の傾斜が急である。南北方向に水を行き渡らせるため水路を丁字路にした。その結果、町人町にクランクが生じた

城下町だからといって、町の構成要素が「そうなっている」理由を、すべて軍事目的だと考えるのは、悪しき先入観なのです。

そのことを踏まえつつ、江戸中期の文献へと進みましょう。

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(1)江戸時代前期

https://note.mu/mitimasu/n/n04ece8652e6e

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(3)江戸時代中期
https://note.mu/mitimasu/n/n6daac2a2ccd6

※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。

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mitimasu

マンガ家。主著に『浅倉家騒動記』 『日本全国波瀾万城』 http://blog.masuseki.com

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった

近世大名は防衛のため城下の街路を、敵が容易に近づけないように屈曲させたという。しかし各地の城下絵図を見るときれいな碁盤目をしてる城下が少なくない。いったい、通説はどの程度、真なのだろうか?調べてみたところ「どの程度」どころか……
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