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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(3)江戸時代中期

## 4.3. 江戸時代中期(1690年~1779年) ついに出現する、防衛のための居住区街路屈曲という概念


ほとんどの都市で基本的な町割が終わってしまっている時代です。

すでに松坂古謡で見た通り、この時代に、ついに
「(城地ではない)居住区の街路を屈曲させて防衛用途とする」
という概念が出現します。


ともあれ、時系列順に文献を追っていきましょう。

### 4.3.1. 長沼流兵法:『兵要続録』(1690年頃)


  東京国立博物館デジタルライブラリー / 兵要続録 : 巻之1,2
  https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1057
  ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

長沼澹斎の弟子、宮川忍斎の著書です。

巻之一 守国
仮令彼図を案じ導を用ひ、略ぼ我が地勢を知るも、亦豈我が将吏・士卒の常に能くこれを暗記爛熟する者に如かんや。況んや其れ時に臨み険を設け、以つて之が不意を陥るるの術有るをや。其れ地理を察するの道は、すべからく闔《こう》国の土地を以つて分割し、以つて之を将士に与ふべし。之をして各々の受くる所を守り、其の険易広狭曲直遠近を知らしむ。又郡県を分ち以つて衆長に委託し、各々掌どる所の郡県に於いて其の政を総裁す。又闔国を総知するの官を設け、毎歳毎月四方を巡検し、民居利ならざるはこれを遷し、道路便ならざるものは之を変じ、水性順ならざるものは之を導き、樹木蕃らざるものは之を植え、其の繁るものは之を芟り、田野を闢き土地を平らにし、宜しく険なるべきは之を険にし、宜しく易なるべきは之を易にす。此くの如くして而る後以つて民を安んずべく、以つて寇を禦ぐべし。其の法の詳は時に臨み険を設くるの術に与かるが如し。

「たとえ敵が地図や案内人を用いて我が国の地勢をおおむね知ったとしても、自分の土地を暗記熟知している我らの武将や兵士にはおよばないものだ。

ましてや戦争のとき、その地元を熟知している将兵たちが険(通行不便な障害)を設置し不利な状況に敵を陥れる術において、敵に劣るということがあろうか。

そのように(将兵たちが自国の)地理に詳しくなるための道は、こうだ。

国全体の土地を分割してすべからく武将や武士に与えるべし。こうして各々の受け持ちエリアの通りづらい所・通りやすい所・広い所・狭い所・直線・カーブ・遠い所・近い所を把握させるのだ。

そして郡や県に分割して、農工商の長などに委託し、各々の担当エリアで行政に当たらせる。

さらに国内を総括するような役所を設け、毎年毎月領内を巡回し、邪魔な民家はこれを移動させ、不便な道路は道筋を変更し、水の流れの悪い土地はきちんと導水し、枯れた樹木は植え替え、繁った樹木は伐採し、田野を開墾し土地を平らにし、通行困難であるべき場所は通行困難なままを維持する。通行便利であるべき場所は通行便利を維持する。

このようにしたうえで、国民の安全を守るため、地理の知識をもって侵略者を防ぐのだ。

このとき、我々の地理についての詳しさといったら、険を自由自在に設置する術を会得したようなものである」

……うん、長い。

ああまったく、ぐうの音もでねえ。あんまりにも理路整然としすぎているので、中国の兵法書にコピペ元があるんじゃないか?と怪しんだほど。

怪しんだだけで調べませんけどね。

ともかく、街路を屈曲させる方向の話ではありませんね。
「宜しく険なるべきは之を険にし」
と言っていますが、これは城地における急斜面などの「険」でしょう。

居住区については
「民居利ならざるはこれを遷し、道路便ならざるものは之を変じ」
がすべてを語っています。

日頃から都市の便利を心掛けておけば、いざ攻め込まれたとき、どこを塞げば侵入されにくくなるか簡単にわかる――論理に隙がなさすぎて、もう、いやんなっちゃうわ。


ところで、師匠の長沼澹斎は自焼はもちろん、攻める時の放火も控える傾向にありましたが、この方針に宮川忍斎は賛同しなかったようです。 引用は省略しますが、積極的に放火を指南し、命令があれば自焼もよいと説いていました。では次。

一、地雷・隠砲・堰坊・蒺藜《ひし》・滑達《すべりもの》・陥坑《おとしあな》・橛索・鹿砦《さかもぎ》の類以つて賊を苦しむ。各々口占有り。
一、予め地勢を計り、縦横に仏狼機《ふらんき》を置き、以て入寇を拒ぐ。

前項は、侵入した敵を苦しめる様々な手段。

これだけ書き連ねていますが、街路屈曲は出てきません。

それはそうでしょう。前提として、平時は通行自由をこころがけ、戦時になってから「険」を設けろと宮川忍斎は説いているのですから。

敵が近づいてから道路を屈曲させて家を建てて……じゃ間に合うわけがありません。


「橛索」は漢字の意味を引くと、「橛」は杭で「索」は縄・ひもの意味。乱杭や柵の一種でしょう。

「堰坊」はよくわからなかったのですが、「坊」は条坊の坊、すなわち都市の家々を指すと思われます。「堰」は土塁か水路か、その両方か。街路上に設けるバリケードか塹壕ではないでしょうか。


後項はフランキ砲(=大砲。日本では『国崩し』の名で呼ばれました。仏狼機の呼称を用いているのは参考にしたのが明もしくは清の兵法書だからでしょう)を据えて敵の侵入を防ぐと言っています。

「あらかじめ地勢を計り」と言っているのはフランキ砲を有効活用できる、射線が通る場所に設置せよという意味と考えられます。

「縦横に」というのは方格設計を前提としているのかもしれません。長沼流の参考文献が明の兵法書であったことを考えると、ありうることです。では次。

巻之四 守城
一、屋舎守拒に害するの所は、之を毀折し以つて便利に従ひ、泥土を以つて窩舗を覆ふ。凡そ予め火攻めを禦ぐには、皆泥を以つて楼櫓を塗る。口占

またまた、防衛のための街路屈曲とは正反対の指南です。防衛に邪魔な家屋は破壊して、便利にしておくようにという教えです。

師匠とちがって放火・自焼にやぶさかでない宮川忍斎ですから、街路屈曲など燃やされて終わりと考えていたのではないでしょうか。

後半は敵の放火を防ぐ手立てです。

一、賊距堙を設け城裏を下視するの地、之を築作の初めに慮り、更に臨時の禦を為す。賊或は昇望し頗りに銃子を放つときは、竹牌を以つて之を蔀蔽す。竹牌を設くる能はざる者は、地道を穿ち以つて往返を便にす。

「敵が陣城(訳注:距はへだたり、堙はふさぐ。攻城のための築山の意味も。よってここでは距堙を陣城と訳します)を設け、こちらの城を見下ろせるような高所が近くにある場所では、築城の設計段階でそのことを考慮する。

そして、いざ敵が迫ったら、さらに臨時の防御策を講じる。

敵が高所に昇って我が方を望み、しきりに銃弾などを打ち込んでくるときは、竹牌でこれを防ぐ。竹牌不足でそれが難しいなら、地下道をつくって往還を便利にする」

……というわけで、基本的に見透を嫌う姿勢に変化はありません。

防衛のために地下道を作って往還を自由にするというのは珍しいですね。信玄や家康のように、攻める時にもぐら攻めを使った武将は有名ですが。

ああ、でも、脱出用の地下道を城にあらかじめ作っておくというのはありましたね。それに、埋門は多くの城に存在していました。


### 4.3.2. 甲州流:『信玄全集末書』(1692年 刊)


  甲斐叢書. 第5巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209127/151
  ※以下、この項で引用するテキストと画像の引用元は上記

著者が誰で、いつごろ成立したかわかりません。

基本的には『甲陽軍鑑 末書 下』の異説・異伝を整理し、編著者の見解を述べたキュレーションになります<キュレーションって言うなよ。


筆者は読んでみて、甲州流以後に成立した北条流・越後流・山鹿流などからの逆輸入が疑われる部分が多いと感じました。

本来の甲州流兵法は口伝を重視したため、伝授が繰り返されるにしたがい、異説異伝が生じやすかったものと思われます。

城取巻 上
〇一 城の敷井繁昌の地形を知事
第一、大身小身共に、居城には繁昌の地を肝要に用ゆべし、其の繁昌の地といふは、北高く、南低く、南北へ長く、東か南か西に流水成とも海成ともありて、ことに堅固は大いによき地也、又三方共に、ありてもよし、扨又不堅固にても、大よう右の如く成地なら、必居城にとりたつべきなり、これを、長久の地形とはいう

いつものアレです。最後の方は、不堅固でも他の条件クリアなら、ぜんぜんOK、レッツ築城!こういう場所を長久と言うぜ!(繁昌の地とは言わないけどね)……てなところでしょうか。

わりとどうでもいいと思いました。


……と、基本的には新たに現れた異説・異伝の指南に、とりたて見るべきものはありません。

むしろ見るべきは編著者の私見や、弟子との問答のくだりです。そこに時代の変化についてのヒントが記されていました。

上巻の二 城取の巻 上 第七
私曰、国を持つものは、国を以城とす、信玄わづか甲州一国、信濃半国持時さへ、人は城人は石かき人は堀情は味方あたは敵なり、とて居城なく、一世屋敷構にて終わられし、信玄さえ如此、況君子をや、かやうに大中小又は、屋敷構の間数を定めしは、城形をする稽古の為、即手習の手本の文章を書しがごとし、是非如此身体に応して、本城をひろくせよとにはあらず、(中略)然るに、今時の軍法者、城取には小ク円きが能とて、長みなる地を切て、亀の甲なりに丸め、馬出しなくともよき虎口に、むりにひづみをして、真の馬出を付け侍る、誠に古人の故城、遠州諏訪の原には(中略)なと、聊人力の費をせざるために、色々の縄張りを用る事にこそあれ、今の城取者は、人力宝を費し、人数賦りの損益の考無く、だて道具に、城を築ごとくの縄はり故に、さまざまに、くねりたる城形具に此末に写置侍る

「師匠はこうおっしゃられた。国持ち大名は、国をして城とする。

信玄公は甲州一国と信州の半分を支配していただけの頃すら、人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なりと言って、居城はなく、終生、屋敷住まいであった。

信玄公ですらそうだったというのに、そこらの二世・三世が居城を持たねばならないわけがあるだろうか?そう、ない。

このように、兵法書の述べる城の大中小や間数の定めは、(絶対にその数でなけらばならないというわけではなく)あくまで稽古のための参考値である。

習字のお手本をなぞるように、是が非にも兵法書の通りに本城をひろくせよということではないのだ。(中略)

しかるに、今の軍学者は、城取は小さく丸くがよいとして、長い丘陵を切って、亀の甲羅のように丸め、馬出を設ける必要が無い虎口にムリヤリひづみを作って真の馬出を設置する。

マジな話、昔の人の築いた諏訪ノ原城では……(中略)

……などなど、少しでも経費をムダ使いしない縄張を用いていた。

ところが今の城郭設計者は、人力もお金もムダ使いし、人数配置の損益も考えず、見た目重視で、(平地に)城を築くときにやるような縄張を(平山城や山城に対して)選び、さまざまにくねり曲がった城の形を(兵法書の見本通りに)つぶさに写し置こうとする。」

……なるほど。

ひとことで言えば、東京オリンピック(2020)と東京オリンピック(1964)の話ですね(ちがいます)。

というか、豊洲市場と築地市場の話ですね(だからちがうってば)


なかなか興味深い話です。

甲州流を世に広めた流祖とも言うべき小幡景憲は、人は城……なんて言って居城無しでも国防できたのは信玄が天才だったからだと述べ、凡人である我々は城取こそ武将が初めに学ぶべき基本で、かつ秘伝としました。

天才ではない勝頼公は堅城を持たなかったために武田は滅びたのだと。

そうして城取ばかり重視して教えた結果、どうなったかというと六十年後、なにがなんでもひづみ!丸く小さく!陰陽の縄張!真の馬出し!草の馬出!あれもこれも、全部盛りじゃーい!とする生徒が増えまくってしまったようです。

その有様を、もう少し理解の深いお師匠さんは嘆いているわけですね。もう、新規の築城がポンポンできた時代ではないので、机上の設計での話だとは思うんですが。


「城を築ごとくの縄はり故に」は推測が必要でしょう。

「築」は本来、土台を作るの意味ですから、ここで言ってる「城を築ごとくの縄はり」とは、平地に土台を盛り土して作る城のための縄張りを言っているのでしょう。つまり、平城(掻揚の城)の縄張です。

高さで敵を防ぐということが難しいため、複雑な堀や連続する枡形虎口、馬出しなど工夫を凝らした縄張りです。こういう工夫ができるのも、建設がしやすい平地だからこそ。地形のため建設作業の難しい天然の要害や長い丘陵でこういう複雑な縄張を採用するのは経費の無駄使いである、ということのようです。


それにしても、まがりくねりたる城とはすごい表現。いったい、『信玄全集 末書』の縄張り図はどんなものだったのか……

図 4.3.1: 信玄全集末書 縄張図(1)

「ブフォッ(お茶ふいた音)」

図 4.3.2: 信玄全集末書 縄張図(2)

「ヤサイマシマシカラメマシアブラスクナメニンニク!」

図 4.3.3: 信玄全集末書 縄張図(3)

「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ !!」


ああ、ねえ……これらは様々な虎口や馬出を一枚図に収めたサンプル図であって、そりゃ、これをこのまま現実に作ろうとしたら無茶なことになりますわなあ。


図があるということが、初心者の好奇心を刺激したのでしょう。

兵法指南というサービス業を開くにあたって、城取を初学の重要事項とした小幡景憲の慧眼《けいがん》、おそるべし。


でも、慧眼すぎたようです。

根本的な原理を理解しないまま、ただひたすら、城とは出入り口を屈曲させて馬出を設ければいいのだという浅い理解が広まってしまった……

ビジュアルの力の功罪でした。


この、浅い理解にとどまったライトな層が増えたことが、さらなる誤解の温床になりました。

ここから、重大な記述です!さあ!眠い目をカッと見開き!心して以下を読みましょう!

上巻の三 山城を取べき事
問い、屋敷構と本の城の縄の差別数多あり、といへども、大概は陰陽の縄なきを屋敷がまへとすること、前に具なり、さりながら、尾布(※ママ)かまへ、本の城の縄とて差別あるも、武士の家業の、藝者におちゆきたる故に、例の秘事口伝の流かとの疑いありいかん

ここは問答形式で弟子と師匠の会話となっています。まずは弟子の質問です。

「Q:屋敷構えと本城の縄張りの違いは多数ありとはいうものの、大概は陰の縄も陽の縄も用いないのが屋敷構えであると、以前につぶさに教わりました。

しかしながら、尾布(※底本ママ。屋布の誤植と思われます)がまえと本城の縄張り、違いはあるとはいえ……

武士の家業として武芸を修めて行きついた結果、例の秘事口伝を屋敷構えに流用したのではないかと疑っているのですが、いかが思いますか?」

説明不足で難解ですが、たいへんなことを質問している感じがします。

つまり、基本的には(上級家臣の)屋敷構えには、城の縄張りに用いるような「陰陽の縄張り(虎口など要所を屈曲させる縄張りのこと)」を用いないものだと教わりました……と、弟子。

で、「さりながら」と続けて、尾布かまえについて。

「尾布」なる単語に悩みましたが、続く師匠の回答には「屋布」とあるので、「尾布」は「屋布」の誤植でしょう。「屋布」は「やしき」と読みます。

つまり、陰陽の縄を用いないのが屋敷構えと教わったのにィ、城と屋敷構え、ちがいはあるとはいえさァ……と愚痴ってます。愚痴っているんです。

行間に隠された質問者の本音は
「上級家臣の屋敷構えが、城の縄張りそっくりに屈曲してんじゃん!教わったこととちがう!うそつき!」
でしょう。

そして、屋敷がまえがそうなってる理由について
「武士が自分の家業に研究熱心なあまり、武芸を極めた当然の帰結として、例の陰陽の縄張の秘事口伝とやらの流儀を、自分の屋敷に用いたのでは?」
と疑ってます。

拙者、疑わずにはいられない!だって陰陽の縄に見えるんだもん……という質問ですね。気持ちはわかります。すごくよくわかります。


この質問に対する師匠の回答はこうです。

答云、左にはあらず。城と屋敷構の差別を、一致と覚え給ふが、 武士の家業の藝者に興りたる故なり。其謂は、今宇治の町人共のする、茶を翫い、のむものを見れば、其のむ所の座席を、数奇屋といひ圍といふ。予がこときは、茶さへのまば一ツ家かと思ふ。又連歌と誹諧と、又太刀と刀と、脇差の中にも、大わき指、中わきざし、小わきざしのかわり有、其の他、同きやうに其の道を知る人のためには、格別のかはりもあるにあらん。我はむづかしきに、皆一致にあれかしと思ふ、屋布と城の差別も、又如斯歟

「A.さにはあらず。城と屋敷のちがいを、一致してるように感じるのは、(おぬしが)武士の家業の熟練者に興味をもっているからである。

いま宇治の町人が茶道にハマり茶を味わい飲んどるだろ。彼等に興味を持って見てみれば、彼らはその茶を飲む茶室を数奇屋とか囲いと呼んでいるだろ。

私なんぞは、茶さえ飲めれば一軒家と呼べばいいだろ、と思うがね。

また、連歌と俳諧、また、太刀と刀。

脇差の中にも大脇差・中脇差・小脇差と小分類があるじゃないか。

そのように、その道を深く知る人のためには、特別に必要な言葉の定義があるのであろう。

私は難しいから、ぜんぶ同じであってほしいと思うがね。

屋敷と城のちがいもまた、かくのごとしか」

……と、まあ、答えになってるようななってないような。筆者は、メチャメチャはぐらかしてるような印象を受けました。
屋敷構えと城構えが同じに見えるのは、お前が武芸マスターに憧れてるだけのワナビだからだよ!「其の道を知る人」になればちがいがわかるんじゃ!ということなんでしょう。

ともあれ「さにあらず」ってんですから、武士が自分の屋敷に陰陽の縄を使ったんじゃないの?という生徒の疑念を否定してるのはまちがいないでしょう。

この質疑応答には、以下のような興味深いポイントが見出せます。

#### 上級家臣の屋敷構えは、陰陽の縄張があるように見えた。つまり屈曲やひずみがたくさんあった
これは私の地図調査でも、その傾向にありましたので整合しています。


#### その、侍屋敷の屋敷構えにおける屈曲やひずみを「城に用いる防衛のための秘事口伝を流用した結果」と考える軍学の生徒がいた
書物に記して刊行したくらいですから、そういう質問が多かったのではないでしょうか。

城下に屈曲があったら問答無用でそれを防衛のためと見なす、現代のわたしたちと同じ発想ですね。

わたしたちは250年、進歩なしなんですかね。


#### 質問した人間さえ、それが藩や藩主の意向だとは思っていない。質問者は上級武士が兵法の秘事口伝を、武家が家業の武芸に熱心になったあまりに、私的に屋敷に流用して折れやひずみをつけたと疑っている
屋敷構えの折れやひづみを兵法の秘事口伝ではないかと疑った生徒も、藩が防衛のためそうしたとは考えていません。「武士の家業の、藝者におちゆきたる故に」陰陽の縄、例の秘事口伝を私的に自分の屋敷へ用いたのではないか?と疑っているのです。

住居の敷地形状について、藩はそれほど介入しないのが江戸中期のスタンダードだったのかもしれません。もっとも、一例だけで、この時代のすべてがそうだとは言えないでしょうが。


#### 師匠はそれを、質問者が兵法に興味津々だから、折れや屈曲というだけで城の縄張りのように見えてしまっているのだ、でも、似てるけども違うのだよ……と答えている
月もスッポンも丸いけれど、スッポンはやっぱり月じゃないのです。

塵も積もれば山になりますが、山だからといって、塵の堆積で出来たとは限りません。地震で隆起とか浸食作用の結果とか、いろいろあります。

ダイエットをすれば痩せますけど、痩せてる人がみんなダイエットをしてるわけではないのです。

同じように、城はその出入り口を防衛のために屈曲させましたが、城下に屈曲があるからといって、それが防衛のための屈曲とは限りません。

武士は虎口を屈曲させ食い違いを作りましたが、屈曲してたり食い違いがあれば、それがすべて虎口というわけじゃないのです。


   >相関関係と因果関係 - Wikipedia
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%96%A2%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E9%96%A2%E4%BF%82


第三章の地図調査では、城下町ではない都市にもたくさんの屈曲や食い違いがありました。

城下町ではない町の道路が屈曲し食い違うのは、防衛のためではありません。

道路は防衛以外の理由でも屈曲し食い違う……とすれば、城下の街路も防衛だけを因果にはできないのです。他の可能性も考えなければ論理的とは言えません。

この点において、この甲州流の師匠は常識的・論理的な回答をしたと言えましょう。

しかし、1692年には都市における屈曲を城と同じく防衛のための縄張によるものだと考える人々が現れた。それは軍学を学んでいる途中の生徒であった。師匠はその考えを否定したが……ということがわかりました。


松坂の隅違い街路(商業的理由で生じた)を「防衛のため」と久世兼由が『松坂権輿雑集』で断じたのは、ここから60年後の1752年になります。

この誤解は、師匠がいかに否定しようとも、打ち消すことができず、急速に拡散していったようです。


### 4.3.3. 荻生徂徠『政談』『鈐録《けんろく》』(1727頃 )


  ※この項で引用するテキストの引用元は
  『荻生徂徠全集 第六巻』(みすず書房)
  です。

儒学者・思想家の荻生徂徠《おぎゅう そらい》の著作。『政談』は本来、吉宗に献上するため執筆された政策ですが、内容に恐れをいだいた家臣らによって握りつぶされ、吉宗には届かなかったと言います。

徂徠自身は秘密の策と考えていたようですが、死後に著作が広まりました。

『鈐録』は兵法オタクの徂徠さんが我が国の兵法と中国の兵法をまとめなおした、まとめ本です(……というのは茶化した言い方です。徂徠は「文」と「武」は車輪の両輪であって、国家を治めるためにはどちらも同じくらい重要と考えていました。それゆえ、徂徠は「文」と同じくらい熱心に「武」も研究したということです)。

ありがてえ。でもユーザーインターフェースがなってない!読みづらい!めっちゃ長文やし!もっと小見出しつけてよ徂徠さん!


『鈐録』については、しょせんは書籍から得た知識の孫引き本といった面が少しあります。

一方で、多くの兵法のもつ机上の空論っぽい部分を冷徹かつ客観的・常識的に分析しており、目を引きます。


荻生徂徠は兵法家とは言い難いのですが、無視できない著作ですので、ここで登場願いました。著作の成立はどちらも享保12年頃と言われます。


政談 巻一
碁盤ノ目ヲ盛テ江戸中ヲ手ニ入ルト云愚按ノ仕方ハ、武家屋敷モ町方ノ如ク一町々々ニ木戸ヲ付、木戸番ヲ置、(後略)

まずは、『政談』より。こちらは政治論で兵法の話ではありませんが、興味深い記述だったので。

「碁盤の目(訳注:ここでは町割のことではなく、江戸市中の乱れた風紀を正す整然とした『規律』を比喩して碁盤の目という語を用いています)をもって江戸中を掌握する私なりの提案。武家屋敷も町方のように一町ごとに木戸を設け、木戸番を置くべきで(後略)」

これは、見過ごせない言及です。町方は治安のために、一町ごとに出入り口に木戸を設け、木戸番を置き、不審者の出入りをチェックしている。上級家臣の居住区である武家屋敷エリアも、それを真似するべきであると、徂徠は言っているのです。

つまり、町方は自分たちの居住区の治安維持を、自衛的に行っていたわけです。

また、武士たちも武家屋敷の治安維持は町方と関係なくやっていたようです。徂徠さんが、真似するべきだと言っているのですから。武士と町方、お互いにある程度、独立した関係にあったわけです。

中世から続く自力救済の伝統が残っていたものと考えられます。


となると、武士側が
「おい、防衛のために街路を迷路化させるぞ」
と言っても、簡単にはいかなかったでしょう。町方は
「知るかバカ、こっちの都合も考えろい、べらんめえ!」
と反発するに決まってます。街路を迷路化するというのは、引っ越しや日常の不便を強要するということですから。


実際、大火のあと防火対策として、幕府や藩は道幅拡張や水路の変更を頻繁に計画しました。

しかし、御触れ一発で強引に街路変更ができたわけではありません。 道路を拡張したり、道筋を変更するということは、住民の私有地を公用地に変更するということです。

戦国時代のように一般市民を強制立ち退きさせて公共事業をを実施するなんて横暴は、もう難しい時代になっていました。

行政は地権者や住民と話し合い、合意をとりつけ書状にサインした上で、街路を変更してたのです。

防災のための必要な街路変更でさえ、そのような面倒な手続きが行われるのですから、
「城の新築は禁じられてるから、防衛のために幕府にバレないようにこっそり街路を迷路化させる」
というのが、いかに無理筋な論理かは、言うまでもありません。

それは武士側の一存だけでは難しかったのです。幕府にバレないようにこっそり区画整理なんて、妄想にもほどがあるレベルでした。


(A)地権者に街路変更の理由を説明しない
(B)虚偽の説明をする
(C)本当の説明をする


いずれにせよ、実行すれば問題となって公儀の耳に入るのは時間の問題だったことでしょう。


では、いよいよ徂徠さんによる兵法キュレーション、『鈐録』にまいりましょう。

縄張や侍屋敷の屋敷構が屈曲してたりしなかったりの理由をバッサリ快刀乱麻しちゃってくれてます。侍屋敷ってことで、半分は城地の話であって完全な城下の話ではありませんが。

長くなりますので、深呼吸して、ではどうぞ!

鈐録 第十五
     経始
 畢竟ノ所、城ハ人君ノ住居ナリ。小身者ノ屋敷構ト左迄《さまで》替リナシ。人々ノ物ズキ勝手アリテ一定ノ仕形《しかた》ハナキコトナリ。同地形・同身上ニテモ勝手ニヨリテ屋敷取《どり》ハ一定セズ。城取《しろどり》モ其通《とおり》ナリ。只要害ノヨキ様ニスルニ習モアリ、巧者モアルユヘ各別ノコトノヤウナルヲ、城取ト云ヘバ別ニ一段ムヅカシキコトト思ヒ、武田流ニテハ学者ニ砂形《すながた》ヲ拵《こしらえ》サセ、月日ヲ費スハ大キナル了見違ナリ。屋敷取モ亭主《ていしゅ》ノ心儘《こころのまま》ニ普請ヲサスレバ色々ノ物ズキアレドモ、火事ニ遭《あい》テ小屋ガケヲ仕《し》、或ハ人ノ拵《こしらえ》タル家ヲ調《ととのえ》テ後家入《ごけいり》ニ住居スレバ、只小々所々ヲ仕直《しなお》シテイカヤウノ家ニモ居住ナルコトナリ。元来《がんらい》地形様々ありて、城取ハソレゾレノ地形ニ随ハザレバナラヌコトナリ。何ホド我好ム仕形アリ、又ハイヤナル城ノ取ヤウニテモ、其地形ニナキコトハセンカタナキナリ。ソノ如ク公儀ヨリ拝領シタル城ハ、我モノズキニ叶《かなう》ベキ様ナシ。普請ヲ仕直ストモ公法アレバ心儘ニナラズ。是又天然自然ノ地形ノ人ノ心儘にナラヌト同ジコトナリ。故ニ城取ノ利害得失ニ通了スルトキハ、若《もし》一戦ニ臨マバ只小々所々ヲ仕直シテイカヤウニモ城ハモタルベキコトナリ。総ジテ天地ノ間ノコトハ形アルモノニハ皆々一得一失一長一短アリテ、イカヤウノ変ニ遇テモ是ニテ少ノ失モナキト云万全ノ物ハナキナリ。城取モ左ノ如クナルコトナリ。其上、人ノ家ヲ調ルトキ、絵図ニテ見レバコトノ外ニアシキ住居ニテ、是ニハ居住ナリガタク小々勝手ヲ仕直スコトモナルマジキ様ナレドモ、住居《すまい》テ見レバ思ノ外ニナルモノナリ。城モ其如ク、一度モ二度モ合戦ヲモ仕テ見ズシテ、只席上ノ了見ニテハトクトハ知レヌコトナリ。サレバ砂形を仕習コトハ埒モナキコトナリ。故ニ只要害ノ設様《もうけよう》ニツキテ和漢諸流ノ得失ヲ悉諳練シ置テ、扠《さて》国々ノ城図ヲ五三枚モ所持シテ考合セタランニハ、城取ハ心ノ儘ニナルベキコトナリ。

……ふう。

すごいですねえ。長いですねえ。これだけ長くて結論は
「城取は心のおもむくままにやればいいんじゃない?」
なんですから、大変な徒労感が。

では、真面目に読んでいきましょう。


「結局のところ、お城とは主君の住居である。 家臣の屋敷と、たいして違いはない。

個人の住居というものは、家主の好みで設計され、決まった形式など存在しない。

同じ地形で同じ身分であっても、屋敷の間取りというものは一定しないのだ。 城の縄張も同じである。」


「ただ、敵の攻めにくい地形を活かす設計術というものが存在し、その設計術の熟練者もいる。

だから、城の縄張を特別な難しいことのように錯覚してしまうだけのことである。武田流なんて生徒に砂で模型を作らせて無駄に時間を浪費させてるよね。もうアホかとバカかと。」


「屋敷の間取りも亭主の心のおもむくままにやれば、色々とこだわりが出るものだ。

しかし、たとえばあなたが火事に遭ったとしよう。(そういうときは)仮設住宅を建てたり、他人の作った売屋や貸家を調達して、(とりあえずの)住居とするだろう?そういう(非常時の)ときは、少々の手直しするくらいで、どんな家にだって住めるものじゃないか」


「もとより、各地の地形は様々である。城の縄張は地形にしたがって、自由にできないものだ。

(城主に)好みの縄張があり、または嫌いな縄張があったとしよう。

だからといって、その地形で実現不可能な縄張を選んでは、どうにもならない。

また、幕府から拝領した城を自分の好みに改造したくても、武家諸法度で禁止されているのだから、これもままならない。

それは天然自然の地形が人の思い通りにならないのと同じである」


「ゆえに、城取において利害得失をチェックし、害失を出さずチェックに合格したいなら、『(こだわりの城にせず)もし一戦に臨むことになったとき、ただ少し所々を手直しするくらいで、いかようにも戦える城』という城取をすべきなのだ」


「総じて、この世界で形のあるものはすべて、一得一失があり、一長一短があるもの。

どのような事態にも対応できる万全のものなど、存在しないのだ。城の縄張も同じである。」


「たとえば、(火事に遭ったりして)売屋なり貸家なり、他人の建てた家を調達するとき、絵図で見たら
「とてもそのままじゃ住めなさそう、リフォームは避けられないな」
と思っても、住んでみれば思ったよりなんとかなるものだ。

城の縄張も同じである。合戦もせずに机上で思い悩むのは、住む前に絵図で考えるのと同じだと言える。だとすれば、砂型で研究することなどアホらしいとしか言えない」


「ゆえに、防衛拠点(城)の設計についての私の結論――国内外の情報を整理し、諸国の城絵図も53枚入手し熟慮した上での――とは、城の縄張は心のおもむくままにやればいい、なのである」


論理的に理詰めで例えを駆使し最終的に
「好きにやればいいんだよ!」
という雑な結論に至る、これだから文系学者は……な論でした。だっふんだ。

筆者は、徂徠の結論が全面的に正しいとは考えませんが、ロマンを排した以下の冷徹な分析は、注目に値します。

#### 屋敷取モ亭主ノ心儘ニ普請ヲサス
侍屋敷の屋敷構えは亭主の好みで設計された……なるほど!ありえることです。

いくら家臣を城の周囲に集住させたとはいえ、藩が屋敷構えにまで口出しするのは、ちょっと難しい感じがします。嫌がる家臣をなだめて集住させたのですから。

上級家臣たちには特権として、敷地の形状を個人の自由にさせた……その可能性は大いにあるでしょう。大まかな位置と面積だけは藩主が決めたでしょうが。

こういうケースでは、亭主の好みの屋敷構えが完成したあと、お隣さんとの境界線上が街路になったと思われます。

実際、上級家臣の居住地エリア(三の丸が多かった)では食い違いが多く生じていました。

屋敷構えを正方形にするか短冊形にするか、自由にさせるか。

このへんは、もちろん藩によりけりでした。全体的に強い都市計画の現れている城下(たとえば回の字型の城下)では、上級家臣といえ屋敷構えの自由が許されていなかったと推測できます。

しかし、町屋や足軽町は整然とした方格設計なのに、上級家臣屋敷エリアで方格設計になってない所(たとえば小倉など)は、
「家臣がそれぞれ自分の好みで屋敷を構えたから街路が屈曲した」
で、ある程度の説明ができそうです。


#### 天然自然ノ地形ノ人ノ心儘にナラヌ
城の縄張は地形にしたがい自由にならない……なるほど!これまた、当たり前の話です。

超当たり前。

スーパー・エビデント。

疑問の余地なく当たり前の話なのですが、こうしてハッキリ言及されるまで、江戸幕府開幕から百年以上がかかりました。

それまでの軍学でも、
「~というのが原則だけど、地形によっては原則から逸脱しても苦しゅうない」
という、やんわりした言い方はしてますけどね。ただ、当たり前すぎて、こうしてワンフレーズ化はされていませんでした。

そして、この当然ではあるけどロマンのない知見は、結局のところ世の人々に受け入れられずせずにジワジワと消えていくのです。


鈐録 第十七
     守法(上)
火攻ノコトハ日本ノ城・町屋・侍屋敷・制度不宜ユヘコノ患ヲ免レガタシ。其故ニ大形ハ城下ノ町屋敷ヲハグコトナリ。

「日本の城と城下は火攻めから逃れることは難しい。だから、たいていは城下の町屋敷を(あらかじめ)破壊しておくのを防衛策とする」


兵法各派を研究すれば、そりゃあ、こういう結論になりますよ。ほとんどの流派が城下は放火せよって説いているのですから。


というわけで、江戸中期の徂徠さん――日本と中国の兵法を熟知し、各地の城絵図53枚も検討した――は、町を屈曲させて防衛するという俗説は歯牙にもかけなかったようです。

鈐録 第十八
     守法(下)
一、閭港《りょこう》ヲ填《ふさぐ》ト云ハ小路々々ノ所々ニハヾ十歩ホドヅヽニヒシト杙《くい》ヲ打置コト攻ノコトナリ。
一、街衢《がいく》ニ舗《しく》ト云ハ長さ三四寸程ヅヽアル釘ヲ板ニ打、一丈ホドノ寛《ひろき》ニシテ大路ノ口ヘシキ置テ上ニ土ヲカクルコトヲ云ナリ。是等ハ皆敵城門ヲ押入タルトキノ為ナリ。

おおっと!小路や碁盤目街区における防衛の仕方への言及が!

しかし、すべて街路に臨時の障害物を設置する策で、街路屈曲ではありません。長沼流と同様ですね。ともに中国兵法がベースですから、一致もするでしょう。

基本的に、中国兵法書の用語解説です。閭港《りょこう》をふさぐというのは、小路に一定間隔でマキビシして、さらに杭を打っておくこと。

街衢《がいく》にしくというのは、釘を打ち付けた板を大通りの入り口に並べ敷いて、土をかけて隠しておくこと、です。

これらはすべて、敵が城門を打ち破って侵入してきたときの備えだそうです。

土壁・レンガ造りが日本より多い中国では、攻め手も守り手も放火・自焼に熱心じゃなかったのかもしれません。


述べられている防衛策については、
「そりゃ、そうだよなあ。街路を通行しにくくするのは、敵が迫ってからで充分だよなあ」
と、筆者などはうなづいてしまいます。

このようなスタンスですから、徂徠さんの論に日頃から街路を迷路化させておくなんてノウハウは見当たりません。

このへんは中国兵法の解説なので、徂徠さんの主張ではありませんが。


結局のところ、荻生徂徠による和流兵法と海外兵法のまとめにも、街路を屈曲させて見透を忌避し、騎馬武者の突進を防ぐ防衛術は現れないのでした。


### 4.3.4. 合伝流兵法:『合伝武学先伝巻聞書』(1761年以降に薩摩へ伝来)


  ※この項で引用するテキストの引用元は
  石岡久夫 編 『日本兵法全集. 第7 (諸流兵法 下)』
  です。


合伝流は主に薩摩一国で広まった特殊な兵法です。

事実上の流祖と言える徳田邑興が伝授を受けたのが1761年。島津斉彬の祖父・島津重豪の頃ですね。

徳田邑興が記した系譜によれば、その兵法はのちの越後流宇佐美派につながる上杉家の軍師・宇佐美良勝に始まるといいます。

この兵法の流れは

宇佐美良勝は高野山と関係が深く、兵法が九度山で蟄居中の真田信繁に伝わった
 ↓
真田信繁は教わった兵法に自身の工夫を加えた
 ↓
大坂の役で後藤基次から楠木流を教わり取り入れた
 ↓
もしくは部下で楠木正成の子孫・西村長宗が楠木流の戦法を真田信繁に伝えた
 ↓
真田信繁配下で戦った大江忠明が学んだことや自分の経験などを、島原の乱の頃に記した。ここに合伝流成立
 ↓
何代かあって、徳田邑興に伝授


……という経緯だそうです。

さて、徳田邑興は愛国心にあふれ、故郷の薩摩が甲州流に牛耳られてるのが我慢できず、合伝流を藩学とすべしと主張しました。

反発など紆余曲折はあったものの、結局は幕末に向かって薩摩の兵法は合伝流に染まっていきます。

つまり徳田邑興が伝授を受けた1761年以前の合伝流は、さして世に影響力のある兵法ではありませんでした。

そこで本論ではここ、江戸中期でとりあげます。

この頃となると戦国から150年以上過ぎており、世の中も兵器も様変わりしています。こうした変化により、古式の兵法が時代にそぐわなくなってきているという指摘は長沼流でもありましたが、合伝流では特に顕著です。


大江忠明が記した合伝流がどんな兵法だったか、ひとことで言えば
「戦争は銃火器が命!」
でした。

大坂の役・島原の乱を経験した大江忠明は、戦国までの戦法と秀吉の朝鮮出兵以降の戦法は全然ちがう!別モノ!やばい鉄砲やばい!半端ない!全国津々浦々まで鉄砲が普及したいま、昔の武士の経験則が役に立たない!戦場は完全に変わってしまった……と感じたのです。


そこで大江忠明は、
「戦国までの戦法と秀吉の朝鮮出兵以降の戦法は全然ちがう!これからは攻めるも守るも軍制も、ひたすら銃火器を効率よく使用できるシステムでなきゃいかん!」
として兵法を執筆したのです。

この点で合伝流は、江戸中期においては先進的な兵法だったと言えるでしょう。


   客戦
放火乱坊、附、火持ち要めの事
(前略)敵国に入らば、先づ火を掛る利あるべし。故に放火のはたらきをも常々士卒に習し置事肝要なり。火持とはしのび入つて付る役なり。夜陰に人家にしのび寄り、なげ火さし火などするは拙なり。形を飾り其宿にとまり、或は久しく其の村里に居住し、燥風の時、我家に火を付て焼付にする巧なり。(中略)又敵国の城下町屋に、前かたより医者・山伏・諸細工人になつて、所々に借家して居住し、ひそかに燥ける風の時を約し、我借家借家に火を掛て、大火に及ぼす事も有り。

合伝流も、放火を重視しています。

夜闇に乗じて付け火するのはシロウトくさいと。

宿や村里などは変装して正体を隠してしばらく滞在し、乾燥した風の強い日に失火を装って滞在している家に放火するのが巧みなやりかただと。

城下町なら、複数の者がそれぞれ医者や山伏や職人を装って借家して住みつき、乾燥した風の吹く時期に日時を決めて、それぞれが自分の借家に放火し、大火にしてしまう手があると。


まあ、ひどい話です。戦争いやですねえ。平和LOVE!


さて、ここでもまた、重要なことがわかりました。


#### 平時の城下には他国人が入り込んで居住できる

そうなのです。江戸時代初期の兵法書は商人や鍛冶や塗師を城下に集めるように説いていました。

仙台藩では御用商人に町割をさせました。蒲生氏郷は京都から一流職人を招き、これが会津の伝統工芸に発展しました。

そういうことをしなければ、経済が回らず国家は衰退してしまうからです。

薩摩は幕府のスパイを警戒して、他国人をなかなか入れない政策を長い期間、続けていました。が、それでは経済がたちゆきません。

やむなく開放政策に転じ、他国の商人を受け入れるようになりました。

徳田邑興が合伝流を伝授されたのと重なる、島津重豪の治世時です。

生きて帰れぬ薩摩飛脚と呼ばれた鹿児島城下すら、他国人が商売できるようになったのですから、そのほかの城下町は言わずもがなです。

ある程度、都市に自由に入れて、住み着くことも可能なら、地図は書き放題です。

城下にくわしくなり、戦時に道案内することもできるでしょう。

ならば、屈曲で侵入者を迷わせるなんて、非常に効果のうすい防衛施策と言わざるをえません。


ただし、多くの城下町では上級家臣の住む侍屋敷エリアと町人エリア、下級家臣の住む足軽エリアを分けました。そういう居住区が階層ごとに分かれた城下町では、他国者の商人・職人が侍屋敷エリアに居を構えることは、できません。

居を構えることができないのは当然として、この上級侍屋敷エリアに農工商の一般市民が立ち入れたかどうか。それは藩によります。松本藩などは立ち入りを禁止したようです。


   主戦
自国客戦、附、逆寄せ攻むるを以て守る事
(前略)逆寄とは判官義経高よりはじまる軍調なり。敵の寄せ来るを居ながら待つ事なく、此方より不意に寄来る敵の半途、亦はをりつきの所に押し寄せて討事なり。(後略)

「逆寄とは源義経公が始めた戦法である。敵が寄せ来るのを居ながらじっと待つのではない。
こちらから、寄せ来る敵の進路の真ん中あたり、あるいは折りつき、敵がそういう場所を通過してるとき急に押し寄せて討つ戦法である」

ぶっちゃけると、折りつきの所を効果的に使えというのは、合伝流に限った戦術ではなく、多くの兵法で採用されています。江戸前期の兵法書でも言われています。

ここまで取り上げず、ここでとりあげたのは、どこで解説してもかまわなかったので、とりあげる文献の少ない江戸中期に持ってきたというだけのことです。


折れつきの場所で戦うのが有効なら、城下に屈曲を作るのは自然に思えます。

ではなぜ、いずれの兵法にも城下に屈曲を作るべきという指南がここまでなかったのでしょう?


それは、今まで見てきた通り、日本の戦闘に置いて都市とは燃やすもの、そして攻め急がないものだったからです。


上に引用した部分でも「寄来る敵の半途」とあるのを見落としてはいけません。

ここで言っている折りつきの所とは都市の惣構や外郭よりも外の、街道上の話なのです。


「寄来る敵の半途」とは敵国との中間地点なら、おおむね国境であり、峠や河川、峡谷でしょう。

折りつきの所というのも、道が折れるのはたいがい地形由来ですから、これまた峠や架橋できないほどの大河や峡谷の前後と考えられます。

そういう場所は、野営の場所・飲料水などの確保が難しい場合が多く、攻め手は進軍を急がざるをえません。

道が悪いので、軍の前がつかえると渋滞も発生します。攻め手は進軍を急がざるをえません。

もたもたしてたら日が暮れてしまいます。急がなくてはならないのです(くどい)。

というわけで、せっせかと急いで峠を越え谷を渡りました。はい、せーの、ドン。敵が折れ付きの場所でまちかまえています。

峠を越えたばかり、谷を渡ったばかりです。背後が急坂や河川という場所では撤退が難しい。逃げたら最後、敵の追撃で大損害が予想されるからです。

こういうわけですから、守備側は寄来る敵の半途や折れつきの場所で待ち構え、迎え撃つのが非常に有効になります。


豊川の谷を越えたところを待ち構えられた、長篠の合戦における武田軍の敗北。

手取川を渡ったところを襲われた、手取川の合戦における織田軍の敗北。

こうした例は枚挙に暇がありません。


ところが場所が変わって、城下町戦。このとき、攻め手は急がないのが普通です。包囲網をつくり、無理せずジワジワ包囲網をせばめていくだけです。攻め急いで危険を冒す必要はありません。

成果が期待できなさそうだったら、攻めるのを中止して撤退することもできます。

都市部において撤退を阻害する背後の峡谷や峠は少なく、追撃される被害は小さなものだからです。


そのうえ守城側の兵はみな、籠城しているのですから、しんがりの部隊が城門を塞いで彼らが出撃できないようにすれば、ほとんどの部隊が安全に撤退できます。

このとき城の虎口は、石垣は、土塁は、切岸は、塀は――敵を侵入させないための遮りのすべては、打って出たい守城側の出撃を遮るように働くでしょう。

甲州流が切って出る時のための縄張りを苦心していたことを思い出してください。城は防戦一方の設計ではだめだったのです。


そういうわけですから、攻め手は敵の城下において、屈曲に向かって馬で突進したり、道がわからない状態で右往左往して、やみくもに城を探すなどという攻め方を、あーんまり、しなかったのです。


秀吉の城攻めが後年、持久戦ばかりだったのをご存知ですか?それは別に秀吉が特別、持久戦が好きだったわけではありません。当時の一般的な、敵の本拠地の攻め方だったのです(秀吉は必要とあれば強引な攻め方も選びました。籠城戦で有名な小田原の役においても、境目の城である山中城は多大な犠牲を払って強襲しています)。


あーんまりしない攻め方に、対策を講じるというのは、あーんまりしない守り方ではないでしょうか。

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(2)蒲生氏郷は町割下手ではなかった

https://note.mu/mitimasu/n/n5fc50757ea1a

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(3)江戸時代中期
https://note.mu/mitimasu/n/n550c8b418510

※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。





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mitimasu

マンガ家。主著に『浅倉家騒動記』 『日本全国波瀾万城』 http://blog.masuseki.com

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった

近世大名は防衛のため城下の街路を、敵が容易に近づけないように屈曲させたという。しかし各地の城下絵図を見るときれいな碁盤目をしてる城下が少なくない。いったい、通説はどの程度、真なのだろうか?調べてみたところ「どの程度」どころか……
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