経済問答秘録

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(5)江戸時代後期~明治

4.5. 江戸時代後期~昭和
――誤解と空想の防衛術が定説へ……


ここからは江戸時代後期(1790~)の文献と明治末から昭和の文献を見て行きます。

ん?明治末?い……維新の頃は……?


そうなのです。明治維新では日本の城が無用の長物として疎んじられました。

それと同様に日本の伝統兵法と和城の築城術は、学問の世界でも超不人気ジャンル化したようなのです。この時期の和流兵法・和流築城術の文献の少なさは壊滅的でした。

若者の江戸軍学離れがあったのです。文明開化の頃、和流軍学者や和城の研究者なんて役に立たないものを研究してる変人扱いだったのでしょう。


現役の軍防技術論ではなく、歴史学の一分野として日本の城郭研究が再出発するには、日露戦争後まで待たねばなりませんでした。


すぐにもその、明治末へ進みたい気持ちは筆者とて同じですが、まずは江戸後期の文献から、踏まえておくべき記述を洗い出してからです。

なにごとも、順番です。

4.5.1. 富田景周『加越能三州志』(1798年)

  三州志. 〔第4〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/993829/125
  ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

加賀藩士・富田景周による加賀国・越中国(富山県)・能登国の三地方について記した地誌です。

高岡城下が方格設計である点について、ハッキリと京都を模したと述べているので、日本の都市発展史でやたらと引用される文献です。


筆者もその例にもれず、引用いたします。

    〇富山火、瑞龍公徒高岡
町割モ此時改マリ京師の町形ニ倣ヒ作ラルトナリ

大火が起きて富山が焼けたので、前田利長は高岡に築城して移り住んだ。

で、町割はこのとき京都に倣って(方格設計に)作られたのである……という話。


この文献は
「平安時代なんて遠い過去になった江戸時代初期においてさえ、都市は京都のように碁盤の目に作るのが基本だった。京都ブランドは偉大であり、戦国が終わってなお、武将はこぞって自分の権威を示すために城下を京都風にしたのだ」
――なんて論を広げる根拠としてよく引用されます。


だから、上記の一行が引用されたら、たいてい用なし扱いで次の話に移るんですよね。

でも、ちがうんです!ちがうんです!京都ブランドを虎の威とする目的も、そりゃあ少しはあったかもしれませんが、もっと切実な理由で方格設計を選んだんです!


不思議に思いませんか?なぜ、大火で滅失した富山を再建するのではなく、あえて引っ越しを断行したのか。


例の行からすこしさかのぼると、その理由が書いてありました。ここを引用しなければ、せっかく三州志をひもといた苦労が無駄になります。弓だけ持ち出して矢を忘れるようなものです。

    〇富山火、瑞龍公徒高岡
公以為ラク富山ハ立山ニ近シテ風力常ニ激シクシテ救火ニ不便ナレハ在城宜シカラス

と、いうことだったのです!(ジャーン!(効果音))


「前田利長公が思うに、富山は立山《たてやま》に近いためいつも風が強く、火災のとき避難したり消火活動したりするのに不便であるから、居城とするのによろしくない」


おおお、なるほど~。

そして、本論を真面目にここまで読んできた読者様なら、これがただ防災・救民のための慈悲心から出たわけじゃないことは察しがつくことでしょう。


江戸軍学のいずれの兵法も、城下は放火が攻城の常套手段だとしていました。

放火に消極的だった長沼湛斎さえ、手段としての放火を完全否定はしていません。また、敵は当然にそれをやってくるものと考えていました。

前田利長公の時代よりずっとあとになりますが、合伝流兵法は風の強い日に放火せよと指南していたほどです。

富山はたしかに風の強い日が多い地域で、この放火戦略に弱い都市だったと言えます。


で、あれば、前田利長公の高岡への引っ越しは、都市戦における放火戦術対策も考慮してだったと考えられます。


さてさて、風の強い富山から、二上山丘陵の山々が北風を防いでくれる高岡に引っ越せば、放火の備えは十分でしょうか?

答えは否《いな》、断じて否。


それだけでは「救火の便」が十分とは言えません。

せっかく新たに都市を作るのなら、住民がすみやかに避難でき、家から家への延焼が起きにくく、消火隊が一刻も早く現場に駆け付けられる都市設計を目指すのは当然です。


さて、あなたが領主だったとして、そのような避難と消火と延焼阻止に適した町割は、どのような形状だと考えますか?


* 碁盤の目のように区画と区画が分断された都市
* 三叉路の多い、区画と区画がつながった都市

防火にに強い都市はァー……DOCCHI?

もちろん、通行に便利で、区画と区画が分断された都市の方に決まっています。

この点こそ、街路屈曲による防衛術が抱える、大きな論理の破綻です。そりゃあ、屈曲してれば遠見は遮断できるし、敵の突進は防げるかもしれません。

ですが、敵が侵入するまでは、その不便さが防衛側にふりかかってくるのです。通行不便な街路は通行便利な街路にくらべて

* 救援に不便
* 避難に不便
* 消火活動に不便
* 延焼阻止に不便
* 補給に不便
* 伝令に不便
* 指揮官の移動に不便
* 出撃に不便
……なのですから。パニックを起こした住人たちが迷路化された都市の中で右往左往していたら、戦闘どころではなくなります。

以上の不便に甘んじても、遠見遮断と突進防止の利を優先する価値があるでしょうか?


もちろん、ありません。

賢明な前田利長は、まさに救火をはじめとした一連の防衛的利便性を得るために、京都的な方格設計を採用したに、ちがいないのです。


武士がただ京都ブランドにあこがれていただけではないのです。

方格設計を採用したのは、なぜなら、それが便利だったからにほかなりません。

札幌が方格設計なのは、ニューヨークにあこがれたからではありません。

ニューヨークが方格設計なのは、ウェールズにあこがれたからではありません。

便利だったから――単純に、商業でも防災でも行政でも軍事でも、便利だったから、採用されたのです。


便利だったからこそ、応仁の乱以降、京都ブランドが地に落ちたあとも新興都市の多くで「京師の町形」は手本にされたのです。

将来の都市発展が見込まれ、都市計画をしないと人口爆発で詰むのが目に見えていた場合は、特に。


なお、余談ながら、現代において京都は火災死亡者の多い都市となっています。伝統的な古い木造建築が多いためでしょう。


4.5.2. 正司考祺『経済問答秘録』(1841年)

  日本経済叢書.巻22- 経済問答秘録 九巻 – 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950405/126
  ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記


江戸時代の経済学者、正司考祺の著書です。

問答形式で経済論を展開しています。当時の一般向けの社会論入門書だったのではないでしょうか。

経済論であって、兵法・築城術の本ではありませんが、一部に城下の都市設計について記述があります。

市町は阡陌ニ長短無キヲ最上トスレドモ、城下地形に由テ自由ナラズ、筑前ノ福岡・勢州ノ阿濃津等是ナリ、又官道ハ一方稲田ナレバ阡《セン》長シ、然レドモ宅《ヤシキ》裏ハ田地を填メテモ、竪横短長無キ様ニ立ルニ如ズ

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「市町は阡陌(東西南北の意)に長短の差が無いのを最上とする。

だがしかし、城下というものは地形によって自由に設計できるものではない。

筑前の福岡城下や伊勢の阿濃津城下など、その代表例だ。

また、公道は片側が稲田(で、反対側が町人町)ならば、阡道が長くてもいい。(訳注:阡道は狭義では南北道。ここでは文脈から、縦の道と横の道の長い方と解釈します)

しかし(片側が稲田であっても)武家屋敷の裏を通る道ならば、稲田を埋めてでも、横道を通して縦横に長短のない(碁盤の目のような)街路を作るべきである。」

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「天然自然ノ地形ノ人ノ心儘にナラヌ」は荻生徂徠が百年前に述べていたことですが、ようやく再び言及されました。

「城下地形に由テ自由ナラズ」
そりゃそうよって答えが、なぜここまで無視されるのでしょう?そんな面白くない答え、誰も求めてないからでしょうか?


しかし、正司考祺は荻生徂徠とちがって具体的な城下町の名前を挙げました。

これが、後世の小野晃嗣氏の目に止まったようです。具体例って、重要ですね。


正司考祺によるこの指摘について、小野晃嗣氏が『近世城下町の研究』で言及しています。

というか、小野晃嗣氏が引用していたので、私はこのくだりを知りました。

小野晃嗣氏の『近世城下町の研究』は後で取り上げますので、地形によりて自由ならずについては、そのとき考えることにしましょう。


ここでは後半部部分に着目します。道の片側が田んぼならば、分岐のない長い道があってもよいが、武家屋敷地ならば、田んぼをつぶしてでも縦横の道に長短の差がないようにするべきだと。つまり、碁盤の目の街路こそベストであり、武家屋敷地はとくに、そうでなければならないという論です。

してみると、縦横に道が通り1ブロックに長短の差が無い形状――京都的な街路――こそ、(正司考祺の考える)防衛に適した形であったのでしょう。

そのことは、京都の名を出して、実際に述べています。

拾芥抄云「京都ハ……(編注:京都の形状を述べているだけなので省略)」市中の割方モ城地ノ縄張ニ異ラズ、先井田法ヲ以テ割出シテ、阡陌ノ條ヲ以テ町ヲ建ツ、蓋シ地形狭ケレバ其土ニ応ジテ工夫スベシ、市町ハ城地ヨリ澮川通水ヲ難シトス

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「拾芥抄(鎌倉時代の百科事典)によれば、京都は(中略)という形状だった。

つまり、市中(城下)の町割というものも、城地(主郭)の縄張と異ならない。 井田のごとく町を割り、四方に通じた道をもって城下を建設するのだ。

ただし地形が狭いところでは、地形に応じた工夫するべきだ。なお、一般的に市町(城下)は城地(主郭)より、水路に通水させるのが難しい。」

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市中の割方も城地の縄張に異ならない、なんて言っちゃうと江戸軍学者たちから
「そんなわけあるか~い!」
とフルボッコされそうな気が。大丈夫だったのでしょうか、経済学者。


しかし、京都というのは都城制の都市です。都城制の都市とは中国の城郭都市の形式ですから、防衛のためにあの形になっていると考えられます。原理原則に従い、正司考祺は京都そのものが城なのだ、という前提で、市中の割方モ城地ノ縄張ニ異ラズと述べたのでしょう。


そして、江戸時代初期の兵法における縄張りの基本原則は、

城地(主郭)は「ちいさく、まろく」とる
地形がゆるすならば、二の丸や三の丸が本丸を囲むように配置する
上級家臣宅の敷地には「屏うらめぐり道」をあける
城地(主郭)内の、橋なき所に橋を懸け、道なき所に道をあける
城下の街路は「四方きらきらにて」見通しが立つよう、外郭の見切はなるべく遠くに配置する
……でした。

雁木・武者走り・埋門の要も熱心に説かれ、つまりは、城地の内部は移動に便利であることが重視されたのです。


だとすれば、京都のような方格設計の街路は移動に便利なのですから、すなわち防衛に適した形状と言えます。

さすがに、中国で1500年はかけて、あの形になったあと日本に伝わった都城制です。


方格設計の街路を採用した領主たちは、防衛・防災・商業・行政と様々な面のメリットを考慮して、方格設計の採用を決めたのでしょう。

ですから、京都に準じたとされる都市を、ただ慣習的な理由でそうなったと見てはなりません。

古代から続く伝統を盲目的に引き継いでいたのだと考えるのは、中世・近世の人々に失礼です。

江戸時代初期の都市建設ラッシュから約200年後の正司考祺が、京都的な方格設計の用途と効能を正しく理解しているのですから。


あと「市町ハ城地ヨリ澮川通水ヲ難シトス」は、まさに会津若松のケースに当てはまっていますね。


しかし、残念ながら、それでもなお、にんともかんとも、すでに大衆に広まってしまった
「城下にある屈曲は防衛のために、兵法の言う陰陽の縄が用いられたのだ」
という誤解は不動のものになっていました。


後世の小野晃嗣氏は『経済問答秘録』の「城下地形に由テ自由ナラズ」に影響を受けたものの、屈曲による防衛という概念を否定するには至らなかったのです。

4.5.3. 『飯田万年記』(1857完結)


  伊那史料叢書. 第3 飯田万年記. - 国立国会図書館デジタルコレクション
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926866/6
  ※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

長野県飯田の地誌です。飯田城の起源や城下の出来事が記されています。

複数人の著者により書き継がれたものらしく、執筆者・成立年などは不明。

異名類本が多く、そのうちのひとつ『改正実録 飯田御城代々記』によれば、1672年(寛文十二年)に写本したとあり、これを信じるなら江戸時代前期から書き継がれたことになります。

本書では最後の更新となった1857年(安政四年)をもって、ここに登場願いました。


この文献も、地方城下町の町割も京都に倣ったものが少なくなかった証拠として、よく挙げられます。


京都ノ町割ニ準シテ、縦横ニ小路ヲ割。

これだけです。ザ☆一行。

しかも、なかなか悩みどころの多い一文です。

というのも、飯田城下は方格設計があるとはいえ、短冊形を縦列させた町割です。純粋に「京都ノ町割ニ準シテ」とは言い難いからです。

実は京都も一枚岩ではなく、時代の変遷とともに短冊形の街区が生じています。秀吉は京都に御土居を築くとともに「天正の町割」を行って、乱れる一方だった京都の交通網を再整備し、短冊形街路を形成しました。これにより
"平安朝の昔には復らぬまでも、殆んど面目を一新して、都城の形を備ふるやうに"(日本歴史地理学会『安土桃山時代史論』)なったといいます

とはいえ「京都に準じて」の町割をしたと言えば、普通は平安時代の正方形の町割りを指すでしょう。

が、現実の飯田城下ははそうなりませんでした。

飯田城主に返り咲いた毛利秀頼と、彼の死後に城主となった京極高知。彼らが豊臣政権の支配地域に対するマニュアル通りに短冊形の都市設計で町割を実施したと考えられます。

『飯田万年記』の著者が述べた「京都に準じて」が、単に「方格設計になっている」の意味なのか「天正の地割に準じた町割り」の意味なのか、いまとなってはわかりません。

つまり、さほど有益な情報ではないのですが、多くの城下町研究が取り上げている史料でしたので、いちおう本書でも言及した次第です。

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さて、先述した通り、安政四年の次は明治四十四年にジャンプします。

激動の明治のあいだ、人々は無用の長物と化した日本の城について顧みる余裕はなかったのでしょうか。


私としては、この間を埋める史料――誤解に過ぎなかった「防衛のための街路屈曲」が「定説」に変わっていく過程を見つけたかったのですが。


愚痴っても仕方ありません。いよいよ、近代城郭研究の第一人者、大類伸氏にご登場いただきます。まずは、軽く金沢城下についての論文から。


4.5.4. 大類伸『加賀藩国防論』(1911年)


金沢の城郭に就て注目すべきは、其の封土の大なるに比して城郭の小規模なるとなり、(城市を指すにあらず城郭のみを云ふ)是他城にありては城内に重臣の邸第を構へしむれども、本城にありては城郭内には藩主の居第と役所倉庫の類のみにして、臣下はすべて之を城市の間に置かしためなり。(中略)されども金沢にありては一族並に重臣と雖も之を城郭内に置かずしてすべて城下の諸地に散在せしめしのみならず、更に又決して彼等をして一所に集団せしめざりき。是蓋し有事の日直ちに藩士をして城下各方面に就かしむる為なりという。

引用元:『加賀藩国防論』- 史学雑誌第二十二編第三号

まとめると

「金沢の城郭の特徴は、(加賀藩の)領土の広さのわりに、その城郭が狭いことである(ここでいう城郭とは城市(城下)を含めておらず、城郭(主郭)のみのこと)。このため、他藩では城郭の内側に家臣の侍屋敷があるのが普通だが、金沢城の主郭には藩主の住居と役所や倉庫しかない。家臣の屋敷はみな城市(城下)に置かれている。

(中略)しかも藩主の親族や重臣であってさえ、城郭内ではなく城下のあちこちに散らばって住まわせたのみならず、侍なら侍町という風に、決して彼等を一ヶ所に集団させなかった。

これは有事の際に、彼ら藩士をすみやかに城下各方面の問題に対処させるためである」

……となります。明治の文章を「訳す」のは、いかがなものかという気もしますが、平易に読める文章じゃないと感じたら躊躇せずズンドコやります。


さて、この説には問題があります。大藩の代表格とさえ言える加賀藩が、防衛のため家臣を城下に散住させて有事に備えたのだとしたら、なぜ他藩はそれを、積極的に真似しなかったのでしょう。

類例として薩摩の外城制がありますが、薩摩では武士の比率が高かったことと、兵農分離が進んでおらず半士半農の郷士が多かったためであり、加賀とは背景が異なります。このような特殊な事情のない多くの藩は、侍なら侍町、職人なら職人町と階層や職業ごとに集めるのが原則でした。


つまり、これもまた、城下のことを何でも防衛に結び付けて考えたがために起きた、論理の破綻です。


この、家臣の城下散住、侍町と町屋の入り混じり、屈曲街路もごちゃまんと多いのが城下町金沢の特徴であることは間違いありません。

様々な研究者が、そうなった理由を防衛に求めたり(定番)、水路に求めたり(会津でもそうだった!)、諸説各論にぎやかしいホットなテーマとなっています。


ちょっと、金沢城下の絵図を見てみますか?

せーの、ほい(図 4.5.1)。

図 4.5.1: 寛文七年金沢図

図 4.5.2: 寛文七年金沢図(一部)

  引用元:寛文七年金沢図 –ContentsViewFLEX – ADEAC
  https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/1700105100/1700105100100060/kanbun-kanazawa/index.html

うーむむむ、これはすごい。部分部分で方格設計を取り入れてはいますけど、それを台無しにしてる部分の多いこと、多いこと。

これでは
「どうしてこうなった?」
と気になってしまうのも無理ありません。


そして、前田家といえば、豊臣滅亡後は最大の外様大名です。徳川が警戒した大名の筆頭格でもあります。

前田家も表面上は臣従しつつも、いつ何事があってもいいように、防衛のため迷路のような都市を築いたのだ……という主張が出てくるのは自然なことでしょう。


ここまでの調査で、

* 大名が城下の街路を複雑化させた箇所は非常に少ない
    * ましてや城下全体を迷路化させた例は見つからない
* 街路を迷路化させるべきとした兵法指南は無い
* 江戸中期に城下の屈曲を防衛機構と怪しんだのは兵法勉強中の生徒であり、師匠はその疑念を否定した
* 木造建築による遠見の遮断は放火戦術の前に役立たない
* 放火せずとも屋根に上れば、攻め手は遠見遮断を無効化できる
* 街路を屈曲させる防衛機構は、敵が侵入するまでは防御側の出撃・移動・補給・指揮・避難のすべてにおいてマイナスになる
* 証拠とされてきた『盛岡砂子(祐清私記)』の盛岡町割会議は採用できる一級史料ではない

……と、これだけ防衛のための街路屈曲は妄説と考えるに足る材料がそろいながら、筆者自身、金沢城下のような迷路的街路を見ると
「でも、やっぱり、防衛のためにこうなったのでは……」
と思ってしまいます。

長年の考え方を変えるのは難しいものです。


でもでも、やっぱりやっぱり、金沢城下の道が複雑であるのは、防衛のためではないのです。


金沢の城下の複雑化は、様々な理由が考えられます。まず、主郭は舌状丘陵の先端にあり、地図には絶壁が連なるように描かれています。

ここで、丘陵の上と下を結ぶ道は当然に折れが生じたことでしょう。

傾斜がきつい斜面では、道はそうならざるを得ないのです。つづら折りの坂道がつづらに折れるのは、傾斜がきついからであり、観光のためではありません。


主郭のある丘陵は二本の河川に挟まれています。

この河川敷では川がたびたび氾濫し、流路が変わるたびに街路も屈折を余儀なくされ、町はどんどん複雑化したにちがいありません。

見事に形成された河岸段丘が過去の氾濫の多さを証明しています。

金沢の街路の屈曲は、このような地形の影響がまず考えられます。


なんといっても加賀百万石です。もともと人口が多い地域だったと思われます。そこへ、徳川に次ぐ大身となった前田家が入植したわけですから、その大人口が必要とする飲料水を届ける水路が必要だったのかもしれません。

あるいは、二本の河川に挟まれた土地であるので水不足の心配はなく、むしろ排水処理のため排水路こそ必要だったのかもしれません。

いずれにせよ、会津や大垣と同じく、水路による街路への影響が考えられます。


そのほか、街路が屈曲する理由は様々に考えられ、竹を割ったような1行まとめ回答は存在しえません。


ですが、侍屋敷と町屋が入り乱れて存在する理由は防衛に答えを求めなくても大丈夫です。

石川県史をひもとくと、その答えは見えてきました。


  石川県史(1928) 第二編 第二章 加賀藩治創始期 第九節 金澤城及び城下 – ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
  https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020/ht020240/


當時金澤城内には、他の城郭に於いて見るが如く、大身巨祿の者をして二ノ丸・三ノ丸に住せしめ、工商の住する堤町・南町も亦之に接近したりしが、文祿元年石壘を築きて城地を擴張せしとき、悉く家臣を城外に移し、堤町と南町とは現今の地に轉ぜしめき

最初は他藩と同じく二の丸・三の丸に家臣を集住させていたとあります。

大類氏の主張する
「有事の日直ちに藩士をして城下各方面に就かしむる為」
は、初期の金沢城下では考えてなかったことが判明しました。


そして、藩は主郭を石垣化して城地を拡張するにあたり、いったん二の丸・三の丸の家臣を城下に引っ越しさせました(文禄元年(1593))。

城は小さく丸くが基本とはいえ、加越能の三ヶ国を支配する――それだけ大量の家臣が出勤して働く――行政の庁舎として、金沢城の主郭は小さすぎたのでしょう。


ここまでは問題ありません。主郭のある丘陵が小さく狭いため、侍屋敷エリアを主郭の外(平山城なら、丘陵の下)に設けることは、大藩ではよくあったことです。


問題はここから始まります。

慶長四年利長の金澤に入りし時、舊と越中に在りし多數の臣僚從ひ移りしかば、城下殷昌を加へ、市制漸く整ひ
利長の高岡に隱棲せし後、十七年臣僚の一部を金澤に返し、十九年利長薨じて遺臣悉く歸住するに及び、市區益擴大し

  第二章 加賀藩治創始期 第九節 309~310ページ

次いで寛永二年金澤の市區改正あり。八年の回祿によりて又少しく變更し、十二年の災後に至りては更に大に町割を改めたりき。
萬治元年利常の薨後、小松に在住したる諸士の金澤に移住するに及び、人口頓に増加したりしかば

  第二章 加賀藩治創始期 第九節 310~315ページ

石川県史は金沢城下の拡大の変遷について述べているだけで、侍と町人が入り混じって住むようになった理由を述べているわけではありません。

なので、その理由はこちらで見出さなければなりません。

基本的な材料は引用した四つの段落。これに書かれていないけど確実な史実をひっつかまえてふんじばり、レンジで5分、アラ不思議。時系列のできあがり。

1600年
   前田利長が金沢入り。利長は父・利家とは別に自分の家臣団を持っていた。そのためもともと越中に居た多数の家臣も連れて金沢に移住した。金沢城下はおおいに混雑し、しばらくして、ようやく市制が整う
1605年
   前田利長、隠居。自分の家臣団を引き連れて越中に移住した。前田利常が藩主となる
1612年
   前田利長、一部の家臣を金沢に帰す
1614年
   前田利長、死亡。家臣団、金沢に帰る。混雑した金沢の市区は大いに拡張
1625年
   町割を改正
1631年
   また少し町割を改正
1635年
   火災後に町割を大いに改める
1639年
   前田利常、隠居。自分の家臣団を引き連れて小松に移住
1658年
   前田利常、死亡。家臣団が小松から金沢に帰る。金沢の人口はすこぶるに増える


おわかりになりましたでしょうか。利長・利常の時代は大大名・前田家ともなると、藩主が隠居するだけで小さな城下町が出来上がるくらいの大騒ぎ、大人数のおひっこしになったわけですね。


さて、1605年に利長が隠居したときのこと。家督を継いだ利常は1600年まで人質生活をしていましたから、まだ自前の家臣団を持ってなかったか、持ってたとしても少人数な家臣団でした。


ですから、利長が家臣団を連れて越中に引っ越したあと、金沢城下の侍屋敷エリアは、空き地が目立つ未完成のジグソーパズルのような状態になります。

そのまま空き地にしておくのももったいない。みっともない。侍町と町屋は分けるのが原則とはいえ、ここは「百姓のもちたる国」と呼ばれたほど武士以外の力が強かった加賀です。

有力な商人や職人や豪農に、空き地になった元・侍屋敷の土地が分譲されたのでしょう。飴とムチの飴ちゃんです。


ところが9年後、利長が亡くなり、越中へ移住した家臣団たちがゴッソリ帰ってきました。

今住んでる町人に、武士が帰ってきたから出て行ってくれとは、なかかな言えないものです。

うかつなことをして大規模一揆でも起きたら、徳川に介入の口実を与えるようなもの。転封やお取り潰しだってありえます。

しかたなく金沢藩は、侍町と町屋が混在したまま、戻ってきた武士の居住地は市区の拡張で対処しました。1614年の事です。


1625年~1635年の町割の改正は、そのような混乱の中、なんとか秩序を保とうと苦心した痕跡にほかなりません。

1635年の火災のとき、都市計画担当者は内心、しめたと思ったことでしょう。焼けた市区をこれ幸いに「大いに改めた」のです。

秩序は取り戻せたかに思えました。


が、今度は前田利常が隠居。もう、この頃には自分の大家臣団が出来上がっています。

父の利長とやったのと同様に、自分の家臣団を引き連れて、小松へ引っ越します。

小松城は金沢城の二倍ほども広く、天守代用の御三階櫓もあったと伝わりますから、大身・小身とも相当な人数を連れての引っ越しだったのでしょう。

町割を直しに直した金沢の侍屋敷は再び作りかけのジグソーパズルになりました。


それから19年。そんだけたてば、やっぱり空き地にも誰かが入って埋まります。

そして利常の死去とともに、家臣団がゴッソリ戻ってきて……
いま住んでる人を強制退去させると一揆になりかねない……
幕府に介入の口実を与えるわけには……
市区の拡張で対処……


これが、金沢で起こったことのすべてだよワトソンくん。


では、金沢で侍屋敷が町屋の中に散在するようになった理由を簡潔にまとめましょう。

1. 藩主隠居で家臣が大量転出。空き地は町民に分譲。武士宅と町民宅が混在するようになる
2. 隠居した藩主の死去で転出家臣が大量に帰還
3. 町民の強制退去は困難。戻って来た武士の住居は市区を拡張することで対処。
4. 1行目からもういちどくりかえし


以上です。


しかし、『加賀藩国防論』は、加賀国についての論文に過ぎません。 本筋に戻りましょう。次の文献も引き続き大類伸氏の著作です。近代城郭研究は次の書によって開かれたと言っても過言ではありますまい。


時代は大正に入ります。日清・日露戦争の勝利によって、日本人が日本人であることに自信を取り戻した時代、西洋にばかり向けていた目を、自分たちのアイデンティティに向け始めた時代です。


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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(4)それは盛岡砂子から始まった

https://note.mu/mitimasu/n/n550c8b418510

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近世大名は城下を迷路化なんてしなかった:第4章(6)大類伸『城郭之研究』(1915年)
https://note.mu/mitimasu/n/ne241684069e3

※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。


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mitimasu

マンガ家。主著に『浅倉家騒動記』 『日本全国波瀾万城』 http://blog.masuseki.com

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった

近世大名は防衛のため城下の街路を、敵が容易に近づけないように屈曲させたという。しかし各地の城下絵図を見るときれいな碁盤目をしてる城下が少なくない。いったい、通説はどの程度、真なのだろうか?調べてみたところ「どの程度」どころか……
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