村上ようがい

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(18) 第4章 4.6 文献調査-江戸時代後期~昭和④


### 4.6.7. 土木学会 『明治以前日本土木史』(1936年版)


出典: 土木学会『明治以前日本土木史(1936年版)』
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

昭和11年刊行。むだ話はせず、とっとと引用しましょう。

> 城下町に採用せる都市計画は、上代の難波京を始め平城京・平安京と同じく碁盤型街路に依り、放射型街路は殆んど見当らず。唯僅に宇和島城下に於いて放射型採用の例を発見し得るに過ぎず。他は多く平安京の町割を範とせし事明にして、高岡・飯田の町割に際しては、京都の町割に準じて縦横に道路を造りし事記録に見ゆ。(中略)。然れども碁盤割のものも城下の地形に由りては、常に必ずしも市区整然とは区画せられず、福岡の如き大領主の城下町も殆んど一往還路を中心とするに過ぎざる小城下の観を呈したり。之は一面博多に接続せるが為ならんも、又海岸に接近して碁盤割を実施する余地なき地理的条件に因りしならん。又伊勢の津の如きは区画整然たる上野城下の計画者たる藤堂高虎の計画なるに拘らず、甚だ整備を欠きたるは、津の地理的欠点に左右せられたるものなるべし。又軍事的欲求により人為的に歪を附せられたるものあり。即ち盛岡に置いてはひづみを附して見透しを防ぐとあり。宿駅に於いて見るが如き単線的街路よりなる根城・八上・世田谷新宿・佐柿等に於いては、┗┓の如き鈎状の歪あり。彦根・松坂等碁盤目の基礎の上に立つ都市計画に於いても多くの箇所に歪の設けあるを見る。又町の非常に長き場合は、一直線の長き町を避け遠見を遮断せり。近江日野に於いては弦線状に迂回せるを見るべし。

一読してわかる通り、小野晃嗣氏の『近世城下町の研究』を、ほぼそのまま要約しています。

コピペと言ってもいいレベルです。

『明治以前日本土木史』は複数著者による本ですから、小野氏が執筆協力したのかとも思いましたが、執筆者に小野氏の名前はありませんでした。

戦前とはいえ、守ろう著作権! という気持ちがふつふつとわき上がりますね。

小野氏がマメに挟んだ出典の明記もバッサリ省かれており、どうも、あんまり行儀が良い本とは言えません。

こんな本でも、近代以前の土木史を研究するにはまずコレ! という金字塔扱いの本になったのですから、世の中、やったもん勝ちやでしかし。怒るでしまいにゃ。

それはさておき(得意技)。

内容は、いま言った通り、ほぼ『近世城下町の研究』の要約です。 新しい追加要素はありません。要点を上手にまとめてあると言っていいでしょう。

しかし、土木学会は大変残念な失敗を犯しました。

まとめるにあたり、オリジナルのもっていた時系列の記述を省いてしまったのです。

結果としてどういうことになったか、対比させてみましょう(参考までに、大類伸氏の論も並記します)。

画像5

表 4.5.1. 大類氏・小野氏・土木学会の論の時系列

小野氏の論が時系列的には
「軍事的欲求によって歪が生じたのは近世以前の話。近世以降は市区整然たる碁盤型町に向かっていった(=江戸時代になって道の屈曲が減った)
であることを見落としてはなりません。

大類氏の
「武士はもともと城下になにかするということはなかったが、江戸時代になって幕府を怖れて城の新築・増改築が自由にできなくなったので、ひそかに城下町の街路を屈曲させて防衛施設としたのである(=江戸時代になって道の屈曲が増えた)」
とは、逆の主張なのです。

戦国後期から近世初頭にかけて、ひつみや丁字路が増えた時期もあったけど、最後は近世的欲求により、京都的碁盤目の街路になったんだよ、と。小野氏はそう、述べたのです。

過程の話である松坂や近江日野の話を後半に持ってきてしまった小野氏の構成にも誤解を招く要因があったかと思いますが……。

最終的には各地の城下町とも、京都的な市区整然とした町割になったというのが、小野氏の主張です。よって、
「太平の世になってから、大名が平和の側面にかくれて城下の警備に苦心した結果、街路が屈曲したのだ」
という大類氏の説を、採用していないのです。

この点を土木学会は見落としました。時系列に関した記述を省略してしまいました。

にもかかわらず、構成を入れ替えることもなく『近世城下町の研究』と同じ順序で内容を要約したために、ここで大きな問題が生じてしまいました。

「城下町とは近世的欲求により市区整然たる碁盤型街路であり、かつ、軍事的欲求によって遠見遮断のためのカギ型街路を備えている」
という、矛盾をはらんだ概念が成立してしまったのです。

以降、日本の城郭研究はこの奇妙な概念に振り回されることになりました(『明治以前日本土木史』がこの分野における金字塔で基本的な教科書あることは、もう述べましたね?)。

個々の都市研究において「××の街路が複雑な理由は地形(あるいは商業または利水)であった」と述べられることはあっても、「そもそも近世大名が防衛のために都市の街路を複雑化させたという考え自体が間違っているのではないか?」と言う声は、ついぞ挙がらなくなったのです。

### 4.6.8. 長尾正憲『岡崎城下町の歴史地理的研究』

■ 二十七曲がりで有名な岡崎城下

出典: 歴史学研究 第8巻7号(1938年)
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

岡崎城下(または岡崎宿)の街路は「二十七曲がり」と呼ばれていました。

かの蜀山人は「四十八曲がり」と数字をブーストさせてまで、屈曲の多さを狂歌でからかっています。

この岡崎の二十七曲がりは、防衛のために城下の大通りに屈曲が設けられた実例として、またその施策が町民の皮肉の対象となっていた例として、よく挙げられます。

長尾正憲氏の『岡崎城下町の歴史地理的研究』は、その岡崎城下の街路に屈曲が生じた理由を研究した小論です。

> 近世都市はその都市計画に際して、多くは碁盤型街路網を理想とし、就中十字形の組合せを持つものが少くなかつた。然し、事実に於ては城下内部では主要道路は屈曲性を帯ぶることが多かつた。その理由は⑴地理的条件殊に地形にあった。岡崎の旧市街地を見ると、丘陵を控へてゐる城北方面には、碁盤割が見られること少ないに比し、低平開豁な城東方面に於ては比較的に幾何学的の道路形態が見られる。⑵軍事上の要求に従つてゐた。戦闘の場合を先づ第一に顧慮すべき運命を負つていた近世城下町は、遠見・遠視が遮断せられ、弓矢・銃弾等の射通不能なることを有利とした。従つてこヽに道路は歪を要求される。⑶経済上、地方消費・分配の中心たらしめんとの城下商業繁栄策の意図もあった。「町数五十四町・二十七曲あり」と通称せられ、蜀山人の狂歌に「岡崎の城下は四十八まかりける女郎の文の長さよ」と詠ぜられた岡崎市中に於ける国道の屈曲性が、徒歩交通の時代に於いては経済的にも大なる意義を持つてゐたことは容易に想像し得る。
>  道路の幅員は軍事的見地に立つと、狭ければ敵兵の乱入防止に便であり、広ければ城内軍隊を繰出すに便である。何れにしても主要街道が必ず城郭の直ぐ下を通過せしめられるのはこの目的のためである。
>  この軍事的立場以外に、両側建築の高低・採光・通風・交通量等によって道路の幅員は決定される。岡崎に於ては、享和元年に於て略ゝ平均四間一尺至二間であった。

■ 歪が生じる理由3つ

基本的に理想的都市設計である城下町の街路に歪が生じる理由を長尾氏は3つ挙げています。

(1) 地理的、とくに地形的な理由による屈曲

岡崎城下では、丘陵地帯では方格設計が崩れてて、平坦な場所では幾何学的街路になっていると述べています。まさしく
「城下地形に由テ自由ナラズ」
だったわけです。

長尾氏は第一の理由にこれを挙げ
「殊に」
と強調しています。すなわち、道路が屈曲性を帯びる最大の理由が地形であるとしているのです。

(2) 軍事的欲求による屈曲

遠見遮断のための街路屈曲は、この時点で完全に定説となっていたようです。長尾氏もこれを無視できず、ましてや否定はできなかったようです。

特に目新しいことが述べられているわけでもありません。

屈曲する理由3つのうち、これだけが岡崎という土地に関係なく成立する普遍的な理由であるためか、『岡崎城下町の歷史地理的研究』でも、それ以上の掘り下げは見られません。

(3) 経済的理由による屈曲

この『岡崎城下町の歷史地理的研究』の主題はこの部分だと言っていいでしょう。

論文の半分以上は城下の商業町・職人町・宿場町・伝馬町の都市形態の成り立ちや変遷に注力されているのですから。

経済的理由の屈曲というと松坂が思い出されます。松坂では、おかげまいりブームの繁栄により、有力商人が自分たちの美意識の発露とコマーシャル効果を期待して意図的に隅違いを造ったのです。

長尾氏の論は、この、地形でも軍事的理由でもない、それまで言及されてこなかった第三の理由について考察した、画期的な内容でした。

さて、では、岡崎でも松坂と似たようなことが起きたのでしょうか?

長尾氏は、
「屈曲性が経済的に大いなる意義をもっている」
と説きます。どういうことでしょう。

かつて蒲生氏郷は日野城主を継いだ後、街道を通る旅人に対して日野城下を迂回せず、かならず立ち寄るように御触れを出しました。

商業地は、客が立ち止まってくれなければ商業活動が発生しないのです。

ただ流通のことを考えれば、城下の街路は交通便利であるにこしたことはありません。

ただし、商店街という狭い範囲に限って言えば、屈曲を作り道を狭めて交通不便にすることが、商店街に経済効果をもたらす場合もあったのです。

現代においても、交通渋滞する十字路が立体交差になったら、角の商店の売り上げが落ちてつぶれてしまった……など、よく耳にする話です。

デパートの二階と三階のあいだでエスカレーターがつながっておらず、歩かされるのも、こうした効果を期待してのことです。

ウェブのショッピングサイトも無関係な商品が並び、私たちはオンライン上の交通不便を強いられているわけですが、それもこれも売り手にとってあれが利益の出る形だからです。

岡崎は東海道における重要な宿場町としてすさまじい繁栄を遂げました。

商人たちは、商店街を屈曲させ、道幅を狭めて人々の足を止め、商品が目に入るようにし、売り上げを伸ばしたのです。

さらに、長尾氏は幅員(道幅)は
「両側建築の高低・採光・通風・交通量等によって」
変化すると続けます。

このあとの論では採光や通風・交通量が市区の成り様そのものに影響を与えることが、主張されます。

いくつかとりあげると、こうです。

* 街路の南にある店舗は日陰を作るので夏において有利
* 街路の東にある店舗は北風で土埃(つちぼこり)が入るので冬は不利
* 街路の北にある店舗は冬に暖かいが、夏は生鮮商品が傷む
* 岡崎宿は伝馬の重要拠点であったため、伝馬町の道幅は商店街と違って、広くとられている

いちいちもっともで、こうしたこまごまとした理由の折衷(せっちゅう)によって、城下の街路が形成されていったことに、疑う点は少しもありません。

一見、なんのための屈曲かわからなくても、微高地を避けるためだったり、水を得るためだったり、日陰を作るためだったり、土埃を避けるためだったり、事情はいろいろなのです。そう、いろいろ。

生鮮食品を扱うから強い陽射しで傷みやすい南向きの店舗を避けたり、呉服を扱うから土埃の入りやすい西向きの店舗を避けたり、現代人にはわかりにくい事情すら、あります。

理由はいろいろ。あたりまえの話です。

なぜ、後世の私たちは、そのあたりまえを拒否して
「城下町の街路は敵の遠見を遮断するため屈曲した」
という答えを唯一の解にしてしまったのでしょう?

### 4.6.9. 豊田武『日本の封建都市』(1952年)

■ 文献研究の権威

出典: 豊田武『日本の封建都市』
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

とうとう戦後に到達しました。大丈夫、さすがにこの調子で21世紀まで追っていくつもりはありませんよ。もうすこしの辛抱です。

豊田武氏は日本の中世経済史研究で大きな功績を残された歴史学者です。

> 主な街道は城郭の前面を通るのを常とし、多くは外堀から一、二町を隔てさせ、大手に向かわせない。街道は城下を通過する毎に必ず幾度か屈折し、岡崎の如きは、東海道が二七かい曲折して、二十七曲と呼ばれた程であった。ひとり主要な街道ばかりでなく、城下のあらゆる街路がほとんどすべて斜交し、しかも極度に屈曲せしめられている。金沢でも「金沢の七曲り」という語があるほどである。これ等は敵の侵入する際、城下城濠の遠見や見透しを妨げ、弓矢・銃弾等の射通を不能とし、防御に便するためであることはいうまでもない。伊勢の松坂も、ある市街は電光型に屈曲し、会津若松では街路の交叉点に喰違いが設けられ、近江日野の町は弦線状に屈曲している。加賀の金沢では道路の要所に、盛岡では町端れに、枡形(ますがた)が配置され、十字路を避け、丁字路・鉤型路を多くし、袋小路を随処に設けた。これも屈曲点の陰に伏兵を置き、敵兵を到るところで混乱せしめる戦略から出ている。

■ 岡崎の街路は斜交し極度に屈曲?

岡崎城下の屈曲が、軍事目的よりも、地形由来と商業目的を主要因として屈曲したことは、長尾正憲氏の論で明らかにされました。

しかし、
"ひとり主要な街道ばかりでなく、城下のあらゆる街路がほとんどすべて斜交し、しかも極度に屈曲せしめられている"
とまで言われると、ちょっと気になりますね。見てみましょう。

おーい、岡崎城下やーい!(図 4.6.28)

4628_岡崎

図 4.6.28: 岡崎城下と岡崎二十七曲がり

出典: 日本城郭史資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11038892/70
※白線は筆者による加筆

戦前、昭和年間に陸軍築城部本部が作成した地図に加筆しました。白い線が推定「岡崎二十七曲がり」です。

さすがにこれを
"あらゆる街路がほとんどすべて斜交し、しかも極度に屈曲"
と表現するのは、お茶目が過ぎると思いますね。おおむね直角の曲がり角ですから。

むしろ長尾氏の言う
"丘陵を控へてゐる城北方面には、碁盤割が見られること少ないに比し、低平開豁な城東方面に於ては比較的に幾何学的の道路形態が見られる"
が真であることがハッキリしました。街路が屈曲を帯びる理由は
"殊に地形にあった"
の通りなのです。

■ 金沢の七曲り?

金沢の七曲りと呼ばれる場所は複数あります。有名なのは「大衆免七曲り」と呼ばれるもので、現在の森山町から、卯辰山山麓の寺社群へゆるやかに登っていく道です。参道と言っていいでしょう。

すなわち、屈曲は地形由来です。

いまひとつは「三社七曲り」と呼ばれるもので、現在の金沢市長土塀にあります。つまり犀川のすぐそばであり、かつての流路が道になったか、流路に沿った道か、自然堤防の上に出来た道か、いずれかと思われます。

すなわち、屈曲は地形由来です。

金沢市にはそのものずばり七曲町という町もありますが、これは金沢城から8km以上も離れた郊外にあり、城下とは言えません。

なるほど道はヘアピンカーブの連続ですが、丘陵地帯なので当たり前です。

すなわち、屈曲は地形由来です。

さらには、もっとも有名な「大衆免七曲り」は金沢城の北側を流れる浅野川よりさらに北にあります。事実上の外濠すなわち惣構の外側にあるのです。厳密に言って、ここは城下ではありません。

もちろん人口爆発を市区拡大で乗り切った金沢です。江戸中期以降に、ここも事実上の城下と見なされたことでしょう。しかし、住民の考える金沢城下の範囲は変化しても、防衛プランとして外郭ラインの外という事実は変わりません。ここは遠見遮断を設ける理由がきわめて薄い場所なのです。

「三社七曲り」は金沢城に対して同心円的に伸びるヨコの道で、金沢城に接近するタテの道ではありません。この方向に遠見遮断を設ける理由も弱いと言わざるをえません。

■ 伊勢松坂の電光型街路?

松坂が商業的理由で屈曲したと考えられることは、すでに述べました。

防衛目的ではありません。

■ 会津若松の喰違い交叉点?

用水を南北に流す目的で水路が丁字路になり、その影響で交差点に食い違いが生じた可能性が高いことは、すでに述べました。

防衛目的ではありません。

■ 盛岡は町端れに枡形、城下に鉤型路・丁字路・袋小路?

町の辺縁部には外郭虎口があるものだとすれば、それに伴う枡形が設けられることに不思議はありません。

それは城地の防衛設備であり、城下の街路屈曲ではありません。

鉤型路・丁字路・袋小路はどうでしょうか?

江戸時代前期の正保城絵図では、そのような傾向は見られませんでした。

地形に由来しない行き止まりは、わずかに一ヶ所だったのです。

しかし、江戸時代は約270年続きました。江戸や金沢ほどでなくとも、盛岡だって市区の拡大はあったはずです。

その後の変化を見なくては、鉤型路・丁字路・袋小路が無いとは断言できません。

松坂のように江戸中期に大きく隅違いが生まれた都市もあることですし。

というわけで、江戸中期、寛延(1748年~1751年)の盛岡を見て見ましょう。寛延は宝暦のひとつ前だと思うと、なんとなくわかりやすいですね。正保からは約百年後。

4629_寛延盛岡

図 4.6.29: 寛延盛岡城下図

出典: 盛岡市公式ホームページ
http://www.city.morioka.iwate.jp/index.html
※加筆は筆者による

残念ながら、豊田氏の言うほどには、街路は複雑化していなかったようです。

図 4.6.29には示していませんが、地形由来と考えられない(道の途絶えた先に川や山や田畑がない)行き止まりは二ヶ所でした。積極的に袋小路を増やしたとは、とても言えません。

塁濠に関与しない、理由不明のクランクも一ヶ所でした。

交差点の総数は約1.5倍に増加していました。

「十字路を避け、丁字路・鉤型路を多くし」
と断言した豊田氏の期待に反し、ノーマル十字路の比率は1%上昇、丁字路は6%減少、塁濠に関係しない、城下のクランクは4ヶ所から1ヶ所へと減少していました。

クランク十字路(食い違い十字路)は5%ほど上昇しています。

丁字路の減少分とクランク十字路の上昇分がおおむね一致するため、
「三方向にしか進めない丁字路を強引につなげ、クランクはあるものの、ともかく四方に通行できるようにした」
と見るのが妥当でしょう。

これも、交通便利に向かう都市の正常な進化の現れなのです。

つまり、全体として盛岡は江戸前期から中期にかけて、小野晃嗣氏の主張通りに
"近世的欲求が市区整然たる碁盤型町に向かって"
いったのでした。

軍事的欲求により積極的に歪が設けられたのは拡張された外郭虎口(城地)であり、城下は無関係だったのです。

■ 豊田氏は実測地図を軽視していたのではないか?

松坂の隅違いが商業目的由来であること、会津若松のクランクが利水施設由来であることは近年の研究ですから、この点で豊田氏に落ち度はありません。

しかし、岡崎城下を
"ほとんど斜交し極度に屈曲"
と述べ、盛岡城下を
"十字路を避け丁字路・鉤型路・袋小路が加えられ"
としたのは、明らかに実測地図との整合性を確認してないか、無視しています。

東北大学(宮城県)で教鞭をとっていた豊田氏なら、盛岡城下へ実際に現地踏査に行くことも、さほど難しくはなかったはずです。

越後村上城を放射状街路に分類していた件はどうでしょうか。

村上市の実測値図を見ていたならば、その街路を放射型と見なすのは一般的な感覚として難しいのではないかと思います(図 4.6.30)。

4630_村上

図 4.6.30: 明治初年村上城下

出典: 明治初年村上城下絵図
(村上城跡保存育英会所蔵)
※寛政年間(1789~1800)測量に基づく

かといって、豊田氏が何の根拠もなく、村上城下を放射型にしたとは考えられません。

豊田氏が村上城下を蜘蛛の巣状、放射型街路だと判断した材料は何だったのでしょう?

憶測になりますが、答えは『越後国瀬波郡絵図』に描かれた「村上ようがい」だと筆者は考えます。

4631_村上ようがい

図 4.6.31: 越後国瀬波郡絵図 - 村上ようがい

出典: 越後国瀬波郡絵図 文化遺産オンライン
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135594/2

これをそのまま採用すれば、蜘蛛の巣状と表現してしまうのも無理はありません。しかし、これが実測地図ではないことは一見して明らかです。

こうした岡崎・盛岡・村上のケースから考えるに、豊田氏の研究は狂歌などの文献史料や当時の国絵図などを重視しすぎであり、近代的な測量地図や地理研究を軽視していたと言わねばなりません。測量地図との不整合をまるで意に介していないのです。

■ 袋小路・丁字路・食い違い交差点も防衛のためとした初出

豊田氏はさらに、大きな爪痕を残していきました。

袋小路と丁字路、さらにクランク十字路(食い違い交差点)も、防衛のためにそうなったとしてしまったのです。

ん? してしまった? じゃあ、それまでは、されてなかったの?

そう。そうなのです。

大類氏は「故意に屈曲させて」としか述べていません。小野氏は「人為的に屈折」「歪の設け」と述べたのみです。

長き町の「ひつみ」が一本道の屈曲を指しているのはもちろん、碁盤目都市に設けられた「歪」は、大類氏・小野氏とも、その例に挙げたのは外郭虎口でした。丁字路や食い違い交差点のことではなかったのです。

袋小路、そして丁字路やクランク十字路などの「交差点」をも防衛のためのものであると明言したのは、私の調査成果では、1952年の豊田武『日本の封建都市』が初見です。

2020年から見て、たった68年前のことでしかありません。

日本土木学会『明治以前日本土木史』(1936)は「喰違い」の語を用いていますが、食い違い虎口という用語があるように、鈎型路の別の言い方とも受け取れます。この語が食い違い十字路を指しているとは断言できません。

逆に言えば、城下の屈折は防衛のためだと信じて疑わなかった大類氏・小野氏はなぜ、袋小路や丁字路、クランク十字路に言及しなかったのでしょうか?

大類氏・小野氏の論は戦前に執筆され、豊田氏の論は戦後に執筆されました。ここに大きなヒントがあります。

自動車の普及。

それが研究者たちの意識を一変させました。

■ 馬や大八車はクランクをいやがらない

自動車とは基本的に、四輪の乗り物です。なにを当たり前な、とお思いでしょうが、この前提をよく吟味してください。

我々がクランク十字路をやっかいに思うのは、その場での旋回が難しい四輪自動車に乗っているときです。

徒歩がクランク十字路に不自由しないのはもちろん、馬や駕籠や二輪の大八車も、方向転換にさほど苦労はしないのです(逆に言えば四輪の大八車が江戸時代に普及しなかったのはその場での方向転換が難しかったからです)。

ですから、自動車普及以前の社会に生きていた大類氏・小野氏はクランク十字路が通行不便であるという意識がそもそも低かったと考えられます。

両氏は十字路とクランク十字路をあまり分けて考えていなかったかもしれません。分けるにしても、俳諧と連歌、小太刀と脇差と短刀くらいの差しか感じていなかったことでしょう。

事実、会津若松では商人町にクランク十字路が連続しているわけですが、小野氏は会津若松を「市区整然」になった町の例としていました。

しかし、戦後のマイカー時代の洗礼を受けた豊田氏は、そうは感じません。丁字路もクランク十字路も、直進を阻み、一時停止させられることの多い、糞糞アンド糞ゴミ交差点でしかありません。

そんな豊田氏が「防衛のための街路屈曲」という城郭研究界の伝統文芸を自分の言葉で書こうとしたとき、ついついそこに丁字路や食違い交差点を足してしまうのは、避け難いことだったのでしょう。

仮に1936年の日本土木学会が喰違いをクランク十字路の意味で使っていたとしても、おかしくはありません。まさに1935~1936年に国策で国産自動車が本格的に生産され始めたのですから、土木に従事する人々はいちはやくドライバー視点で道路を見るようになっていました。

そして戦後の読者もまた同じくクルマ社会の洗礼を受けていました。
「城は簡単に近づかせないため、城下に丁字路やクランクを増やした」
という論理は
「実感として非常によくわかる」
ものだったのです。

大類氏、小野氏ともに、屈曲はあくまで「二町先を見通させないため」を主目的とした仕組みだと主張したにすぎません。

"敵兵を到るところで混乱せしめる"
なんて、江戸時代の甲州流軍学の生徒も、『祐清私記』および『盛岡砂子』も、大類伸氏も、小野晃嗣氏も、土木学会 『明治以前日本土木史』も述べていないのです。わずかに松坂権輿雑集の久世兼由が「兵伏のため」としているくらいです。戦前の人間には、丁字路や食い違い十字路で混乱するという発想が無いのです。

"敵兵を到るところで混乱せしめる"
は、豊田氏がそう思い込んで筆が滑ったお茶目であり、残念なことに後進の学者たちに大きな影響を与えてしまいました。

学者ですら、それが事実ではないと気づくのは難しい時代に突入していました。学者も読者も、豊田氏と同様にマイカー時代の洗礼を受けていたからです。

城下の丁字路やクランク十字路が防衛のために増やされたのだという文言が拡散され定着するまで時間はかかりませんでした。

筆者は『信玄全集末書』での生徒の誤解から、祐清私記や松坂権輿雑集で誤解が一般化するまで五十年ほどしか経っていないことに驚きましたが、そう、驚くことではなかったのかもしれません。

なお、袋小路については豊田氏が何を根拠としたのか不明ですが、仮に『盛岡砂子』だとしたら、すでに述べた通り
"当所は諸人往来なく袋のことくにして地賣地商を本とす"
の「袋のことく」を、城下に袋小路が多いと読むのは誤読です(4.5.を参照)。ましてや袋小路をたくさん作れなどとはどこにも書いてありません。

### 4.6.10. 原田伴彦『日本封建都市研究』(1957年)

■ 「城下街路の屈曲で防衛する」説の完成形

出典: 原田伴彦『日本封建都市研究』
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

「もはや戦後ではない」の言葉で戦後復興の終了が宣言された1956年の翌年の本です。長々と続いた第4章の文献調査も、これがラストとなります。

>  城下町とは読んで字のごとく城砦都市であるから、防衛的性格をその重要な得失としたことはいうまでもない。例えば街路の如きも原則として碁盤型に整然と町割されたのであるが、その細部において袋小路・鉤型路・弦状路・電光型路、あるいは交叉路の喰い違い等が設けられ、遠見遮断が配慮されたこと、その代表的なものは岡崎城下町内で東海道が二七回曲折していること、蜀山人の狂歌に「岡崎の城下は四十八まがりける女郎の丈の長さよ」とあるなどは、すでに故小野均氏の城下町に関する諸労作でよく知られたところである。

言説がほぼ、21世紀の現在で広く流布する形になりました。小野均(小野晃嗣)氏の諸労作を踏襲しながらも、
「一つは地理的条件により歪を生ずる」
の部分が失われ、ここで荻生徂徠や正司考祺の指摘した、地形によって都市設計は自由にならないという当たり前すぎる指摘は、日陰に追いやられてしまいました。

原田氏は小野氏の述べた
「近世的欲求が市区整然たる碁盤型町に向かって行く」
という時系列変化も
「その細部において」
という条件付けで、碁盤型でありながら同時に迷路であるという変則的な解釈をしています。

細部において迷路化しても幹線が碁盤型なら、攻城軍の障害にならんだろ、というツッコミを、どうして誰もしなかったでしょう。
執筆者本人も、その点は気にならなかったのでしょうか?

仮に敵の侵攻を食い止められるくらい
「袋小路・鉤型路・弦状路・電光型路、あるいは交叉路の喰い違い等が設けられ」
てたとすれば、それはもう
「細部において」
というレベルでもなければ
「原則として碁盤型に整然と町割され」
でもないでしょう。

しかし、もう、どうにもなりません。基礎資料となった『明治以前日本土木史』が碁盤目都市の基礎に立つ城下にも多くの歪があると断言してしまったのですから。

この矛盾を解決するには「原則として」「細部に於いて」といった条件で例外処理を行い、釈然としない点には目をつむるしかないのです。


■ 馬の突進を屈曲で防ぐという概念の初出

> 道の狭さと多くの屈曲点は弓矢・銃弾の射通しを不可避にし、軍馬の疾駆を困難ならしめることなどの上で防衛に甚だ便であった。

「軍馬の疾駆を困難ならしめる」!!!
で、出た~~~~~。

なんということでしょう、城下の屈曲で騎馬武者の突進を止めるという概念は、なんと20世紀後半に入ってからようやく! 初めて! 現れたのでした。

*「攻め急ぐのは厳禁」(甲州流・北条流)
*「下馬して安全確保してから進め」(越後流・長沼流)
*「木戸を設けて不審者の侵入を防ごう」(荻生徂徠)
*「てゆーか馬がもう時代遅れ」(合伝流)
*「マキビシや杭やスパイクで防ごう」(中国兵法)

……等々、積み重ねられてきた知識の蓄積が台無しになった感が、すごくあります。一同ズッコケ with オチっぽい効果音。

鎧武者を乗せた日本馬が全力疾走したときの速度はどれくらいだったのでしょう?

これについては調べてみたものの、確実と思える時速はわかりませんでした。

かつてNHK『歴史への招待』で検証したという情報はありますが、45kgの砂袋と人間を乗せての全力疾走は、何も乗せないときの半分の速度であったということです。相対値じゃなく絶対値で言えや、この無能ッ!

日本在来馬(ウィキペディア)によれば、木曽馬の時速は40kmとのこと。これを信じるなら、鎧武者が乗馬してる時の全力疾走は時速20km程度になります。

岡崎城下のように幹線でも道幅が二間(3.6m)というせまい場所はありました。

が、当時の公式に定められた幹線の道幅は四間(7.2m)です。実態としては三間(5.4m)が城下の平均的な道幅でした。曲がり角のRはおおむね直角。90度。対して馬の体幅は1mほど。

してみると、騎馬武者が全力疾走で屈曲に突入というのは、5メートル幅の直角コーナーに1メートル幅の乗り物が時速15km~20kmで突入するような状態と想定できます。

スクーターが二車線の交叉点を小回りで曲がるようなもんです。

これ、速度を少し落とすくらいで曲がれるんじゃないですかね? たいした障害にはならないような(曲がった先に敵が待ち構えているかも……という乗り手の恐怖心は考慮しないものとする)(配点 20点)

そもそも、日本馬は小型馬(ポニー)だったため、ランス騎士のような重量を活かした突進戦法には向いていません。組み打ちで首を獲るのが武士の名誉であった鎌倉~戦国中期なら突進して肉弾戦も好まれたでしょうが、槍衾(やりぶすま)や火縄銃など、足軽の数の論理が戦場で幅を利かすようになると、突進はハイリスクローリターンな戦法と化しました。武田騎馬軍の壊滅を思い出してください。近世城下町は、騎馬武者の価値が下がった空気の中で町割されたのです。

屈曲が
「軍馬の疾駆を困難ならしめる」
と原田氏が述べた部分は、逆説的に乗り物としての日本馬が身近な存在でなくなったことを示す証拠です。

自動車だと、直角コーナーを減速せずに通過するのは難しいでしょう。それは自動車が速くて巨大だからこそです。しかし、その速さと大きさが当たり前になった人々は、そのことを忘れがちになります。

いっぽうで、馬に乗らなくなった現代人は、日本馬がそこまで速くなく、大きくなく、小回りが利く乗り物であるという意識がありません。

よく訓練された馬は、その場回転もできれば、横歩きすらできるのです。
「軍馬の疾駆を困難ならしめる」
は、いかにも現代ならではの想像に基づくファンタジー理論のように私には聞こえます。

そして、繰り返しますが、江戸時代以前の兵法家は判で押したように「そもそも馬で突進するような攻め方を奨励していない」のです。

(ただし、「物見(ものみ)」においては騎馬武者による接近を奨励していました。物見とは敵陣に接近し籠城兵の様子や虎口付近の地形を把握し戻る、情報収集のことです。

白昼堂々、敵が見ている中、接近して戻って来るという、危険をともなう任務であり、武士の誉(ほま)れとされたのが「物見」です。戦闘は原則、行いません。我々は偵察が任務なんだぞ、退くんだジーン! です。

「物見」は優秀で将来を期待される若侍のみが任される危険で重要な仕事でした。しかしその、白昼に馬で接近し、情報収集を終えたら急いで離脱する「物見」さえも鉄砲普及によって廃れました。合伝流では名誉にこだわらず、忍びを用いたり夜闇に乗じてコソコソと偵察せよと主張しています)。

以上で、筆者がいまこれを書いている2020年までにつながる基本的なテンプレートは完成しました。

碁盤型でありながら屈曲が多い、それは防衛のためなのであるという、一読すると納得しやすい、しかし深く考えると首をかしげざるをえない謎理論は、こうして誕生したのです。

城下町の街路が、なぜか不便な形態をしている。それがそうなっている理由と経緯がわからない。わからないから興味がわく。

しかし、興味が湧いたといっても、土地ごとの地理的・経済的・利水的・災害由来・その他もろもろの理由を微細にわたって教わりたいわけでも、休日をつぶして調べたいわけでもない……世の多くの人々は、そうでしょう。私だってそうです。

必要とされたのは一行解説でした。
「防衛のための迷路化」
という理論は、その需要にしっかり応えてくれたのです。

しかし、それが正しいかどうかは、また別の話でした。

## 4.7. 第四章まとめ

■ 江戸時代前期

* 仙台や秋田では見通しが立つよう城下が設計された
* 鳥取では見通しが立つよう城下が設計されたと伝わる
* 江戸時代の軍学・兵法の中で、街路の屈曲による遠見遮断や防衛術を説いている流派はない
* 五大兵法のいずれも攻城の手段として放火を推奨していた。放火という戦法に対して木造家屋による街路の屈曲は役に立たない
  * 敵の放火戦術への対策は、いずれの流派でも「先回りして自焼しておく」
* 楠木流は屋根に上がる戦術を奨励していた。屋根に上がれば建物による遠見遮断や迷路化は役に立たない

■ 蒲生氏郷は町割ヘタ疑惑

* 近江日野は弧状街路ではなかった。町割が行われたのは祖父あるいは父の時代で、蒲生氏郷が近江日野で町割を変更した証拠はない
* 伊勢松坂の隅違い(電光型街路)はおかげまいりブーム以後に商人が宣伝目的で街路を屈曲させたものであり、蒲生氏郷の町割は関係ない
* 会津若松転封から二年間、蒲生氏郷は奥州仕置きの戦後処理で忙しく町割をする暇がなかった。「町の詰まる」は蒲生氏郷入植以前の町割に起因し、蒲生氏郷の町割が下手だったせいではない。
* 会津若松に残る喰い違い交差点の連続は用水を南北に流すための工夫によるもので、防衛目的ではない
* ようするに、蒲生氏郷は町割ヘタじゃなかった

■ 江戸時代中期

* 武田流兵法を学ぶ生徒の中に、侍屋敷の屋敷構えを兵法の秘事口伝である陰陽の縄(防衛のための屈曲)ではないかと疑う生徒が、江戸中期に出現していた
* この生徒の疑念を師匠は否定(『信玄全集末書』)
* 荻生徂徠は「個人の敷地のことは亭主の好み次第」として、武士が陰陽の縄を自分の敷地に施した可能性を否定せず
* 50年後の『祐清私記』や『松坂権輿雑集』においては、すでに城下の屈曲は防衛のための工夫であるという誤解が定着していた
  * この見解を本居宣長は華麗にスルー

■ 盛岡城下町割会議の信頼性

* 「防衛のために城下に丁字路やクランクを設けた説」の出典とされる『盛岡砂子』の盛岡城下町割会議。さらにそのソースを『盛岡砂子』は『南部家秘書に云う』として明かしていなかった
* 当地は諸人往来なく袋のごとく、というのは盛岡が地理的・地形的にさいはての袋小路なので行商人も来ない…の意味と読まねば文脈に合わない。盛岡城下は袋小路が多いと解釈しては意味が通じない
  * ましてや袋小路を増やすべきなどと読むことは不可能
* 五の字町割にT字路やクランクがあるとは言っていない
* 五の字が見透を止める形というのは、一の字との比較においての話として読むべき
* 『盛岡砂子』のソースは江戸中期に書かれた『祐清私記』だった
* 『祐清私記』は噂レベルの話もあえて収集した史書・地誌である。『祐清私記』収録の盛岡町割会議のくだりは、制度化されてない参勤交代を前提にしているなど、内容的に矛盾が多い。盛岡城下町割における「五の字」「一の字」談議は、史実として採用できるものではない

■ 江戸時代後期~昭和

* 都市設計は地形によって自由にならない(正司考棋)
* 高岡や飯田では京都の形に準じて町割がなされた(『加越能三州志』)(『飯田万年記』)
* 高岡が京都のような碁盤目街路なのは、火災対策だった(『加越能三州志』)
* 大正以後、熟成されていく街路屈曲による防衛術論
  * 新規築城や城の改修を禁じられた大名は、こっそり街路を屈曲させ防衛した(1915年/大類伸)
  * 近世城郭は碁盤目型に向かったが、過程においては軍事的欲求によって歪が設けられた(1928年/小野晃嗣)
  * 近世城郭は碁盤目型にして、歪を持っている(1936年/土木学会)
  * 歪だけじゃなく袋小路や丁字路に食い違い交叉点も防衛のために設けられた(1952年/豊田武)
  * 屈曲は軍馬の疾駆を阻害するのに便利である(1957年/原田伴彦)
* 一方、城下の街路屈曲における防衛以外の理由指摘は減少傾向にあった
  * 国道が屈曲する理由は地理的条件ことに地形にあった。また、徒歩交通の時代に於いては経済的な理由も大きかった(1938年/長尾正憲)

この章のまとめは以上です。これについて筆者が言いたいことは、もう何度目のくりかえしかわかりませんが、以下の通りです

* 攻め手の常套手段が放火であるならば、街路の迷路化にメリットはない
* 城下の屈曲設置や迷路化は、避難や消火や救援に補給、指揮官の移動等に不便が多く、敵に利するばかりである
* 平屋の多い日本において街路屈曲による遠見遮断など、屋根に上るだけで無効化できてしまう
* 城下屈曲による防衛術を全国の大名が当然にやっていたのなら、いくらこっそりやろうとも、幕府がそれに気づかず対策もしないのは不自然である
  * この矛盾を解く一つの解は「城下街路の屈曲には禁止措置が必要なほど防衛力がなかったから」であるが、より自然な解は「そもそも全国の大名が当然に城下街路の屈曲による防衛をしたというのが妄想であり、そんな事例はきわめて例外的にしか無かったから」である

おつかれさまでした。

※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。

https://www.pixiv.net/fanbox/creator/188950/post/461909

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