城郭之研究

近世大名は城下を迷路化なんてしなかった(16) 第4章 4.6 文献調査-江戸時代後期~昭和②


4.6.5. 大類伸『城郭之研究』(1915年)

■ 城郭史研究の嚆矢

出典: 城郭之研究 - 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953295
※以下、この項で引用するテキストの引用元は上記

再び、大類伸氏の著作です。いま読んでも、これが名著であることは疑いようもありません。まさに城郭研究界の鉄腕アトム(自分にとってわかりやすいたとえを使う奴)。

>    城下の防御
>  日本の城郭は前にも述べた如く武士を中心としたもので、商人工匠の輩は武士の付属物たるに過ぎない観があつた。従て城下町あつて始めて其の価値を認められたもので、城下町は全く城郭に隷属したに過ぎないのである。其故に城郭の防備は充分に構ぜられたけれども、城下町に就ては欠けたものが多かった。少なくとも囲郭を以て保護することは唯稀有の例に過ぎない。併し如何に武士が威張つたとて、城下町も城郭の一成分である以上、全然之を放棄して置くことは出来ない。否城下全体を防御することは、やがて城郭を守護する所以なのである。とは云へ、濫に防備を厳重にして自衛の策を講ずるは、幕府の猜疑心深い当時のことゝて、やがて異志ある者として認められやう。現に福島正則の如き有力な大名ですら、広島の居城を勝手に修築したとて、転封を命ぜられた程である。天下の三百諸藩が唯々諾々として、幕府の命に違はんと怖れた時代には、城郭の設備を余りに厳重にするのは或は自滅の因ともなる。是においてか諸藩では防備の為めに種々の策を講じたのである。

日本の城は、囲郭で都市を守っているものが少ない……という主張については、反論が豊富にあります。

いまさら筆者が、屋上に屋を架す必要はないでしょう。代表的な文献を挙げるに留めます。

参考: 小和田哲男『城下町囲郭論序説』(集落の歴史地理(特集))|書誌詳細|国立国会図書館 オンライン
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I894677-00

さて。では。 『城郭の研究』から引用した部分を要約すると次のようになります。

* (A):城下は城の隷属(れいぞく)物。なので、城郭ほどは防衛していない
* (B):しかし城下の防衛は、ひいては城の防衛である
* (C):いっぽう、城の防衛をしすぎると幕府ににらまれる
* (D):これにおいてか、城下に種々の防衛策を施したのだ

私の率直な感想は、いきなり江戸時代に限定しちゃって江戸時代以外の城下の屈曲を完全無視だし、そもそも最初の前提から論拠が示されてなくない?です。

第一印象では、結論ありきで導き出された、奇妙な前提を積み重ねなければ成立しない論理のように感じました。

■  城下が城の隷属だとは言い切れない

たとえば、聚楽第や二条城が洛中の防衛のために存在し、城下あっての城であることを疑う人はいないでしょう。

金沢や大坂に築城されたのは、理由は様々ありましょうが、ひとつに
「再び宗教勢力の拠点と化すことを防ぐ」
狙いがあったことでしょう。
寺前町を掌握するため、すなわち城下あっての城とも言えます。

すでに発展していた商業都市に目をつけ、富を目当てに城が商業地にすり寄ったケースもあります。

大山崎の利権に目をつけた淀城、白潟の繁栄にすり寄った松江城など。

こうした城はむしろ逆に、初期においては商業地に隷属した城郭だったと言っても過言ではありません。

もともと都市のなかった場所に城と城下町ができたケースなら、城下は城の隷属と言えるでしょうか。安土や伏見、今治や江戸など、どうでしょう?

近世都市の街づくりにおいては商人層を無視できませんでした。当時の狂言にも武士が「商人の親方」を募集するくだりがあります(小島 道裕『戦国・織豊期の都市と地域』)。

仙台藩が御用商人に町割をまかせていたのは、すでに見た通りです。

有力商人に武士が頭を下げて招いてるわけです。士分に対して一方的に町民が隷属してたとはいえないのです。

しかし、隷属してない町民ばかりだったかというと、そうでもありません。

伏見城下の建設においては、そこがもともと農地であったため、強引に農民から土地を奪い、補償もほとんどなかった可能性が指摘されています(脇田修『日本近世都市史の研究』)。

徳川期の二条城でも、あの場所は当初、京にしてはさびれた場所だったそうですが、それでも数千人が強制退去させられました。

新興都市ではありませんが、大垣では城下の整備において、「美観上の理由で」と、自宅を板屋にできない貧しい町民だけを大垣湊の中心街から退去させています(水田恒樹『大垣の近世運河と近代運河に関する研究』)。

結局のところ、土地の性格、支配者の状況・実力、被支配者の階層、農工商個人個人の財力によって、その関係性は複雑なのです。

城下が城に隷属しているという前提は、大雑把すぎる前提というほかありません。

では、なぜ、城下は城郭ほどに、防衛機構が施されていないのでしょう。

この問いは、本末転倒しています。

支配地域のすべてに防御機構を設置するのはリソースの無駄遣いだからこそ、武士は防衛に有利な場所に集中的な防御機構、すなわち「城」を築いて、籠って戦うのだからです。

■  地域全体を守れないから、武士は城を築く

城地と城下の防衛設備に差がなかったら、城地に籠る意味がないではありませんか。

政治的にはともかく、軍事的には
「これ(城)、なんのためにあるの?」
となってしまいます。

国境での戦闘に勝利して防衛拠点まで迫るほどの敵ならば、まず防衛拠点に籠る兵力と同等か、それ以上の軍勢でしょう。

(1) 都市全体を「面」で守るのは兵力と軍資金の無駄遣い

攻め手より少ない兵力を分散させては各個撃破されてしまうのがオチです。

また、都市全体を要塞化するというアイデアは、そりゃあ実現できるなら素晴らしいでしょう。

が、都市が巨大になればなるほど建設費も維持費もかかります。

都市全体を要塞化したあげく資金が尽きて武器・弾薬・食糧も買えず、兵も雇えず……では意味がありません。

きらきらに裕福な藩でない限り、都市の全域を要塞化するのは、現実的ではないのです。

だからこそ、多くの藩では惣構や外郭と呼ばれる囲郭を築いて、

(2) 都市を囲む「線」で防衛

……を、したのです。これとて都市の巨大化に比例して建設費と維持費がかかるわけですが、領域全体を面で防御するよりは、コストパフォーマンス的にバランスがとれていました。

しかし、多勢に無勢では、この「線」での防衛が突破されることが、ままありました。城下へ敵が侵入します。そうなると最後の手段です。

(3) 城郭という「点」で援軍が来るまで(または敵があきらめて撤退するまで)籠城

もはや、残るすべてのリソースを一点に集中させる。それが籠城であり、これこそ城の本来の役目でした。

江戸時代の前期の兵法書を思い出しましょう。

城の縄張は「小さく丸く」が理想でした。まさに点の防御を意図していたのです。

そして、つぼみぎわのひと働きで、敵に利するものはなるべく城内に取り込みます。 取り込めないものは家屋も含め焼き捨てます。

そして根小屋を焼いたら城に籠る。

城下(商業地/居住地)での戦闘なんかしない……というのが和流兵法の守城スタンダードプランだったじゃないですか。

そういうわけですから、せっかく惣構と主郭にリソースをふりわけたのに、

"城下町も城郭の一成分である以上、全然之を放棄して置くことは出来ない。否城下全体を防御することは、やがて城郭を守護する所以なのである"

と言い出しては(1)へ逆戻りなのです。

せっかく集中させたリソースの分散です。

お前は何がしたいねん大作戦じゃないですか、ヤダーッ!

大類氏の四段論法は二手目から間違っていたのです。

■  幕府が怖いが防衛したいので街路屈曲、の初見

しかし、ともかく、ここでついにイヤッホゥ、
「新規の築城は禁止されているし、修繕すら幕府の許可が必要。武家諸法度を無視しては謀反を疑われかねない。そこで、城下街路を屈曲させようじゃないか。ワオ! ナイスアイデア!」
……という、城じゃないからセーフだもん、みたいなチートというかハックというか、法の抜け穴を突いた方法で防衛力を高めたのだという説が登場しました。

えぇ~? 初出って大正なの? 江戸時代じゃないの~?

"武士の家業の、藝者におちゆきたる故に、例の秘事口伝の流かとの疑いありいかん"
とは、上級家臣が武士稼業を極めた当然の帰結として「個人的に」屋敷構えを屈曲させているのではないか? という疑いでした。

それが二百年後、「藩が」防衛のために城下に陰陽の縄を用いたのだ!(キッパリ!)という主張に変化したのです。

しかし、この見解は大類氏の思い付きではなさそうです。

久世兼由は松坂の肘折れを防衛目的であり、それを作ったのは蒲生氏郷だと思い込みました。

伊藤祐清が収集した盛岡の町割会議の巷説では、南部利直と北信愛が五の字を採用したことにされていました。

思い込みに噂話や論説が都合よく切り取られ
「城下の屈曲は防衛のための陰陽の縄張である」
というまとめが結論ありきで合成されました。その悪魔合体の結果を、大類氏はどこかで学んだののでしょう。

昭和十一年(1936年)の共著『日本城郭史』では、次のように記されています。

> 幕府は諸大名、特に外様大名などを常に疑の眼を以つて監視してゐたから、大名は公然と警戒を厳重にすることはかへつて自滅を招く原因にならないとも測り難い。築城は勿論禁ぜられている。そこで平和の側面にかくれて城下の警備に苦心したのである。この種の話は各地の城下に必ず聞く所である。

※注:太字は筆者による

出典: 大類伸・鳥羽正雄『日本城郭史』(1936年)

「各地の城下に必ず聞く所!」
というからには、実際にそういう巷説が存在したのでしょう。
筆者は残念ながら見つけられませんでしたが……。

大類氏が、せめてひとつくらい、出典を記していてくれたら……。

書いてたところで、『盛岡砂子』というオチだったかもしれませんけどね。

各地の地誌を綿密にしらべれば、そういう逸話が見つかるかもしれません。

が、それが見つかっても、ちょっとやそっとでは、ここまで筆者が提示した証拠、指摘した矛盾をくつがえすことは難しいんじゃないでしょうか。

実際の話、諸藩は本当に街路の屈曲で防衛したのでしょうか?

しかし、それが全国的に、どの藩もやるような周知の手法となったとしたら(なにせ、各地の城下に必ず聞く、らしいですから)、幕府はなぜ、何の対策を打たなかったのでしょうか?

おんなじツッコミを何度も繰り返してやがらァ、この著者wwwwウゼェwwww……と我ながら思いますが、やはり、とにかく、そこがおかしいのです。

平和の側面にかくれてやったから、幕府は気づかなかった? それ無理筋ィ!

だって、幕閣の老中職を務めるのは、当の各地の大名なんですよ! 自分のお膝元でやっといて、他藩にそれがあるのを気づかないなんてこたァ出来やせんぜ、親分。

城の無断修築さえ許さない徳川幕府です。

提出した城下の地図に、だまって作った誰の眼にもあきらかな迷路が描かれていたら、どんな処罰が下されるか……と心配するのが当たり前じゃないですか。

「いやいや、だからこそ食い違い十字路程度の、虎口とは言えないが屈曲だ……というギリギリにとどめたのだ」
という反論はございますか?

しかしですよ。はたして、その程度のやんわり防衛設備が実際の戦闘の役に立つものでしょうか?

リスク・費用・経済的デメリットと引き換えにするほどの防衛力があると、あなたは思いますか?

ましてや、木造建築による街路屈曲など放火してくる敵、屋根に上る敵の前には役に立たないことは、すでに指摘した通りです。

それどころか、複雑な街路は住民の避難や救助活動にも不便であり、三差路の多い町割は延焼を助長してしまいます。放火してくる敵に対して街路屈曲は損でしかないという防衛上の大欠点さえも明らかになりました。

利水施設や商業目的など防衛以外の理由によって、城下の街路にクランク十字路や隅違いが連続してしまうケースがあったことも判明しています。

各地の城下に必ず聞く話とやらも、各地の城下にいる、兵法を「かじった」半可通の犯した誤解や創作が大半でしょう。

『松坂権輿雑集』を書いた久世兼由のように。

『祐清私記』を記した伊藤祐清に「盛岡 町割会議」を語った誰かのように。

単なる街路屈曲に防衛上のメリットが少なく、むしろ放火リスクを考えたらデメリットが上回ることを、軍事専門家である武士は把握していたはずです。

だからこそ「各地の城下に必ず聞く話」であっても、幕府は動かない。何のおとがめもない。当然のことです。

にもかかわらず、17世紀末の「例の秘事口伝の流かとの疑い」は半世紀後の「松坂権輿雑集」や「祐清私記」の時点ですでに、一部の人々の間で「言うまでもなく防衛のために屈曲」へと変化してしまっていました。

そこからさらに150年です。大類伸氏が出典を記すまでもないと考えるほど、この主張は広まっていたのでしょう。

大類伸氏の『城郭の研究』は、この巷説にお墨付きを与えてしまいました。大類氏はこう続けます。

> 城下防衛の一策として、城下の通路を故意に屈曲させて遠距離からの見通しを妨げた場合もある。津軽弘前の城下には其の跡が今でも認められる、それは町の重な通路を真直に通じないで、所々に鍵の手に曲がつた処を置いてあつた。其他加賀金沢の城下には家臣の邸宅を、城下の処々に散在せしめて、事あるの際には直に城下防御の好位置に就き得る様にしてあった。但し一般の例としては臣下の邸宅は多く一定の地に集められたものである。

金沢の武士の散在が、藩主引退にともなう転出とUターンによって引き起こされた可能性が高いことはすでに述べました。

江戸時代初期の越後流兵法など、散らばっていると緊急事態に対応が難しいと言ってるくらいなのですが。

■ 維新後、かつての虎口が市街地へと変化し、生まれる誤解

弘前の例についてはどうでしょうか。城下に残る「其の跡」とは、どこを指して言っているのでしょうか。

残念ながら、原著には場所が記されておらず、はっきりわかりません。

帝国陸軍の作成した明治末~昭和初期の地図が、『城郭之研究』が出た大正四年の弘前に近いでしょう。

ポチッとな。

4603弘前3

図 4.6.3: 維新後の弘前

うーむむむ。厳しい戦いになりそうだ(意訳:この見づらい地図で調べるのクソめんどくせえ)

上記の地図をベースに現代の地図を参考に、整理したのが次の図になります(図 4.6.4)。

4604_弘前2

図 4.6.4: 大正元年時点の弘前街路(推定図)

波線は現代(平成18年)時点での水域です。

4605_弘前3

図 4.6.5: 弘前城下町の範囲

北西の岩木川と南東の土淵川、南南西の空堀と北東の神社郡が、囲郭(惣構/最外郭)ということになりましょう(図 4.6.5)。

したがって、土淵川より東に外側の(A)で道が屈曲してても、建前上は「そこは城下町ではない」ということになります。

同様に、(B)の岩木川河川敷エリアも「城下町の外」です。

ただし江戸時代の正保城絵図の時点で、ここ(B)に軽輩(足軽)らしき身分の家がわずかにあります。

図 4.6.5の(A)は正保城絵図では書かれなかったエリアです。屈曲や行き止まりが多い傾向にあります。

弘前駅の周辺なので、大類氏は駅をおりてすぐの道の悪さに、やはり城下は防衛のために……と納得したのかもしれません。

しかし、このエリアの道が悪いのは土淵川の河岸段丘であり、高低差が大きいから、で説明できそうです。

では、囲郭の中はどうでしょう? 主郭の東に目立つクランクがあります(図 4.6.6)。

4606_弘前4

図 4.6.6: 主郭東のクランク(1)

しかしこれは、濠に通水するため土淵川から分流した水路が曲がりくねっている影響と見るのが妥当です。

水路がなぜ直線でないのかはわかりませんが、もともとあった自然河川を用水路にしたか、あるいは土淵川の自然堤防を越えるため、少しでも低地を選んで開削した結果かの、どちらかではないでしょうか。

大類氏とて、さすがにこれを見て「今でも認められる其の跡」とは思わないでしょう。

この地点のすぐ南にもクランクがあります。

4607_弘前5

図 4.6.7: 主郭東のクランク(2)

東大手門の正面の道です。大手門ですから虎口であって、屈曲があるのは当然ですが、正保城絵図には見られなかった食い違いです。

正保の後、江戸時代の残り200年のあいだに街路が変更された可能性もあります。が、文化二年(1805)の「御城郭分間真図」では東大手門前に枡形のスペースが確認できます。つまり明治以後、このスペースに建物が出来たために道の屈曲が生じたものと考えられます。藩による城下街路の屈曲ではありません。

この明治以降の変化を大類氏が「今でも認められる其の跡」と誤解した可能性は否定できませんが、東大手門に隣接する部分です。感覚的にここを「城下の通路」とはとらえ難いと思います。

してみると、大類氏が見た「今でも認められる其の跡」としてもっとも可能性が高いのは城の南、空堀のそばのクランクでしょう(図 4.6.8)。

4608_弘前6

図 4.6.8: 城南空堀そばのクランク

ここは現代においても土塁が残っているのがグーグル・ストリートビューで確認できます。

参考: https://goo.gl/maps/MG3zKAtjzMRSbUnw7
(2019/7月時点確認)

城郭研究家の眼には見まごうことない外郭虎口です。

大類氏のいう「其の跡」とは、城南空堀沿いの土塁に開けられた外郭虎口であろうと私は考えます。

この外郭虎口は正保城絵図にも載っています。

4609_弘前7

図 4.6.9: 城南 空堀沿いの土塁に設けられた虎口

図 4.6.9のDが図 4.6.8のクランクにあたります。痕跡が現代まで残った方です。Eの方は明治二年には虎口そのものが消えていました。

外郭虎口であるので、そうです! ここは城地です!

ならば、遠見を遮断するのは当然です。ここまで何度も述べてきた通り、塁濠は城地なのですから。そして、城地に屈曲が設けられたことは筆者も否定しておりません。

防衛施設である塁濠と街路が交差する場所に虎口が設けられるのは、何の不思議もありません。

したがって、大類氏が言う「其の跡」が、弘前城の南の外郭虎口跡だとしたら、それは城地の虎口を屈曲させた跡であり、城下の街路を屈曲させた証拠ではないのです。

そもそも、城地と城下を明確に定義し、区別してこなかったという城郭研究者サイドの姿勢にも原因があります。

かつては城の一部(虎口)だったものが、明治以降に市街の一部になったら、大名は防衛のため市街を屈曲させたことになるのでしょうか?

もちろん、そんなわけはありません。

あくまで「城地」+「城下」で「城下町」です。虎口は城地の設備です。通常は屈曲があり、見透を止める機能が備わっていました。

「城地」+「城下」が「城下町」ということであれば、 「大名は防衛のため、城下町を屈曲させた」 という解説は、間違いとは言えません。城地も「城下町」の構成要素ですから。

しかし、この言い方では、藩は商店街や職人町、中間(ちゅうげん)町や田畑の道路まで防衛のために屈曲させたように受け取られてしまいます。今まで見てきたように、そんな事実は(ごくまれにしか)なかったにもかかわらず。

外馬出や外枡形、出丸があるから。あるいは、濠に隅落や横矢がかりの折れがあるから。囲郭の虎口が屈曲し、勢溜を備えているから。こうした、城地の境界線が方形ではなく凹凸を持つゆえに、城下の街路設計が影響を受けてクランクや丁字路が増えたということは、当然にあったでしょう。

でもそれは 「城地を防衛のため屈曲させた副作用で城下の道も悪くなった」 であって、城下の商業地や一般居住区を意図的に複雑化させて防衛しようとしたわけではないのです。


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※このnoteはミラーです。初出はこちらになります。

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