十番はどこに

 「ながさき開港450年めぐり」には、田川憲さんの作品が130点ほど掲載されている。広い景色から各章のシンボルになっている花十字紋や桃まで、題材や描きかたの幅広さに驚くけれど、この本にあるのは作品のほんの一部だ。長崎だけではなく、ほかの土地の風景も描いているし、詩をもとにしたものもある。あるいは版画だけでなく、水彩や油彩、書、そして文章……と、田川さんの作品は数知れない。資料としてご自身が撮った写真もたくさんあるらしく、作品はもちろん当時の町や時代と合わせて検証すれば、とても面白いだろう。これから掘り起こしや展示や出版、そして再評価につながればと願っている。(個人的に好きなのは、ランボーの詩「酔いどれ船」をもとにした連作で、ほとんどが下絵のままなのだが、幻想的なのに妙にリアルで、いつかなにかに使わせてもらえればと妄想中)

 それでも、長崎を描いた作品は「450年めぐり」におおかた収められたのではないかと思う。おなじ場所や建物が複数あるものは、いくら良くても全部というわけにはいかなかったのと、一枚一枚をもっと大きくするべきだったとも思われるけれど、それでは画集になってしまうし、そういう点ではあれこれ悩んだ。

 一方、ある作品を本のどこで使うかは、すぐに決まった。「この絵を使いたいけど、どこに使おうかな」ということはなく、時代やテーマに合わせるので「使うならここしかない」ものがほとんどだった。しかし一枚だけ、使いたいのにどうしても落ち着き先が決まらない作品があった。時代としても、テーマとしても、わりとはっきりしているはずなのに、なぜかページに収まらない。いくつか「ここなら」と思うページがあって、ラフを書いてみるのだが、どうしてもしっくり来なかったり、限られたスペースの中で、ほかの作品のほうを選んだり。そうして結局、使わなかった。

 それは「南山手十番」だ。洋館らしき建物の渡り廊下?、その向こうに羅典神学校ともう一棟の洋館、そのさらに向こうに大浦天主堂がすっくと立っている。南山手十番は、田川さんが戦前に5年ほど住んでいた洋館で、そこからの眺めだ。天主堂前の「みやげ坂」の途中にあり、いまは「大浦聖コルベ館」と、ホテル「セトレグラバーズヒル長崎」になっている。隣の「九番」には、のちにトーマス・グラバーの息子、倉場富三郎が暮らした。

 建物そのものではなく、そこからの「眺め」を描いて「十番」題としているのがおもしろい(面積としては『十番』が約半分を占めるが、全体像はわからないし、目はどうしても大浦天主堂に引きつけられる)。とても印象的な作品で、まずは開国後や居留地のページに入れようと思った。しかしなんとなく入らない。倉場富三郎のことを書いた四章のコラムに入れようともした。そこで紹介している手記「グラバー氏の庭」での「時計のような正確さ」で石畳を鳴らす富三郎の靴音は、この十番に住んでいる時に聞いていたものだ。しかしこのページには「二つの庭」のタイトル通り、富三郎が愛した二つの庭の作品だけにした。

 こうしてとうとう「南山手十番」は、本に入らなかった。「田川通」の人が見たら「なんで使わなかったの?」と思われるかもしれない。しかし私が「使わなかった」というよりも、なにかもう少し違う理由があるような気がする。ほかの作品が、言うなれば「歩きながら」描かれたのに対して、この絵は自宅からの眺めだから、その点、どこか違うのかもしれず、「田川憲の版画と『歩く』」と掲げる本には、なんとなく収まりが悪かったのかな、とか。はたまた、この本で田川さんが歩いてまわった風景をだいたい見たあと、読者みずからが「お宅」を探しあてて訪ねる仕組みになってる、とか(だれの仕掛け?)。

 本当のところはよくわからないのだが、ぜひ「南山手十番」にもめぐりあっていただければと思う。建物はとうの昔に火災で失われているから、この眺めはもうない。またもや版画の中だけの風景だ。


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