街灯を探す 2

 (前回のあらすじ:『ながさき開港450年めぐり』の表紙の街灯はきっと実在したはず!と古写真などを調べてみたものの、本を作るあいだには結局見つからず『ガス灯』と記すしかなかった。)

 めでたく本は印刷され、店頭に並んだ。白地に濃紺の街灯は、遠くからでも目を引く。「やっぱりこれにして良かったなー」と思っていたところに、俊さん(田川さんのお孫さんで、作品や資料の管理をされている)からメールが届いた。膨大な資料の中から、街灯の下絵が見つかったとのこと! 写真も添付してあった。スケッチではなく、版木に転写して彫るばかりの、きっちりとした下絵だ。ごく薄い和紙(?)に濃いめの鉛筆で描かれているように見えるので、(おなじに語るのもはばかられるが)私が消しゴム版画の下絵をトレーシングペーパーに描いて「ほるナビ(かため)」に転写する、そのような段階のものだと思われる。街灯の上の飾りの部分から、2カ所スッと線が出ていて「白ヌキ」とあり、実際の版画でもジグザグの模様が白ヌキになっている。そして足のそばに、なにか書かれている。

 「三菱炭砿社桟橋街灯 昭和九年写」

 やはり実在したのだ!

 「三菱炭砿社」(資料によって「炭鉱舎」「炭鉱社」「炭坑舎」「炭坑社」などの表記あり)は、高島炭坑の石炭の販売などをした会社で、現在の長崎税務署近くの小曽根町にあった。

 街灯を探すのに、大浦や東山手、南山手のほうの古写真ばかり見ていたが、そのエリアは盲点だった。炭坑舎の建物は明治34年に作られた二階建ての洋館で、昭和60年まで存在した。反対の声が上がりつつ解体されたのを、私もうっすらと覚えているくらいだから、写真は残っているはずだ。ふたたび居留地や洋館の写真集を探すと、建物はあった。でも、街灯の姿はなかった。「桟橋」とあるから、ちょっと調べると、高島への交通船である「夕顔丸」が発着していたとわかったので、そちらからも探してみたが、なかった。唯一、これかも……と思えたのは、現在のグラバー園あたりからのパノラマ写真の中にある、まだ埋め立てたばかりでまっさらな下り松の土地に、ポツンポツンと立っている街灯だった。シルエットはいちばん近い、気が、する。しかしあまりに遠くてなんとも言えない。炭坑舎の場所は見えていないのだが、エリアとしては続いているので、おなじタイプの街灯が立てられていたとしても、さほど不思議ではないかもしれない……という程度。

 そして「昭和九年」の文字に、暗い気持ちがよぎる。その後の戦時下では、一般家庭にある金属はもちろん、シーボルトの胸像も、歴史ある寺の梵鐘も、長崎の氏神さまである諏訪神社の神馬像だって、金属供出で姿を消した。名もなき街灯は、真っ先に倒されていてもおかしくない。私が見た資料で建物がはっきりわかる写真は、ほとんどが戦後のものだ。だから建物はあっても街灯はないのかもしれない。だとしたら、多くの洋館同様、この街灯も田川さんの手によって「彫り残された」もののひとつなのだろう。ほかにも資料を当たってみたいのだが、コロナで図書館が閉まっているので、いまのところ、これ以上はわからない。

 ふと、下絵と本が並んだ写真を見て、えっ、と思う。もともとの作品と表紙は、サイズがほぼおなじなのだ。最初写真を見たときには、おなじすぎて気がつかなかった。消えた街灯は、ここに立っている。田川さんが「異人墓地」について書いた一文が浮かんだ。

 「彼らは、死によって姿を消しても、彼らがかつて長崎で愛し、生活をしたというしるしは消されない。」(「秋風に寄せて」)

(終わり)

 

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