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【再掲】ボランティアを考える。 〜Football saves Japan弾丸バス遠征ボランティアに参加して〜

※2011年4月に体験し書いた記事を当時のまま再掲しています。

M9.0の地震が起きて数日も経っていない、民放テレビも地震報道で24時間体制を敷いていた頃だったと思う。私のよく利用するTwitterでは、ボランティアに関する議論が巻き起こっていた。その中で私は、新設されようとしていたある学生ボランティア団体を批判した。緊急の用件でのボランティア団体ならば新設の必要がないし、交通機関が乱れている中で余震の危険もある。何をやるにもノウハウ不足なのだから時間と手間がかかる。現地で邪魔にもなるかもしれない。やるならば既存団体に加入しろ、そして今は募金と献血を、という批判だ。

私は今もこの批判がそれほど的外れであったとは思っていない。だがひと月が経ち、実際にボランティア活動に参加し現地を目の当たりにしたところで、私は別の巨大な問題を育むことに加担してしまったのだと気付いた。今、私はあの頃の自分を非常に反省している。巨大な問題とは、ボランティアの不足である。

図1

直で見る衝撃

4月17日、私は仙台市宮城野区にいた。「サッカーを愛する人にできること〜Football saves Japan宣言〜」に賛同し、その企画の一つであった「復興支援遠征バス・ボランティア」に参加したからだ。Jリーグなどの試合で幾度も遠征した地域が被災したことを、ファン・サポーターは自分事として受けとめ、何ができるか探していたのである。「Jリーグサポーターならバス遠征だろ!」という、Jリーグ好きならではの想いも今回参加した活動には込められていた(Jリーグサポーターはアウェイでの試合の応援にはバスをチャーターし集団で乗り込むことが多い)。

夜中に都心を出発し、朝に被災地着、そこからその日の終電に間に合う時間まで活動を行う。参加者は社会人がほとんどだったように思う。休日にしか支援することができないが、少しでも貢献したい。そんな皆の思いに応える企画であった。

テレビに流される映像やネットに上げられた写真は見ていたものの、いざ被災地に降り立つと、その景色に息を呑んだ。地面が固まって割れている。田畑に車が、木が転がっている。家があったであろう区画に家がない。家があったと思ったら、1階がまるまるない。

図2

図3

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復興の一歩は遥か重く

私たち40数名はいくつかのチームに分かれ、各家庭の中のヘドロのかきだしと瓦礫の撤去を始めた。この作業が極めて過酷であるのだ。

ヘドロは床から15cmほどは溜まっていて重く、そして腐臭がして不衛生だ。ガラス片などの危険物もヘドロには混じっており(別チームに釘を踏み抜いて怪我をした参加者もいたという)、さらに津波によって押し寄せた砂は、乾くと砂塵となって宙を舞っていた。これらの状況により、泥かきのボランティアは雨具、長靴、砂塵マスク、砂塵メガネを要求される。重装備での作業は非常に暑く苦しい。

黙々と作業を開始し、昼になり顔を上げて気付いた。半分も終わっていない。1日かけてようやく1軒のペース。大の男が10人がかりで、1日かけてようやく1軒の泥かきが終わる。この事実に思い当たった時、私は呆然とした。「この地域だけでも、一体、あと何軒が残っているのか・・・」

足りていない。ボランティアが圧倒的に足りていない。私はそれを痛感した。活動が終わった後の疲労感は強烈だったが、原因は肉体の酷使だけではない。「復興」という言葉の裏に隠された、途方もない道のりを感じた精神的な疲労もあったように思う。

図5

住民と猶予と

朝の活動開始前に地元議員の方が訪れ、こう話していた。
「住民は萎えております」
「避難所は狭く不衛生になってきております。新たに避難場所が確保できたら」

被災地の方々には泥かきは困難だ。泥かきの道具が満足に揃わない上に、前述のとおり莫大なマンパワーを必要とすることを知っているからだ。水も満足に使えない避難所暮らしで、大きな余震も続く。また田舎町であることで、住民の多くは高齢である。そんな中でヘドロをかきだし、家を修理することまでは到底考えられない。希望が見えない。やる気が出ないのは、当然なのである。

しかし、ヘドロの除去にはそれほど猶予は許されない。時間が経てばヘドロは固まってさらにかきだしにくくなり、腐敗が進んで衛生環境は悪化の一途を辿るはずだ。また、家の受けたダメージを知るにせよ、ヘドロを除去しなければ、また使えるか全壊といった状況なのか、何も分からないままなのだ。被災地の方々が避難所で耐え忍んで1ヶ月。希望が見えない中で我慢を強いられるにも限度がある。だからこそ、ヘドロの除去は大量のボランティアが赴き、可能な限り早く行う必要があるのだ。


ボランティアの不足のワケ

ボランティアは今回、非常に不足している。Newsweek日本版によると、阪神淡路大震災では1日に平均2万人を超すボランティアが活躍したというが、今回の東日本大震災ではその数倍の被害が予想されるにも関わらず、1日に1千〜2千人のレベルに留まっているという。ではなぜ、泥かきのボランティアは不足しているのだろう。理由は大きく3点あると考える。一つ目は風評によるもの、二つ目は福島原発の放射線不安によるもの、三つ目は不足を解決する導線の弱さである。

冒頭に私はあるボランティア団体の拙速を批判したと説明した。こうしたボランティアの「迷惑になるかもしれない動き」を、私だけでなく多くの人々も同じように、また大手メディアも批判的に伝えていた。しかし、こうしたキャンペーンが後を引いた可能性は考えられないだろうか。私たち個人個人も大手メディアも、「はい、ボランティアに行っていいですよ」という趣旨のアナウンスに量的に非常に乏しかった。見極めがとても難しいことだが、「今は行くな」という批判と同じトーンで「いつならば行ってよい」「今だ、行くべきだ」と各自の判断を述べることまでが必要な行動だったのではないか。事実、現地のボランティアが圧倒的に不足しているのだから、私たちのボランティアを押し止めた行動は批判されてしかるべきだ。

また、福島原発の放射線問題は依然として安定する兆しを見せておらず、政府や東電の対応に疑問もあり、人々の間に「福島原発に近付きたくない」という思いがある。私自身も被災地入りする際に、親に「どの道を通って行くのか」聞かれるなどし、通る道や活動する場所と福島原発との距離を測った。それは大いに理解できる心情である。だが、多くのボランティアが通るであろう東北自動車道は、福島第一原発から最も近付いて70km弱の距離にあることも事実。これは全く個人の判断になるが、どれほど不安に思うかは己の問題だ。被災者の方々の多くは、私たちより遥かに原発に近いところに、ずっと留まっていなくてはならない。私は、多くの人が被災地へ支援に行ってほしいと思う。私も行かなくてはと思う。

三つ目の導線だが、全体を把握する難しさから、ボランティアが不足していることを具体的に周知できていないように思える。そのため、ボランティアの募集に勢いがない。ボランティアに行きたいと思っている人々ですら、どこでどんなボランティアが募集されているか、知らない状況なのである。ここで少しでも紹介したい。

助けあいジャパン」は、内閣官房震災ボランティア連携室のサイトで、政府からの最新情報とボランティア募集の情報を繋いでいる。
sinsai.info」では、被災者の安否確認や店舗の情報、ボランティアの急募まで、現地から送られるレポートを網羅的にまとめている。
NGOピースボート」も、世界各地での災害支援の実績を活かし、石巻市を拠点としたボランティア募集を展開している。

いずれも、現地での長期ボランティアはもちろん、1日から数日のものや、自分の住んでいる場所から行える活動も掲載されている。「あなたにできること」を、こういったところから探してほしい。

ボランティア増員策

これが周知されるにせよボランティア参加への導線は未だ弱く、ボランティア増員策は考えなければならない。

私が問題に思ったのは、泥かきのボランティアを半日するのにもお金が必要だったということ。シャベルは用意されていたが、雨具、長靴、ゴム手袋、砂塵メガネ、砂塵マスク、普段使わないものであるため、私は全て買わなければならなかった。「週末だけならば行ける」「1日だけでも行きたい」そんな気持ちの人は多いはずだ。だがそのために、それぞれが数千円〜1万円をかけて道具を用意している状況は非効率的であると考える。私は大学生だが、時間はあるがお金に余裕のない人たちは沢山いる。

であれば、ボランティア用具のレンタルはどうだろうか。出発場所などの近く、もしくは被災地の近くに用具を保存しておき、参加者に安価で貸していく。これならばボランティアは少ない荷物で参加することができ、非効率的な状況が改善されるはずだ。

また、文部科学省が全大学に対しボランティア活動の単位認定を要請したが、その是非はさておき、ボランティア増員策としては効果的であると考える。さきの用具のレンタルと合わせて実現できないだろうか。

図6

図7

私は1日被災地で活動したのみであるが、それでも被災地の厳しさ、住民の辛い状況などが身に沁みてよく分かった。私たちが泥かきをしている最中に思い出の写真がないかさまよい歩いていたおばあさんの疲弊した姿が、今も目に焼き付いている。もし余震が収まっても、このままでは帰る家は永遠にない。あのおばあさんに私たちができる最も重要な貢献は、復興への道のりの途方もなさに挑戦する、後ろ姿を見てもらうことである。

ボランティアは不足している。邪魔になったら謝ればいい。時間のある人は頼むから、どんどんと行ってほしい。これが現在の私の率直な思いだ。しかし、「自発性」はボランティアの定義。誰に願えるでもないお願いは、こうして文章にするしかなかったのである。


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