今でも思い出す。

今でも思い出す。
それは確かオレの誕生日の少し前であった。何故か、理由は解らない。母が食パン一杯に入ったパン箱を両手で持っていた。両手が塞がって防ぎようがない母に向かい、親父は何度もビンタをくらわせていた。

母の顔は青白くなり、やがて唇には血が滲んでいた。今日みたいに寒い、パン屋の店頭でのことであった。5~6歳のオレにはどうしようもなかった。

“岩をも通す”その気持ちはその頃すでに出来上がっていたのかもしれない。くそ親父から生前、「長期保存」と言う事と「食品添加物・無添加」は絶対に無理、と言われていた。

13年前の大震災の時から数か月たっているのに、ある年老いたお婆さんがカップ麺を食べていた。そのお婆さんの、カップ麺をすする姿を見ていて涙が出てきた。そのお婆さん、余りにも母と似ていたからだ。

それ以来、オレの気持ちは固まった。絶対に、絶対にこの想いは成功させて見せる。震災で避難所にいるお婆さんに、美味しいパンを食べてもらいたいという気持ちが、より一層固まった。

「長期保存可能な無添加パン」がほぼ完成したのが、今から約8年前、それから実験に実験を重ねた。三か月、半年、一年、数年、いわばお金にならない事を進めてきた。能登の震災、また国の初期活動の遅れからたくさんの人が亡くなり、カップ麺をすする人が・・・。

もう、このパンを発表する時に来た、と思った。
 
#廣瀬満雄

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