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本能寺の変 1582 光秀と細川藤孝 1 40 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と細川藤孝 1 永禄の変 

義昭が幕府再興に動き出した。

  和田館に入って、わずか数日。
 義昭(覚慶)は、己の意思を表明した。

義昭は、上杉謙信を頼った。

 同年(永禄八年1565)、八月。
 先ずは、越後へ。
 御内書を発す。

  今度(こたび)、京都様躰、是非なき次第に候、
  其れに就き、和田に至り取り退(の)き候、

  進退の儀、万端任せ置き候間、
  早速、無念を散じ候様、
  入魂(じゅこん)、偏(ひとえ)に、頼み入り候、
  
  委細の段、大覚寺門跡え申し候間、演説有るべく候
  穴賢(あなかしこ)々々、

    八月五日         (花押)
    上杉弾正少弼殿
 
                         (「上杉家文書」)

謙信は、これまで二度上洛している。

 天文二十二年(1553)と永禄二年(1559)。
 将軍義輝に拝謁している。
 そのことがあった。
 室町幕府として、最も、信頼する戦国大名だった。

大覚寺義俊が上杉の窓口だった。

 義俊は、真言宗大覚寺門跡。
 関白近衛尚通の子。
 稙通の弟。
 母方の叔父にあたる。
 謙信との親交が濃密であった。 

 以下は、義俊の副状である。
 
  急度注進申し候、

 
これによれば、松永久秀が覚慶(義昭)を幽閉していた。
 これに対して、開放すべく交渉したのが朝倉義景であった。

  一乗院殿南都御座所の儀、
  御番を居え候て松永堅く申し付け候へども、
  朝倉左衛門督直談せしめ、種々調略を廻らし、
  去る廿8日、甲賀和田の城に至り引き退かれ候、

 義俊は、謙信の出勢を期待した。
 
  公儀御家督、相定まり候間、先ず以って珍重に存じ候、
  其れに就きて、当国の人数も出勢あるべき由に候、

 また、丹波では、これに連動して、三好方と反三好方の間に戦いが
 あった。
 赤井直正が内藤宗勝(松永久秀の弟)を討ち取った、とある。
 この直正、後に、光秀の大きな障害となる。
 これについては、本編にて。
 
  将又(はたまた)、丹州の儀も、
  去る二日、奥郡荻野惣右衛門尉(直正)手前に於いて、
  内藤備前守(宗勝)其の外七百余人討ち捕り候、
  一国平均に成り申し候間、此の砌(みぎり)御出張有るべく候条、

 義俊は、重ねて、謙信の援助を乞うた。
 
  早々御上洛の儀、待ち奉り候、
  是非とも御才覚を以て、御当家御再興此の時に候、
  偏に仰ぐ所に候、

  仍って、扇子十本進献せしめ、賀儀を表す計りに候、
  猶、祐阿(水原)申し入るべく候間、再筆能わず候、
  穴かしこ々々々々、

    八月五日         (花押)
    上杉弾正少弼(謙信)殿
                         (「上杉家文書」)


          ⇒ 次回へつづく 

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