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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 3 161 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 3 光秀の青年時代 

1540年代、光秀の青年時代。

織田信秀と今川義元の戦いが始まった。

 天文十一年(1542) 
 駿河の今川が、西三河に攻め入った。
 義元は、三河を狙っていた。

 尾張の信秀が、これを迎え撃った。
 信秀も、同じである。

第一次小豆坂の合戦。

 同年、八月。
 両勢力が激突した。
 信秀は、三十一~三歳(諸説あり)。
 信長が九歳の時。

  八月上旬、
  駿河衆、三川の国正田(生田)原へ取り出で、七段に人数を備へ候。
  其の折節、
  三川の内、あん城(安祥)と云ふ城、織田備後守かゝへられ侯ひき。
  駿河の由原(いはら=庵原)、先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。  

織田方の勝利である。

 信秀は、激戦のすえ今川勢を撃退した。 
 
  則ち、備後守、あん城より矢はぎ(作)へ懸け出で、
  あづき坂にて、
  備後殿御舎弟衆、与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、
  既に、一戦に取り結び相戦ふ。
 
  其の時、よき働きせし衆。
  織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿。
  織田造酒丞(みきのじょう)殿、是れは鎗きず被(こうむ)られ、
  内藤勝介、是れはよき武者討ちとり高名、
  那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。
  下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・
  神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助。
  三度四度かゝり合ひ、々々々々々、折りしき(頻)て(繰り返して)、
  各(おのおの)手柄と云ふ事限りなし。
 
  前後(この頃から)、きびしき様体是れなり。
 
  爰にて、那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。
  是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。
                          (『信長公記』)

信長は、この戦いを忘れない。

 信長は、この戦いについて、幾度となく、話を聞かされたことだろう。
 現代で言えば、小学1~2年生である。
 その事が深く脳裏に刻み込まれた。
 そして、それは、永禄三年(1560)へ。
 「桶狭間の戦い」
 
へと繋がっていく。
 これから、十八年後のことになる。
 その時、信長は二十七歳に成っていた。

徳川家康、生まれる。

 同年、十二月、。
 岡崎城主松平広忠の嫡男として誕生。
 母は、刈谷城主水野忠政の娘。
 永禄九年(1566)、松平姓を徳川に改めた。

          ⇒ 次回へつづく


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