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本能寺の変 1582 光秀という男 7 122 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 7 美濃の争乱 

1520年代、美濃。

土岐頼武に、嫡男頼純が誕生した。

 大永四年(1524)。
 土岐氏の嫡流。
 頼武の後継者である。
 「御家安泰」
 家中は、沸き立ったことであろう。  

長井長弘と新左衛門が巻き返しを図った。

 大永五年(1525)、六月。
 頼芸派が動いた。
 再び、戦いが始まった。

美濃は、大乱となった。

 同年、八月。
 大規模な合戦が繰り広げられた。

頼芸派が大勝した。

 激戦の末の勝利である。
 長井長弘・新左衛門の大手柄。
 その貢献度は、大きい。 

頼武は、行方知れず(没落)。

 以後、その足跡は消える。
 この戦いで、死去したものと思われる。

 頼純は、まだ二歳。

斎藤利良、死す。

 「于恒宿禰記(ゆきつねすくねき)」によれば、自害したという。 

          ⇒ 次回へつづく

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