見出し画像

本能寺の変 1582 光秀の年齢 1 132 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の年齢 1 三人の娘 

光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。

 忠興は、藤孝の嫡男。
 永禄六年(1563)の生れ。

 天正二年(1574)。
 信長の命により婚約が成立した。
 光秀の娘は、三女とされる。
 忠興と、同年という。
 後の細川ガラシャである。 

  一、天正二年、甲戌(きのえいぬ)、正月、
    藤孝君を始め、諸将、岐阜え至り、年頭の賀を述べらる、

    同十七日、御饗応有り、
    藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井・畠山・中川・
    閉地・関・分部・平塚等なり、

    此の時、信長公仰せに、
    明智光秀の四男を、筒井主殿入道順慶の養子とし、

    光秀の娘を、織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎殿の子なり)に、
    嫁すべき由、

    又、藤孝君に、光秀と縁家たるべきよし、命ぜられ候、

    藤孝君は、忠興君の剛強に過ぎると、言を以って、
    御辞退成され候得ども、

    信長公よりも、教誡を加えらるべき旨にて、再三、仰せによって、
    与一郎君と光秀の息女御縁約の事を、諾せらる。

 天正六年(1578)。
 二人は、結婚した。
 ともに、十六歳。

   一、八月、安土に御出仕、

     同月、忠興君、御婚礼、御整いなされ候、
                          (「綿考輯録」)


          ⇒ 次回へつづく



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?